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控えの間に落ちた静けさは、干し果実の甘さでもすぐにはほどけなかった。


机の上には、開かれたままの手記。

灰色の紐で綴じられた束の最後の頁が、灯りの下で淡く白く見えている。


聖女の予言。

勇者一行の雪山行き。

本物を待ち、待つことをやめたゼウラン。


そこまで読んでしまった今、次の頁に何が書かれているか、誰も薄々分かっている気がした。


「……読む?」


レオンがそう聞いた時、問いというより確認に近かった。


ユリスが短く言う。


「読め」


それで決まる。


レオンは一度だけ息を吐いて、次の束に手を伸ばした。


今度は黒い紐だった。


白、灰ときて、最後に残ったそれだけが、最初から少し異質に見えていた。


紐を解く音が、やけに小さく響く。


ラティアは無意識に守り紐へ触れた。


何も感じない。

相変わらず、残り香も、澱みも、紙にはない。


でも、それで軽いわけではなかった。


むしろ、何も感じないまま読まなければいけないことの方が、少し怖い。


レオンが最初の頁を開く。


前の束より文字が詰まっていた。

筆跡はまだ整っている。

けれど、前より明らかに余白が少ない。


「……来るよ」


小さくそう言ってから、読み上げた。


「“本物は現れない”」


その一行で、部屋の空気が少し沈む。


レオンは続ける。


「“ならば、欠片を集めて核とするしかない”」


ラティアの胸が、どくん、と鳴った。


言葉そのものは静かだ。

怒鳴りも、呪詛もない。


それなのに、その一文だけで、孤児院も、灯楼跡も、地下の割れた核も、全部が一本に繋がった気がした。


カイルが顔をしかめる。


「はっきり言いやがったな」


「ええ」


サラの声は低かった。


「もう迷っていないのでしょう」


レオンは頁を押さえたまま、さらに読む。


「“欠片は散る”」


「“散るものは寄せられる”」


「“寄せられたものは、器を得れば核となる”」


「“核となれば、流れは強制できる”」


部屋が静まり返る。


ラティアはその言葉を胸の中で繰り返した。


散る。

寄せる。

器。

核。


礼拝室の眠り。

灯楼の補助板。

補助核保管庫。


あれは全部、偶然そうなっていたのではない。

最初から“寄せるため”に組まれていたのだ。


「……集めてたんだ」


ぽつりと零すと、レオンが小さく頷いた。


「うん」


「残滓を消してたんじゃない」


「育てて、寄せて、核にしようとしてた」


サラも静かに続ける。


「孤児院の術式も同じですね」


「子どもたちの不安や眠りを器にして、定着を待つ形でした」


「灯楼跡は循環の試験場」


「地下の補助核は、実際の容器」


カイルが低く舌打ちした。


「全部、材料集めかよ」


レオンは頁をめくる。


そこには図が描かれていた。


円がいくつも重なり、中央に小さな黒点がある。

円の外から細い線が何本も伸びて、その中心へ集まっていた。


「……これ、核形成図だ」


レオンの声が冷える。


「点在した残滓を、一箇所へ集めるつもりで書いてる」


サラが身を乗り出した。


「中心点は?」


レオンは図の端の注記を追う。


「まだ固定してない」


「“反応のよい地点を選ぶべき”ってある」


「でも、候補は絞ってる」


指先で幾つかの地名をなぞる。


北側灯楼跡。

封鎖区画旧管理棟。

補助祈祷所。

そして、見覚えのある記号が一つ。


ラティアの胸が小さくざわついた。


「……それ」


レオンが目を上げる。


「分かる?」


ラティアは首を横に振りかけて、少しためらう。


分かる、というより、引っかかった。


「前に見た印に似てる」


「礼拝室じゃなくて……もっと前」


思い出しかけて、すぐには掴めない。


サラがそっと言う。


「灯楼跡で見た、あの削れた補助板の印かもしれません」


「たしかに近いですね」


レオンは少しだけ目を細めた。


「つまり、候補地はかなり前から回して試してた」


「王都の北側全体を、一つの採取場みたいに使ってる」


「趣味悪ぃって言葉じゃ足りねえな」


カイルが吐き捨てる。


レオンはさらに先を読む。


今度の文は短かった。


けれど、その短さが逆に嫌だった。


「“器は人でもよい”」


その一行で、ラティアの呼吸が浅くなる。


部屋の空気が、一瞬で変わった。


サラの顔が強張る。


「……人を」


「ええ」


レオンの声も硬い。


「完全に手段として見てる」


「孤児院がそうだった」


カイルが低く言う。


「眠らせて、馴染ませて、育てる」


「最初から人を器にするつもりだったわけか」


ラティアは指先を握り込んだ。


助けられた。

でも、もし遅れていたら。


そう考えていたものが、今ははっきり文字になって目の前にある。


器は人でもよい。


その一文が、ぞっとするほど冷たかった。


「最低……」


思わず漏れた声は、小さかった。


でも、その部屋にいる全員が同じことを思っていた気がした。


ユリスが低く言う。


「続けろ」


レオンは頷き、頁を押さえる。


「“外縁由来の力は、本来流れにくい”」


「“ゆえに、器が要る”」


「“器が定着すれば、核は育つ”」


「“核が育てば、流れは書き換えられる”」


サラがゆっくり息を吐いた。


「……結界を直す、ではありませんね」


「はい」


自分でも気づかないうちに、ラティアは返していた。


全員の視線が向く。


