72
手記を閉じたあとも、机の上の紙は減らなかった。
ゼウランの思想は見えてきた。
けれど、今の王都へどう繋がっているのか、どこで誰が手を貸したのか――そこを埋めるための記録は、まだ山のように残っている。
控えの間には、紙をめくる音だけが続いていた。
レオンは神殿側の索引と魔導院の移管記録を並べ、何枚も何枚も見比べている。
サラはその横で祈祷式関連の記録を拾い、補助線や灯楼の管理簿を確かめていた。
カイルは椅子の背へ腕をかけていたが、退屈そうに見えて、ちゃんと二人の手元を追っている。
ユリスは少し離れた位置で、部屋全体を見ていた。
ラティアは机の端に座り、昨日までの記録の束を見下ろす。
文字からは何も感じない。
それなのに、読まれる言葉ばかりが胸を重くする。
「休まねえのか」
カイルがぼそりと言った。
レオンは顔も上げない。
「今止まる方が気持ち悪い」
「嫌な集中の仕方してんな」
「知ってる」
短いやりとりだった。
その時、控えめなノックがした。
「失礼いたします」
エドガルド補佐だった。
片手に新しい書類束。
もう片方には、湯気の立つ盆を持っている。
「追加で拾えた移管簿です」
穏やかな声。
整った所作。
乱れのない表情。
そのまま机の端へ書類を置き、もう一方の盆を静かに下ろした。
湯呑みが五つ並んでいる。
「長くなりますでしょうから」
「ありがとうございます」
サラがまず礼を言った。
レオンは紙から目を離さないまま、手だけを伸ばして湯呑みを受け取る。
「助かります」
ラティアも一つ渡された。
両手で包むと、あたたかい。
香りもごく普通だった。
何か変なものを感じるわけではない。
残り香も、澱みもない。
エドガルド補佐はいつも通りの穏やかな顔で、軽く一礼した。
「私は別棚の確認をして参ります」
「必要があればお呼びください」
扉が閉まる。
小さな静けさが戻った。
「ほんと仕事が早いな」
カイルが湯呑みを傾けながら言う。
レオンは返事の代わりに、新しい移管簿へ手を伸ばした。
数枚めくる。
止まる。
また戻す。
その動きが、少しずつ鋭くなっていく。
ラティアはその横顔を見る。
さっきまでの重さとは少し違う。
何か、見つけかけている顔だった。
「……あ」
ごく小さく、レオンが声を漏らした。
サラがすぐに顔を上げる。
「何か」
「これ」
レオンは神殿側の記録を一枚引き抜き、すぐに別の束から魔導院側の記録を並べた。
「同じだ」
「何がですか」
サラが身を乗り出す。
レオンは紙の端を指で叩く。
「注記の入れ方」
「保管番号の横に入ってる補足記号、神殿式と魔導院式で本来は違う」
「でも、ここだけ同じ癖で直されてる」
カイルが顔をしかめた。
「そんなの分かるのかよ」
「分かるよ」
レオンの声は低い。
「しかも、この直し方が入ってるの、ゼウラン関係の移管記録ばかりだ」
部屋の空気が変わる。
ラティアは守り紐へそっと触れた。
レオンはもう止まらなかった。
紙を次々と広げる。
「神殿側で資料を抜いてる」
「魔導院側でも同じ時期に閲覧制限が入ってる」
「しかも両方とも、削り方が似すぎてる」
サラの目が鋭くなる。
「では……」
「内部に、両方へいじってる人間がいる」
レオンが言い切った。
「共同管理の責任者級か、少なくとも両方の棚を動かせる補佐役」
カイルが椅子から体を起こす。
「そこまで絞れるのか」
「絞れる」
レオンははっきり頷いた。
そのまま、机の上の一枚を指先で押さえた。
「しかも、この追記癖――」
そこまで言った時だった。
レオンの手が、ぴたりと止まる。
一瞬だけ、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間、湯呑みが机の端から滑り落ちた。
硬い音を立てて割れる。
「レオン?」
ラティアが立ち上がる。
レオンは返事をしない。
紙を押さえていた指先が震えている。
「……っ」
喉を押さえるみたいに、もう片方の手が胸元へ上がる。
呼吸が、明らかにおかしい。
サラが椅子を引いた。
「レオン様!」
レオンが浅く息を吸う。
けれど、その息は途中で引きつった。
「が、っ……」
苦しそうな音と一緒に、膝が折れる。
カイルがとっさに腕を伸ばしたが、間に合わない。
レオンは机へ肩をぶつけ、そのまま床へ崩れ落ちた。
「レオン!」
ラティアの声が裏返る。
その瞬間だった。
胸の奥が、ぞわりと冷えた。
今まで何も感じなかったのに、今は分かる。
レオンの中だ。
見えない内側を、冷たいものが這っている。
黒い靄じゃない。
もっと細く、もっと深く、体の内側へ回り込む残滓の流れ。
「だめ……!」
ラティアは思わず一歩踏み出す。
