71
控えの間に落ちた静けさは、干し果実の甘さでもすぐにはほどけなかった。
机の上には、開かれたままの手記。
灰色の紐で綴じられた束の最後の頁が、灯りの下で淡く白く見えている。
聖女の予言。
勇者一行の雪山行き。
本物を待ち、待つことをやめたゼウラン。
そこまで読んでしまった今、次の頁に何が書かれているか、誰も薄々分かっている気がした。
「……読む?」
レオンがそう聞いた時、問いというより確認に近かった。
ユリスが短く言う。
「読め」
それで決まる。
レオンは一度だけ息を吐いて、次の束に手を伸ばした。
今度は黒い紐だった。
白、灰ときて、最後に残ったそれだけが、最初から少し異質に見えていた。
紐を解く音が、やけに小さく響く。
ラティアは無意識に守り紐へ触れた。
何も感じない。
相変わらず、残り香も、澱みも、紙にはない。
でも、それで軽いわけではなかった。
むしろ、何も感じないまま読まなければいけないことの方が、少し怖い。
レオンが最初の頁を開く。
前の束より文字が詰まっていた。
筆跡はまだ整っている。
けれど、前より明らかに余白が少ない。
「……来るよ」
小さくそう言ってから、読み上げた。
「“本物は現れない”」
その一行で、部屋の空気が少し沈む。
レオンは続ける。
「“ならば、欠片を集めて核とするしかない”」
ラティアの胸が、どくん、と鳴った。
言葉そのものは静かだ。
怒鳴りも、呪詛もない。
それなのに、その一文だけで、孤児院も、灯楼跡も、地下の割れた核も、全部が一本に繋がった気がした。
カイルが顔をしかめる。
「はっきり言いやがったな」
「ええ」
サラの声は低かった。
「もう迷っていないのでしょう」
レオンは頁を押さえたまま、さらに読む。
「“欠片は散る”」
「“散るものは寄せられる”」
「“寄せられたものは、器を得れば核となる”」
「“核となれば、流れは強制できる”」
部屋が静まり返る。
ラティアはその言葉を胸の中で繰り返した。
散る。
寄せる。
器。
核。
礼拝室の眠り。
灯楼の補助板。
補助核保管庫。
あれは全部、偶然そうなっていたのではない。
最初から“寄せるため”に組まれていたのだ。
「……集めてたんだ」
ぽつりと零すと、レオンが小さく頷いた。
「うん」
「残滓を消してたんじゃない」
「育てて、寄せて、核にしようとしてた」
サラも静かに続ける。
「孤児院の術式も同じですね」
「子どもたちの不安や眠りを器にして、定着を待つ形でした」
「灯楼跡は循環の試験場」
「地下の補助核は、実際の容器」
カイルが低く舌打ちした。
「全部、材料集めかよ」
レオンは頁をめくる。
そこには図が描かれていた。
円がいくつも重なり、中央に小さな黒点がある。
円の外から細い線が何本も伸びて、その中心へ集まっていた。
「……これ、核形成図だ」
レオンの声が冷える。
「点在した残滓を、一箇所へ集めるつもりで書いてる」
サラが身を乗り出した。
「中心点は?」
レオンは図の端の注記を追う。
「まだ固定してない」
「“反応のよい地点を選ぶべき”ってある」
「でも、候補は絞ってる」
指先で幾つかの地名をなぞる。
北側灯楼跡。
封鎖区画旧管理棟。
補助祈祷所。
そして、見覚えのある記号が一つ。
ラティアの胸が小さくざわついた。
「……それ」
レオンが目を上げる。
「分かる?」
ラティアは首を横に振りかけて、少しためらう。
分かる、というより、引っかかった。
「前に見た印に似てる」
「礼拝室じゃなくて……もっと前」
思い出しかけて、すぐには掴めない。
サラがそっと言う。
「灯楼跡で見た、あの削れた補助板の印かもしれません」
「たしかに近いですね」
レオンは少しだけ目を細めた。
「つまり、候補地はかなり前から回して試してた」
「王都の北側全体を、一つの採取場みたいに使ってる」
「趣味悪ぃって言葉じゃ足りねえな」
カイルが吐き捨てる。
レオンはさらに先を読む。
今度の文は短かった。
けれど、その短さが逆に嫌だった。
「“器は人でもよい”」
その一行で、ラティアの呼吸が浅くなる。
部屋の空気が、一瞬で変わった。
サラの顔が強張る。
「……人を」
「ええ」
レオンの声も硬い。
「完全に手段として見てる」
「孤児院がそうだった」
カイルが低く言う。
「眠らせて、馴染ませて、育てる」
「最初から人を器にするつもりだったわけか」
ラティアは指先を握り込んだ。
助けられた。
でも、もし遅れていたら。
そう考えていたものが、今ははっきり文字になって目の前にある。
器は人でもよい。
その一文が、ぞっとするほど冷たかった。
「最低……」
思わず漏れた声は、小さかった。
