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控えの間の空気は、張りつめすぎて音まで尖っていた。


レオンの浅い呼吸。

サラの祈り。

床に散った湯と、砕けた器の破片。

壁へ押さえつけられたエドガルド補佐の、静かすぎる沈黙。


全部が同じ部屋の中にあるのに、どれも遠く感じる。


ラティアは床に膝をついたまま、レオンへ伸ばした手を止めていた。


あと少し。

ほんの少し指を伸ばせば届くのに、その最後の距離がどうしても埋まらない。


レオンの体の内側を、冷たいものが這っている。


見えるわけじゃない。

でも分かる。


細く、深く、残滓が血の流れに沿うみたいに入り込んでいる。

ただ表面に張りついているのではない。

奥へ、奥へと沈みながら、体そのものを冷やしている。


サラの祈りの光が胸元を包んでも、その下で黒いものはまだじわじわと広がっていた。


「……っ、は……」


レオンの喉が小さく震える。


息が浅い。


それだけで、ラティアの胸が強く縮んだ。


「レオン様、しっかり」


サラが祈りを重ねる。


けれど声は、もう落ち着ききれていなかった。


「応答してください」


返事はない。


レオンの視線は半ば開いているのに、どこも見ていない。

呼吸をするたび、喉の奥でかすれた音が鳴る。


「……長くは持ちません」


サラの声が、今度こそはっきりと落ちた。


その一言で、ラティアの背筋が凍る。


間に合わないかもしれない。


その現実だけが、急に鮮明になった。


「ラティア!」


カイルの声が飛ぶ。


「お前、見えてんだろ!」


分かってる。


見えている。

分かっている。

だからこそ怖い。


どこへ触れればいいか。

どこから剥がせばいいか。

全部があまりにも近くて、あまりにも危うい。


手を入れた瞬間、自分の魔力まで一緒に流れ込んだらどうなる。


また焼くかもしれない。

また壊すかもしれない。

助けようとして、余計に傷つけるかもしれない。


その怖さが、指先を凍らせる。


「……無理」


喉の奥から、ひどく小さい声がこぼれた。


ラティアは首を振る。


「わたし、また……」


その先が続かない。


昔、レオンを傷つけた時のことが、嫌なくらい鮮明によみがえる。


あの時も、止めたかった。

傷つけたくなかった。

それなのに、うまく加減ができなかった。


雪山へ逃げたのは、その怖さからだった。


54話で、また同じものを見た。

守ろうとしたはずなのに、向こうまで焼きかけた。


その感覚が、今もまだ腕の奥に残っている気がした。


「ラティアさん」


サラが呼ぶ。


祈りを維持したまま、必死に言葉を繋ぐ。


「今、残滓に届けるのは……おそらく、あなたです」


分かってる。


分かってるのに、手が出ない。


レオンの指先が、小さく痙攣した。


その一瞬で、ラティアの呼吸が止まる。


「レオン」


思わず名を呼ぶ。


返事はない。


でも、レオンの唇がわずかに動いた気がした。


音にはならない。

声にもならない。


それでも、その小さな動きだけで、胸の中の何かがひどく痛んだ。


「……っ」


ラティアは再び手を伸ばす。


今度こそ触れようとする。


けれど、触れる寸前でまた止まる。


冷たい。


触れる前から、レオンの中の残滓の冷たさが分かってしまう。

その向こうに自分の魔力を流し込む想像をしただけで、指先がすくんだ。


「何やってる」


低い声だった。


ユリスだ。


エドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、まっすぐこちらを見ている。


その目に焦りはない。

でも、冷たいだけでもなかった。


「助けたいんだろ」


短い。


責める声ではない。

けれど、逃がさない声だった。


ラティアの喉が詰まる。


「助けたい、けど……」


「また傷つけるかもしれない」


ようやく出た言葉は、ひどく弱かった。


それを口にしてしまった瞬間、自分がどれだけ怯えているのか分かってしまう。


カイルが低く舌打ちした。


「今さら怖がってる場合かよ」


けれどその言い方の奥に、焦りがあるのも分かった。


時間がないのだ。


誰だって分かっている。


「カイル」


サラが鋭く制す。


「今は煽らないでください」


その間にも、祈りの光が少しずつ薄くなる。


サラの額には汗が滲んでいた。


