73
控えの間の空気は、張りつめすぎて音まで尖っていた。
レオンの浅い呼吸。
サラの祈り。
床に散った湯と、砕けた器の破片。
壁へ押さえつけられたエドガルド補佐の、静かすぎる沈黙。
全部が同じ部屋の中にあるのに、どれも遠く感じる。
ラティアは床に膝をついたまま、レオンへ伸ばした手を止めていた。
あと少し。
ほんの少し指を伸ばせば届くのに、その最後の距離がどうしても埋まらない。
レオンの体の内側を、冷たいものが這っている。
見えるわけじゃない。
でも分かる。
細く、深く、残滓が血の流れに沿うみたいに入り込んでいる。
ただ表面に張りついているのではない。
奥へ、奥へと沈みながら、体そのものを冷やしている。
サラの祈りの光が胸元を包んでも、その下で黒いものはまだじわじわと広がっていた。
「……っ、は……」
レオンの喉が小さく震える。
息が浅い。
それだけで、ラティアの胸が強く縮んだ。
「レオン様、しっかり」
サラが祈りを重ねる。
けれど声は、もう落ち着ききれていなかった。
「応答してください」
返事はない。
レオンの視線は半ば開いているのに、どこも見ていない。
呼吸をするたび、喉の奥でかすれた音が鳴る。
「……長くは持ちません」
サラの声が、今度こそはっきりと落ちた。
その一言で、ラティアの背筋が凍る。
間に合わないかもしれない。
その現実だけが、急に鮮明になった。
「ラティア!」
カイルの声が飛ぶ。
「お前、見えてんだろ!」
分かってる。
見えている。
分かっている。
だからこそ怖い。
どこへ触れればいいか。
どこから剥がせばいいか。
全部があまりにも近くて、あまりにも危うい。
手を入れた瞬間、自分の魔力まで一緒に流れ込んだらどうなる。
また焼くかもしれない。
また壊すかもしれない。
助けようとして、余計に傷つけるかもしれない。
その怖さが、指先を凍らせる。
「……無理」
喉の奥から、ひどく小さい声がこぼれた。
ラティアは首を振る。
「わたし、また……」
その先が続かない。
昔、レオンを傷つけた時のことが、嫌なくらい鮮明によみがえる。
あの時も、止めたかった。
傷つけたくなかった。
それなのに、うまく加減ができなかった。
雪山へ逃げたのは、その怖さからだった。
54話で、また同じものを見た。
守ろうとしたはずなのに、向こうまで焼きかけた。
その感覚が、今もまだ腕の奥に残っている気がした。
「ラティアさん」
サラが呼ぶ。
祈りを維持したまま、必死に言葉を繋ぐ。
「今、残滓に届けるのは……おそらく、あなたです」
分かってる。
分かってるのに、手が出ない。
レオンの指先が、小さく痙攣した。
その一瞬で、ラティアの呼吸が止まる。
「レオン」
思わず名を呼ぶ。
返事はない。
でも、レオンの唇がわずかに動いた気がした。
音にはならない。
声にもならない。
それでも、その小さな動きだけで、胸の中の何かがひどく痛んだ。
「……っ」
ラティアは再び手を伸ばす。
今度こそ触れようとする。
けれど、触れる寸前でまた止まる。
冷たい。
触れる前から、レオンの中の残滓の冷たさが分かってしまう。
その向こうに自分の魔力を流し込む想像をしただけで、指先がすくんだ。
「何やってる」
低い声だった。
ユリスだ。
エドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、まっすぐこちらを見ている。
その目に焦りはない。
でも、冷たいだけでもなかった。
「助けたいんだろ」
短い。
責める声ではない。
けれど、逃がさない声だった。
ラティアの喉が詰まる。
「助けたい、けど……」
「また傷つけるかもしれない」
ようやく出た言葉は、ひどく弱かった。
それを口にしてしまった瞬間、自分がどれだけ怯えているのか分かってしまう。
カイルが低く舌打ちした。
「今さら怖がってる場合かよ」
けれどその言い方の奥に、焦りがあるのも分かった。
時間がないのだ。
誰だって分かっている。
「カイル」
サラが鋭く制す。
「今は煽らないでください」
その間にも、祈りの光が少しずつ薄くなる。
サラの額には汗が滲んでいた。
押さえ続けるだけでも、限界が近い。