ラティアは少しだけ戸惑いながら、言葉を探す。


「直すっていうより……」


「無理やり、別の流れに変える感じ」


「元に戻すんじゃなくて、違うものを通そうとしてる」


レオンがじっとラティアを見る。


それから、小さく頷いた。


「うん」


「その言い方が一番近い」


カイルが眉を寄せる。


「じゃあゼウランの言う“再構築”ってのは、結局――」


「今の王都の結界を、そのまま作り替えることだよ」


レオンが言い切る。


「しかも、残滓を核にして」


部屋が静まる。


ラティアは机の上の手記を見た。


ゼウランは、本気だったのだろう。

王都を立て直すつもりで。

正しく巡らせるつもりで。


でもそのやり方は、もう“守る”から遠すぎる。


そのとき、レオンの指が頁の端で止まった。


「……これ」


声色が少し変わる。


サラも身を寄せる。


「何ですか」


レオンはしばらく黙って、その一文を目で追っていた。


そして、低く読み上げる。


「“北方で観測された異常出力は、欠片としては過剰である”」


ラティアの肩がぴくりと揺れる。


レオンは続ける。


「“もし人の身でそれを抱え、なお壊れず留めるものがあるなら”」


そこで一度、息を切った。


「“核の条件を満たしうる”」


沈黙。


誰もすぐには動かなかった。


ラティアは、目の前の文字が急に遠くなった気がした。


分からなかったわけじゃない。

むしろ、意味はすぐに分かってしまった。


北方。

異常出力。

人の身で抱え、壊れず留めるもの。


それが何を指しているのか、考えなくても分かってしまう。


「……わたし?」


気づけば、そう言っていた。


声は少し掠れていた。


レオンはすぐには答えなかった。


でも、否定もしなかった。


その沈黙だけで十分だった。


サラが静かに言う。


「少なくとも、ゼウランは雪山での力を何らかの形で観測し、それを特別視していたのでしょう」


カイルの表情が消える。


「最悪だな」


短い一言だった。


でも、その中にある怒りは深かった。


ラティアは守り紐を強く握った。


雪山に籠ったのは、自分が誰かを傷つけないためだった。

誰にも触れないように。

閉じこもるように。

そうしていたはずの場所を、向こうは“核の条件”として見ていた。


怖い。


気持ち悪い。


そして、少しだけ悔しい。


自分が必死で守っていたものまで、向こうの理屈に数えられていたことが、たまらなく嫌だった。


「ラティア」


低い声。


ユリスだった。


顔を上げると、ユリスはまっすぐこちらを見ていた。


「お前は器じゃない」


短く、鋭く。


その言葉が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。


「向こうが何を書いていようが関係ない」


「それは、向こうの勝手な見方だ」


ラティアの喉が小さく鳴る。


返事はすぐにできなかった。


けれど、その一言で、胸の中にあった気持ち悪さの形が少し変わる。


押し込まれるんじゃなく、突き返せる気がした。


レオンもやわらかく続けた。


「そう」


「見て、勝手に意味づけしてるだけだよ」


「でも、その勝手さが危ない」


「だから先に止める」


サラが頷く。


「ええ。ここではっきりしました」


「ゼウランは残滓を核にしようとしている」


「そして、その条件として人さえ含めて見ています」


カイルが腕を組んだ。


「なおさら放っておけねえな」


ラティアはゆっくり息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


怖さは消えていない。

でも、その下に別のものが生まれていた。


嫌だ。

そんなふうに見られるのは。

そんなふうに使われるのは。

絶対に、嫌だ。


レオンは手記をそっと閉じる。


「ここまでで十分だね」


「残滓を核にする理屈は見えた」


「孤児院も灯楼も封鎖区画も、全部この延長だ」


「あと必要なのは、今どこまで進んでるか」


サラが静かに問う。


「ゼウラン本人が、今どこにいるかもですね」


「うん」


レオンが頷く。


「思想は分かった」


「次は、現在地だ」


カイルが小さく息を吐く。


「ようやく終わりが見えてきたか」


「まだ入口かもしれないよ」


レオンが苦く言うと、カイルは顔をしかめた。


「嫌なこと言うな」


その時、机の端にまた小さな音がした。


見ると、ユリスが小皿を置いていた。

さっきより少し多めの干し果実と、切った焼き菓子が並んでいる。


ラティアが思わず目を瞬く。


「……増えてる」


「食え」


短い声。


「今日は多い」


「今日は必要だ」


それだけだった。


カイルが肩を揺らす。


「どんどん雑になってるな」


「うるさい」


ラティアが返すと、カイルが笑う。


レオンも小さく笑った。


少しだけ、空気が戻る。


でも、手記の重さは消えない。


欠片。

核。

器。

そして、北方で観測された異常出力。


全部が、もう過去の研究じゃなくなっていた。


ラティアは小皿の上の干し果実を一つつまむ。


甘さがじわりと広がる。


それでも胸の奥には、冷たいものがまだ残っていた。


でも今は、それに飲まれているだけじゃない。


ゼウランが何を見ていたのか。

何を求めていたのか。

それを知った今なら、向き合える気がした。

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