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レオンの呼吸は、もう浅く、短かった。
サラの祈りが胸元を包んでも、その下で残滓はまだ冷たく這っている。
カイルは弓を持ったまま、いつでも動ける位置にいる。
ユリスはエドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、まっすぐラティアを見ていた。
その視線だけが、今、細い道みたいに見えた。
「……よく見ろ」
ユリスの声が低く落ちる。
「お前が怖がってるのは、相手に直接魔力を流すことだ」
ラティアは息を呑む。
「そう、だよ」
かろうじて返す声は、震えていた。
「触れたら、また……」
その先が言えない。
また傷つける。
また壊す。
その想像だけで、指先が硬くなる。
「なら、触れるな」
短い一言だった。
ラティアが顔を上げる。
ユリスは続けた。
「直接、魔力を流すな」
「先に場を作れ」
場。
その言葉が、胸の中で小さく引っかかった。
ラティアの呼吸が、わずかに止まる。
「……場?」
「結界だ」
ユリスの声は、相変わらず低く、無駄がない。
「小さく張れ」
「レオンを包むだけでいい」
「その中を、お前が浄化する」
サラの目が、そこでわずかに見開かれる。
「……なるほど」
その声に、ラティアもはっとする。
ユリスは視線を逸らさないまま続けた。
「そうすれば、多く流れても、すぐ相手を傷つける形にはなりにくい」
言葉が、ひとつずつ落ちる。
難しいはずなのに、不思議なくらい頭へ入ってきた。
直接触れない。
結界を先に張る。
その中を浄化する。
ラティアの胸の奥で、何かが小さく鳴る。
雪山の春。
あの結界は、閉じこもるためのものだった。
外へ出ないための、静かな囲いだった。
でも今なら。
あれを、誰かを閉じ込めるためじゃなく。
守るために、使えるのかもしれない。
「……できるかな」
思わず漏れた声は、まだ弱かった。
「やれ」
ユリスは即座に言った。
「今できる形でいい」
「完璧にやらなくていいんだ」
「死なせるな」
短い。
でも、その中に必要なものが全部入っていた。
ラティアはレオンを見る。
苦しそうな呼吸。
青ざめた顔。
祈りの下でも消えない、内側の冷たい筋。
怖い。
でも。
今は“直接触れて壊す”しか頭になかった。
そこに別の道を出された瞬間、真っ暗だった場所に、ほんの少しだけ足場ができた気がした。
「サラ」
ラティアが言う。
自分でも驚くくらい、声が少しだけ落ち着いていた。
「今の祈り、少しだけ外側へ広げられる?」
サラはすぐに頷いた。
「はい」
「結界の輪郭を支える形であれば」
「お願いします」
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
レオンに触れないぎりぎりの位置で、両手をかざす。
目を閉じる。
直接、内側へ入らない。
先に、小さく囲う。
レオンを包むだけの、薄い膜。
柔らかくて、壊れにくい、透明な春の膜みたいなもの。
「……っ」
最初はうまくいかない。
いつものように魔力を“流そう”としてしまって、指先がぶれる。
だめ。
違う。
ぶつけない。
満たす。
囲った中を、少しずつ変えていく。
冷たい澱みが息をしにくい場所へ。
残滓が留まりにくい、澄んだ流れへ。
雪山の春を思い出す。
冷たい外。
その中で、自分の周りだけ少し温んでいた空気。
花が咲くほどではなくても、息ができる場所。
今は、それをレオンのまわりに。
「ラティアさん、そのままです」
サラの声が静かに支える。
白い祈りの光が、ラティアの広げた輪郭へ沿って薄く広がった。
結界の輪郭が、少しだけ安定する。
「焦らなくていい」
レオンの体に直接触れていないのに、その周囲の空気が少しだけ変わるのが分かる。
冷たい筋の動きが、わずかに鈍る。
「……動きが」
ラティアが小さく呟く。
「遅くなってる」
レオンの内側を這っていた残滓が、結界の中で息苦しそうに滞り始める。
サラがすぐに応じた。
「ええ、効いています」
「そのまま、急がず」
カイルが息を呑む気配がした。
「すげえ……」
でも、まだ終わっていない。
薄くなっただけだ。
消えてはいない。
ラティアは息を整える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
今度は、結界の中にやわらかい光を満たしていく。
焼くんじゃない。
押し流すんでもない。
澱みが、そこに居づらくなるように。
少しずつ。
春の雪がほどけるみたいに。
レオンの呼吸が、ひとつ、強く引きつった。
ラティアの心臓が跳ねる。
でも、逃げない。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「大丈夫」
ユリスの声が落ちる。
「見るな、怖さの方を」
「やることに集中しろ」
その一言で、また少しだけ手元が定まる。
ラティアはレオンの内側そのものじゃなく、結界の中の流れを見る。
淀んだ冷たさ。
そこへ少しずつ入り込む、澄んだあたたかさ。
直接ぶつけなくていい。
結界が、一度受けてくれる。
その安心が、初めて指先から肩へ届いた。
「……剥がれる」
ラティアが息の下で言う。
細い黒い筋が、少しずつ、結界の外側へ押し出されていく。
サラが祈りを重ねる。
「出てきたものは、こちらで押さえます」
白い光が、にじみ出た黒を包む。
ラティアはさらに集中した。
怖い。
でも今は、その怖さより、できることの方が見えている。
レオンの呼吸が、さっきよりほんの少し深くなる。