押さえ続けるだけでも、限界が近い。


エドガルド補佐が、その時ふと小さく息を吐いた。


笑ったわけではない。

でも、その静かすぎる音が妙に耳についた。


ユリスの剣先が、ほんのわずかに喉元へ食い込む。


「余計なことを言うな」


エドガルド補佐は目を伏せる。


「言いませんよ」


静かな声だった。


「もう十分でしょう」


ラティアの背筋に冷たいものが走る。


もう十分。


つまりこの人は、レオンがこうなるところまで含めて、全部分かっていたのだ。


「……最低」


思わず吐き捨てると、補佐は何も返さない。


その無反応が、余計に気持ち悪かった。


ラティアはもう一度レオンを見る。


顔色が悪い。

唇も少し白い。

苦しそうなのに、声も出ない。


「いや……」


胸がぎゅっと痛む。


このまま見ているだけなんて、もっと無理だ。


助けたい。

怖い。

助けたい。

でも、壊すかもしれない。


その二つが、胸の中でぶつかって、息がうまく入らない。


「ラティア、息をしろ」


低い声が落ちる。


ユリスだった。


ラティアがはっとする。


「吸え」


短い声に従うみたいに、息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


けれど吐く前に、また視線がレオンへ戻る。


苦しそうだ。


浅い呼吸。

震える指先。

祈りの光の下でも消えない、体内の冷たい筋。


「……無理、じゃない」


自分に言い聞かせるみたいに、ラティアは呟く。


でも、その言葉にはまだ力がなかった。


サラがレオンの胸元へ手をかざしたまま、苦しげに言う。


「私の祈りだけでは、押さえ込むのが限界です」


「剥がせません」


カイルが苛立ちを隠さずに言った。


「じゃあやっぱりラティアしかねえだろ!」


「分かってる!」


ラティアの声が思わず大きくなる。


自分でも驚くほど、切羽詰まった声だった。


「分かってる、けど……!」


そこでまた言葉が途切れる。


分かっている。

だから苦しい。


やらなければいけない。

でも、やり方が分からない。


直接、触れる。

直接、流す。

直接、剥がす。


その想像のどれもが、自分の中では“壊すかもしれない”方へ繋がってしまう。


レオンのまつ毛が、かすかに震えた。


焦点の合わない目が、一瞬だけこちらを向いた気がした。


本当にそうだったのかは分からない。

でも、その一瞬が、ラティアの胸を強く打った。


助けを求めたわけじゃない。

そんな余裕も、もうないのだろう。


それでも。


このままではだめだと、ようやく体が理解する。


ラティアは震える手を、やっとレオンの胸元へ近づけた。


触れない。

まだ触れられない。


でも、今度は引かなかった。


指先のすぐ下に、冷たい残滓の流れがある。

見えないのに分かる。


その冷たさに飲まれそうになった瞬間。


「直接流すな」


ユリスの声が、低く、鋭く落ちた。


ラティアがはっと顔を上げる。


ユリスはエドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、こちらを見ていた。


視線はまっすぐだった。


「お前が怖がってるのは、相手に直接触れるからだ」


短い。

けれど、その一言がラティアの中で止まる。


直接。


相手に、直接。


たしかに、ずっとそこしか考えていなかった。


触れて、流して、剥がす。


でもそれしかないのか。


ラティアの呼吸が、そこでわずかに変わる。


ユリスの声が、もう一度落ちた。


「ラティア」


その呼び方だけで、胸の奥が小さく揺れる。


「よく見ろ」


「お前の力は、それだけじゃない」


その言葉に、ラティアの指先が止まる。


それだけじゃない。


レオンの浅い呼吸。

サラの祈り。

カイルの焦り。

壁際のユリスの視線。


全部が張りつめたまま止まっている中で、その一言だけが、暗闇の中に細い道みたいに落ちた。


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


まだ答えは見えていない。

でも、何かがほんの少しだけ変わりかけている。


レオンの呼吸は、もう浅く、短かった。


時間はない。


それでも、さっきまでより少しだけ、目の前の暗さが真っ黒ではなくなった気がした。


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