「残滓が、内側に――!」
その声に、空気がさらに張り詰める。
ユリスの視線が、一瞬で扉の方へ飛んだ。
そこに、もう一人いた。
いつの間に戻ってきたのか、エドガルド補佐が扉の前に立っていた。
扉は閉まっている。
その前に、静かに。
穏やかな顔のまま。
ただ、目だけが少し違っていた。
「……やはり」
その声は、いつもと同じ落ち着いた調子だった。
「そこまで辿り着かれましたか」
ラティアの背筋が凍る。
カイルの弓が一気に持ち上がる。
「てめえ――」
ユリスはすでに剣を抜いていた。
レオンは床に片膝をついたまま、苦しげに息をしている。
顔色がみるみる落ちていく。
「茶か」
ユリスの声は低かった。
エドガルド補佐は否定もしない。
「補佐が湯を運ぶのは、不自然ではありませんから」
その言い方が、ひどく静かだった。
怒りも、焦りもない。
ただ、前から用意していたことをそのまま口にしているだけのような声。
ラティアの喉が強く締まる。
「なんで……」
エドガルド補佐の視線が、初めてラティアへ向く。
「頭の回る方から落とすのは、当然でしょう」
その一言で、カイルの矢が飛んだ。
だがその直前、ユリスがさらに速く動いていた。
一歩で距離を詰め、補佐を壁へ叩きつける。
鈍い音。
剣の切っ先が喉元へ届く。
「動くな」
低い声だった。
それだけで、空気が震える。
エドガルド補佐の手から、小さな硝子片が床へ落ちた。
砕ける。
そこから黒い粉のようなものが散った。
サラが息を呑む。
「残滓……!」
「自害防止だ」
ユリスが鋭く言う。
「カイル、拾うな」
「分かってる!」
カイルは矢をつがえたまま位置を変え、粉に触れないよう床を睨む。
その間にも、レオンの呼吸は悪くなる一方だった。
「……っ、は……」
浅い。
速い。
喉を焼かれているみたいな息。
ラティアはしゃがみ込む。
レオンの腕に触れようとして、指が止まる。
冷たい。
外からじゃない。
中から冷えている。
「サラ!」
カイルが叫ぶ。
「どうにかなんねえのか!」
サラがすぐ膝をつき、祈りを重ねる。
白い光がレオンの胸元を包む。
けれど、それで終わらない。
サラの顔がすぐに強張る。
「だめです……!」
「抑えられても、剥がしきれない」
ラティアの胸が強く打つ。
残滓は体の内側へ回っている。
血の流れに沿うみたいに、深く。
しかも、普通の毒と違う。
祈りで押さえ込んでも、その下でまだじわじわと広がっていく。
「レオン」
呼んでも、返事はない。
レオンは目を開けている。
でも、焦点が定まっていない。
苦しいのに、声すらうまく出せない。
その顔を見た瞬間、ラティアの指先が凍った。
昔の記憶が、嫌なくらい鮮明に蘇る。
傷つけた時のこと。
雪山へ逃げたこと。
孤児院で暴走しかけたあの瞬間のこと。
守りたいのに、壊すかもしれない。
その怖さが、一気に喉元までせり上がる。
「……っ」
手が出ない。
目の前にいるのに。
助けなきゃいけないのに。
「ラティア!」
カイルの声が飛ぶ。
「お前しか分かんねえだろ!」
分かる。
分かるのに、体が動かない。
レオンの内側を這う残滓が見える。
冷たくて、細くて、でも確かに命の方へ食い込んでいく。
触れたらどうなる。
流しすぎたらどうなる。
また、自分が――
「……だめ」
ほとんど息みたいな声だった。
「わたし、また――」
言葉が切れる。
ユリスがエドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、こちらを見る。
その目は冷たい。
けれど、ラティアへ向ける時だけ、少しだけ違った。
「死なせるな」
短い。
鋭い。
それ以上の言葉はない。
でも、その一言が逃げ場をなくした。
ラティアはレオンを見る。
苦しそうな呼吸。
青ざめた顔。
床へ落ちた指先。
間に合わなかったら。
その考えが、頭の中を真っ白にする。
サラの祈りが震え始めていた。
「……長くは持ちません」
その声が、静かな絶望みたいに落ちる。
ラティアの心臓が強く鳴る。
今、やらなければいけない。
でも、怖い。
怖いのに、時間だけがなくなっていく。
床に落ちたレオンの呼吸が、また一つ浅く途切れた。
そこで、ラティアはようやく膝をついた。
震える手を、レオンの方へ伸ばす。
でも、触れる寸前でまた止まる。
指先が、どうしても前へ出ない。
「……レオン」
小さく呼ぶ声は、ひどく頼りなかった。
助けたい。
でも、助け方が分からない。
目の前にある命へ、手を伸ばせない自分が、何より怖かった。
その場に満ちる張りつめた静けさの中で、レオンの浅い呼吸だけが、やけに大きく響いていた。




