表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/74

72

手記を閉じたあとも、机の上の紙は減らなかった。


ゼウランの思想は見えてきた。

けれど、今の王都へどう繋がっているのか、どこで誰が手を貸したのか――そこを埋めるための記録は、まだ山のように残っている。


控えの間には、紙をめくる音だけが続いていた。


レオンは神殿側の索引と魔導院の移管記録を並べ、何枚も何枚も見比べている。

サラはその横で祈祷式関連の記録を拾い、補助線や灯楼の管理簿を確かめていた。

カイルは椅子の背へ腕をかけていたが、退屈そうに見えて、ちゃんと二人の手元を追っている。

ユリスは少し離れた位置で、部屋全体を見ていた。


ラティアは机の端に座り、昨日までの記録の束を見下ろす。


文字からは何も感じない。

それなのに、読まれる言葉ばかりが胸を重くする。


「休まねえのか」


カイルがぼそりと言った。


レオンは顔も上げない。


「今止まる方が気持ち悪い」


「嫌な集中の仕方してんな」


「知ってる」


短いやりとりだった。


その時、控えめなノックがした。


「失礼いたします」


エドガルド補佐だった。


片手に新しい書類束。

もう片方には、湯気の立つ盆を持っている。


「追加で拾えた移管簿です」


穏やかな声。

整った所作。

乱れのない表情。


そのまま机の端へ書類を置き、もう一方の盆を静かに下ろした。


湯呑みが五つ並んでいる。


「長くなりますでしょうから」


「ありがとうございます」


サラがまず礼を言った。


レオンは紙から目を離さないまま、手だけを伸ばして湯呑みを受け取る。


「助かります」


ラティアも一つ渡された。


両手で包むと、あたたかい。

香りもごく普通だった。


何か変なものを感じるわけではない。

残り香も、澱みもない。


エドガルド補佐はいつも通りの穏やかな顔で、軽く一礼した。


「私は別棚の確認をして参ります」


「必要があればお呼びください」


扉が閉まる。


小さな静けさが戻った。


「ほんと仕事が早いな」


カイルが湯呑みを傾けながら言う。


レオンは返事の代わりに、新しい移管簿へ手を伸ばした。


数枚めくる。

止まる。

また戻す。


その動きが、少しずつ鋭くなっていく。


ラティアはその横顔を見る。


さっきまでの重さとは少し違う。

何か、見つけかけている顔だった。


「……あ」


ごく小さく、レオンが声を漏らした。


サラがすぐに顔を上げる。


「何か」


「これ」


レオンは神殿側の記録を一枚引き抜き、すぐに別の束から魔導院側の記録を並べた。


「同じだ」


「何がですか」


サラが身を乗り出す。


レオンは紙の端を指で叩く。


「注記の入れ方」


「保管番号の横に入ってる補足記号、神殿式と魔導院式で本来は違う」


「でも、ここだけ同じ癖で直されてる」


カイルが顔をしかめた。


「そんなの分かるのかよ」


「分かるよ」


レオンの声は低い。


「しかも、この直し方が入ってるの、ゼウラン関係の移管記録ばかりだ」


部屋の空気が変わる。


ラティアは守り紐へそっと触れた。


レオンはもう止まらなかった。


紙を次々と広げる。


「神殿側で資料を抜いてる」


「魔導院側でも同じ時期に閲覧制限が入ってる」


「しかも両方とも、削り方が似すぎてる」


サラの目が鋭くなる。


「では……」


「内部に、両方へいじってる人間がいる」


レオンが言い切った。


「共同管理の責任者級か、少なくとも両方の棚を動かせる補佐役」


カイルが椅子から体を起こす。


「そこまで絞れるのか」


「絞れる」


レオンははっきり頷いた。


そのまま、机の上の一枚を指先で押さえた。


「しかも、この追記癖――」


そこまで言った時だった。


レオンの手が、ぴたりと止まる。


一瞬だけ、何が起きたのか分からなかった。


次の瞬間、湯呑みが机の端から滑り落ちた。


硬い音を立てて割れる。


「レオン?」


ラティアが立ち上がる。


レオンは返事をしない。


紙を押さえていた指先が震えている。


「……っ」


喉を押さえるみたいに、もう片方の手が胸元へ上がる。


呼吸が、明らかにおかしい。


サラが椅子を引いた。


「レオン様!」


レオンが浅く息を吸う。


けれど、その息は途中で引きつった。


「が、っ……」


苦しそうな音と一緒に、膝が折れる。


カイルがとっさに腕を伸ばしたが、間に合わない。

レオンは机へ肩をぶつけ、そのまま床へ崩れ落ちた。


「レオン!」


ラティアの声が裏返る。


その瞬間だった。


胸の奥が、ぞわりと冷えた。


今まで何も感じなかったのに、今は分かる。


レオンの中だ。


見えない内側を、冷たいものが這っている。

黒い靄じゃない。

もっと細く、もっと深く、体の内側へ回り込む残滓の流れ。


「だめ……!」


ラティアは思わず一歩踏み出す。