ひゅう、と細かった音が、少しだけ長く続いた。
「……っ」
ラティアの目に、思わず熱が集まる。
まだ助かったわけじゃない。
でも、戻り始めている。
「そのまま」
ユリスの声が、今度は少しだけやわらかかった。
「いい」
その一言が、胸の奥へ深く落ちる。
ラティアは小さく頷く。
結界の中を、さらに澄ませる。
春の空気。
雪解けの水。
息ができる場所。
やがて、最後に残っていた冷たい筋が、ゆっくりと浮き上がった。
サラの祈りが、それを逃さず包み込む。
白い光の中で、黒は小さく震え、音もなく崩れた。
静寂。
ほんの一瞬、誰も動かなかった。
ラティアは両手をかざしたまま、息を止める。
結界の中に、もうあの嫌な冷たさはない。
少し遅れて、レオンの胸が、今度はちゃんと上下した。
浅いけれど、さっきみたいな途切れ方じゃない。
「……呼吸が戻ってる」
サラの声が、ほっとほどける。
カイルが長く息を吐いた。
「助かった、のか」
「まだ安静は必要です」
サラがすぐに言う。
「でも、峠は越えました」
その言葉を聞いた瞬間、ラティアの肩から一気に力が抜けた。
結界がゆっくりほどける。
視界が少し揺れる。
倒れそうになったところで、誰かの手が肩を支えた。
ユリスだった。
エドガルド補佐を床へ押さえつける位置を変えながら、空いた腕で、ほんの一瞬だけラティアを支える。
「よくやった」
短い声。
でも、その一言を聞いた途端、ラティアの中で張りつめていたものが一気に崩れた。
「……っ」
喉が詰まる。
息を吸った瞬間、熱いものがせり上がってきた。
自分でも止める間もなく、ぽろりと涙が落ちる。
「あ……」
慌てて拭おうとしたのに、次から次へと零れて止まらない。
安心したのだと、少し遅れて分かった。
怖かった。
間に合わないかもしれないのが、怖かった。
自分がまた傷つけるかもしれないのも、怖かった。
その全部が、今さらみたいに胸の奥から溢れてくる。
「ラティア」
サラが驚いたように名を呼ぶ。
でもラティアは首を振ることしかできない。
「ご、ごめ……」
声まで震えて、うまく言葉にならない。
涙がぽろぽろと落ちて、止まらない。
レオンの呼吸が戻ったのを見た途端、もう堪えられなかった。
「よかっ……た……」
やっとのことでそれだけ言うと、また涙が溢れる。
カイルが気まずそうに頭をかいた。
「泣くなって言いてえけど、今は無理だなこれ」
ぶっきらぼうなその声が、逆に少しだけやさしかった。
ユリスは何も言わなかった。
ただ、肩を支えていた手を離さない。
無理に止めようともしない。
落ち着けとも言わない。
その沈黙が、今はありがたかった。
ラティアは涙を拭っても拭っても零れてくるのに困りながら、震える息を整えようとする。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
でも途中でまたしゃくりあげそうになる。
そんなラティアを見て、サラがそっとハンカチを差し出した。
「……どうぞ」
「ありがと……」
受け取って目元を押さえる。
けれど、それでも涙は止まらなかった。
その時だった。
床に伏せていたレオンの指先が、かすかに動く。
ラティアの呼吸が止まる。
それから、薄く開いた目が、ゆっくりこちらを向いた。
焦点はまだ少し曖昧だ。
でも、ちゃんと戻ってきている。
「……レオン」
ラティアが泣いたまま名を呼ぶと、レオンの唇がほんの少しだけ動いた。
「……そんなに、泣く……?」
掠れた、小さな声だった。
でも、それだけで十分だった。
ラティアの目からまた涙が溢れる。
「だって……」
言い返したいのに、また喉が詰まる。
レオンはまだ苦しそうなのに、それでもほんの少しだけ笑った気がした。
「助かって、よかった……」
ラティアがそう言うと、レオンは目を細める。
その表情を見た瞬間、ようやく本当に間に合ったのだと実感が胸に落ちた。
ラティアはハンカチを握りしめたまま、何度も涙を拭った。
それでもしばらく、ぽろぽろと止まらなかった。
少しして、ようやく呼吸が落ち着きはじめた頃。
ラティアはまだ濡れた目のまま、ユリスを見た。
ユリスも、まっすぐこちらを見返していた。
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
それから、少しだけ笑った。
「ユリスはすごいね」
ユリスの眉が、わずかに動く。
ラティアは続けた。
「いつも私に新しい道を示してくれる」
部屋が、ほんの一瞬だけ静かになる。
ユリスは何も言わなかった。
でも、その沈黙は冷たくなかった。
目を逸らさなかったのに、どこかだけ少しだけ揺れた気がした。
カイルがその空気を崩すみたいに、わざとらしく咳払いする。
「……はいはい、感動はあとにしろ」
「まだ終わってねえぞ」
そのぶっきらぼうさに、ラティアは少しだけ笑ってしまう。
サラも、ほっと息をついたまま小さく頷いた。
「ええ。でも、間に合いました」
床に伏せていたレオンの指先が、もう一度かすかに動く。
その小さな動きに、ラティアの胸がまたぎゅっと鳴る。
助かった。
まだ完全じゃない。
でも、ちゃんと戻ってきている。
エドガルド補佐は、床に押さえつけられたまま黙っていた。
さっきまでの余裕はもう顔にない。
けれど、それでも何も言わない。
ユリスの剣先が、わずかに喉元へ寄る。
「次はお前だ」
低い声だった。
その冷たさに、部屋の空気がまた少しだけ張る。
けれど今、ラティアの胸の中にあるのは、さっきまでの恐怖だけではなかった。
怖くて、動けなくて、それでも。
別の道があれば、自分は助ける方へ行ける。
その手応えだけが、指先にまだ残っていた。