エドガルド補佐が、その時ふと小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
でも、その静かすぎる音が妙に耳についた。
ユリスの剣先が、ほんのわずかに喉元へ食い込む。
「余計なことを言うな」
エドガルド補佐は目を伏せる。
「言いませんよ」
静かな声だった。
「もう十分でしょう」
ラティアの背筋に冷たいものが走る。
もう十分。
つまりこの人は、レオンがこうなるところまで含めて、全部分かっていたのだ。
「……最低」
思わず吐き捨てると、補佐は何も返さない。
その無反応が、余計に気持ち悪かった。
ラティアはもう一度レオンを見る。
顔色が悪い。
唇も少し白い。
苦しそうなのに、声も出ない。
「いや……」
胸がぎゅっと痛む。
このまま見ているだけなんて、もっと無理だ。
助けたい。
怖い。
助けたい。
でも、壊すかもしれない。
その二つが、胸の中でぶつかって、息がうまく入らない。
「ラティア、息をしろ」
低い声が落ちる。
ユリスだった。
ラティアがはっとする。
「吸え」
短い声に従うみたいに、息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
けれど吐く前に、また視線がレオンへ戻る。
苦しそうだ。
浅い呼吸。
震える指先。
祈りの光の下でも消えない、体内の冷たい筋。
「……無理、じゃない」
自分に言い聞かせるみたいに、ラティアは呟く。
でも、その言葉にはまだ力がなかった。
サラがレオンの胸元へ手をかざしたまま、苦しげに言う。
「私の祈りだけでは、押さえ込むのが限界です」
「剥がせません」
カイルが苛立ちを隠さずに言った。
「じゃあやっぱりラティアしかねえだろ!」
「分かってる!」
ラティアの声が思わず大きくなる。
自分でも驚くほど、切羽詰まった声だった。
「分かってる、けど……!」
そこでまた言葉が途切れる。
分かっている。
だから苦しい。
やらなければいけない。
でも、やり方が分からない。
直接、触れる。
直接、流す。
直接、剥がす。
その想像のどれもが、自分の中では“壊すかもしれない”方へ繋がってしまう。
レオンのまつ毛が、かすかに震えた。
焦点の合わない目が、一瞬だけこちらを向いた気がした。
本当にそうだったのかは分からない。
でも、その一瞬が、ラティアの胸を強く打った。
助けを求めたわけじゃない。
そんな余裕も、もうないのだろう。
それでも。
このままではだめだと、ようやく体が理解する。
ラティアは震える手を、やっとレオンの胸元へ近づけた。
触れない。
まだ触れられない。
でも、今度は引かなかった。
指先のすぐ下に、冷たい残滓の流れがある。
見えないのに分かる。
その冷たさに飲まれそうになった瞬間。
「直接流すな」
ユリスの声が、低く、鋭く落ちた。
ラティアがはっと顔を上げる。
ユリスはエドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、こちらを見ていた。
視線はまっすぐだった。
「お前が怖がってるのは、相手に直接触れるからだ」
短い。
けれど、その一言がラティアの中で止まる。
直接。
相手に、直接。
たしかに、ずっとそこしか考えていなかった。
触れて、流して、剥がす。
でもそれしかないのか。
ラティアの呼吸が、そこでわずかに変わる。
ユリスの声が、もう一度落ちた。
「ラティア」
その呼び方だけで、胸の奥が小さく揺れる。
「よく見ろ」
「お前の力は、それだけじゃない」
その言葉に、ラティアの指先が止まる。
それだけじゃない。
レオンの浅い呼吸。
サラの祈り。
カイルの焦り。
壁際のユリスの視線。
全部が張りつめたまま止まっている中で、その一言だけが、暗闇の中に細い道みたいに落ちた。
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
まだ答えは見えていない。
でも、何かがほんの少しだけ変わりかけている。
レオンの呼吸は、もう浅く、短かった。
時間はない。
それでも、さっきまでより少しだけ、目の前の暗さが真っ黒ではなくなった気がした。