「残滓が、内側に――!」


その声に、空気がさらに張り詰める。


ユリスの視線が、一瞬で扉の方へ飛んだ。


そこに、もう一人いた。


いつの間に戻ってきたのか、エドガルド補佐が扉の前に立っていた。


扉は閉まっている。

その前に、静かに。


穏やかな顔のまま。

ただ、目だけが少し違っていた。


「……やはり」


その声は、いつもと同じ落ち着いた調子だった。


「そこまで辿り着かれましたか」


ラティアの背筋が凍る。


カイルの弓が一気に持ち上がる。


「てめえ――」


ユリスはすでに剣を抜いていた。


レオンは床に片膝をついたまま、苦しげに息をしている。

顔色がみるみる落ちていく。


「茶か」


ユリスの声は低かった。


エドガルド補佐は否定もしない。


「補佐が湯を運ぶのは、不自然ではありませんから」


その言い方が、ひどく静かだった。


怒りも、焦りもない。

ただ、前から用意していたことをそのまま口にしているだけのような声。


ラティアの喉が強く締まる。


「なんで……」


エドガルド補佐の視線が、初めてラティアへ向く。


「頭の回る方から落とすのは、当然でしょう」


その一言で、カイルの矢が飛んだ。


だがその直前、ユリスがさらに速く動いていた。


一歩で距離を詰め、補佐を壁へ叩きつける。


鈍い音。

剣の切っ先が喉元へ届く。


「動くな」


低い声だった。


それだけで、空気が震える。


エドガルド補佐の手から、小さな硝子片が床へ落ちた。

砕ける。

そこから黒い粉のようなものが散った。


サラが息を呑む。


「残滓……!」


「自害防止だ」


ユリスが鋭く言う。


「カイル、拾うな」


「分かってる!」


カイルは矢をつがえたまま位置を変え、粉に触れないよう床を睨む。


その間にも、レオンの呼吸は悪くなる一方だった。


「……っ、は……」


浅い。

速い。

喉を焼かれているみたいな息。


ラティアはしゃがみ込む。


レオンの腕に触れようとして、指が止まる。


冷たい。


外からじゃない。

中から冷えている。


「サラ!」


カイルが叫ぶ。


「どうにかなんねえのか!」


サラがすぐ膝をつき、祈りを重ねる。


白い光がレオンの胸元を包む。


けれど、それで終わらない。


サラの顔がすぐに強張る。


「だめです……!」


「抑えられても、剥がしきれない」


ラティアの胸が強く打つ。


残滓は体の内側へ回っている。

血の流れに沿うみたいに、深く。


しかも、普通の毒と違う。

祈りで押さえ込んでも、その下でまだじわじわと広がっていく。


「レオン」


呼んでも、返事はない。


レオンは目を開けている。

でも、焦点が定まっていない。


苦しいのに、声すらうまく出せない。


その顔を見た瞬間、ラティアの指先が凍った。


昔の記憶が、嫌なくらい鮮明に蘇る。


傷つけた時のこと。

雪山へ逃げたこと。

孤児院で暴走しかけたあの瞬間のこと。


守りたいのに、壊すかもしれない。


その怖さが、一気に喉元までせり上がる。


「……っ」


手が出ない。


目の前にいるのに。

助けなきゃいけないのに。


「ラティア!」


カイルの声が飛ぶ。


「お前しか分かんねえだろ!」


分かる。


分かるのに、体が動かない。


レオンの内側を這う残滓が見える。

冷たくて、細くて、でも確かに命の方へ食い込んでいく。


触れたらどうなる。

流しすぎたらどうなる。


また、自分が――


「……だめ」


ほとんど息みたいな声だった。


「わたし、また――」


言葉が切れる。


ユリスがエドガルド補佐を壁へ押さえつけたまま、こちらを見る。


その目は冷たい。

けれど、ラティアへ向ける時だけ、少しだけ違った。


「死なせるな」


短い。

鋭い。


それ以上の言葉はない。


でも、その一言が逃げ場をなくした。


ラティアはレオンを見る。


苦しそうな呼吸。

青ざめた顔。

床へ落ちた指先。


間に合わなかったら。


その考えが、頭の中を真っ白にする。


サラの祈りが震え始めていた。


「……長くは持ちません」


その声が、静かな絶望みたいに落ちる。


ラティアの心臓が強く鳴る。


今、やらなければいけない。

でも、怖い。


怖いのに、時間だけがなくなっていく。


床に落ちたレオンの呼吸が、また一つ浅く途切れた。


そこで、ラティアはようやく膝をついた。


震える手を、レオンの方へ伸ばす。


でも、触れる寸前でまた止まる。


指先が、どうしても前へ出ない。


「……レオン」


小さく呼ぶ声は、ひどく頼りなかった。


助けたい。


でも、助け方が分からない。


目の前にある命へ、手を伸ばせない自分が、何より怖かった。


その場に満ちる張りつめた静けさの中で、レオンの浅い呼吸だけが、やけに大きく響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