でも、その部屋にいる全員が同じことを思っていた気がした。
ユリスが低く言う。
「続けろ」
レオンは頷き、頁を押さえる。
「“外縁由来の力は、本来流れにくい”」
「“ゆえに、器が要る”」
「“器が定着すれば、核は育つ”」
「“核が育てば、流れは書き換えられる”」
サラがゆっくり息を吐いた。
「……結界を直す、ではありませんね」
「はい」
自分でも気づかないうちに、ラティアは返していた。
全員の視線が向く。
ラティアは少しだけ戸惑いながら、言葉を探す。
「直すっていうより……」
「無理やり、別の流れに変える感じ」
「元に戻すんじゃなくて、違うものを通そうとしてる」
レオンがじっとラティアを見る。
それから、小さく頷いた。
「うん」
「その言い方が一番近い」
カイルが眉を寄せる。
「じゃあゼウランの言う“再構築”ってのは、結局――」
「今の王都の結界を、そのまま作り替えることだよ」
レオンが言い切る。
「しかも、残滓を核にして」
部屋が静まる。
ラティアは机の上の手記を見た。
ゼウランは、本気だったのだろう。
王都を立て直すつもりで。
正しく巡らせるつもりで。
でもそのやり方は、もう“守る”から遠すぎる。
そのとき、レオンの指が頁の端で止まった。
「……これ」
声色が少し変わる。
サラも身を寄せる。
「何ですか」
レオンはしばらく黙って、その一文を目で追っていた。
そして、低く読み上げる。
「“北方で観測された異常出力は、欠片としては過剰である”」
ラティアの肩がぴくりと揺れる。
レオンは続ける。
「“もし人の身でそれを抱え、なお壊れず留めるものがあるなら”」
そこで一度、息を切った。
「“核の条件を満たしうる”」
沈黙。
誰もすぐには動かなかった。
ラティアは、目の前の文字が急に遠くなった気がした。
分からなかったわけじゃない。
むしろ、意味はすぐに分かってしまった。
北方。
異常出力。
人の身で抱え、壊れず留めるもの。
それが何を指しているのか、考えなくても分かってしまう。
「……わたし?」
気づけば、そう言っていた。
声は少し掠れていた。
レオンはすぐには答えなかった。
でも、否定もしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
サラが静かに言う。
「少なくとも、ゼウランは雪山での力を何らかの形で観測し、それを特別視していたのでしょう」
カイルの表情が消える。
「最悪だな」
短い一言だった。
でも、その中にある怒りは深かった。
ラティアは守り紐を強く握った。
雪山に籠ったのは、自分が誰かを傷つけないためだった。
誰にも触れないように。
閉じこもるように。
そうしていたはずの場所を、向こうは“核の条件”として見ていた。
怖い。
気持ち悪い。
そして、少しだけ悔しい。
自分が必死で守っていたものまで、向こうの理屈に数えられていたことが、たまらなく嫌だった。
「ラティア」
低い声。
ユリスだった。
顔を上げると、ユリスはまっすぐこちらを見ていた。
「お前は器じゃない」
短く、鋭く。
その言葉が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。
「向こうが何を書いていようが関係ない」
「それは、向こうの勝手な見方だ」
ラティアの喉が小さく鳴る。
返事はすぐにできなかった。
けれど、その一言で、胸の中にあった気持ち悪さの形が少し変わる。
押し込まれるんじゃなく、突き返せる気がした。
レオンもやわらかく続けた。
「そう」
「見て、勝手に意味づけしてるだけだよ」
「でも、その勝手さが危ない」
「だから先に止める」
サラが頷く。
「ええ。ここではっきりしました」
「ゼウランは残滓を核にしようとしている」
「そして、その条件として人さえ含めて見ています」
カイルが腕を組んだ。
「なおさら放っておけねえな」
ラティアはゆっくり息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
怖さは消えていない。
でも、その下に別のものが生まれていた。
嫌だ。
そんなふうに見られるのは。
そんなふうに使われるのは。
絶対に、嫌だ。
レオンは手記をそっと閉じる。
「ここまでで十分だね」
「残滓を核にする理屈は見えた」
「孤児院も灯楼も封鎖区画も、全部この延長だ」
「あと必要なのは、今どこまで進んでるか」
サラが静かに問う。
「ゼウラン本人が、今どこにいるかもですね」
「うん」
レオンが頷く。
「思想は分かった」
「次は、現在地だ」
カイルが小さく息を吐く。
「ようやく終わりが見えてきたか」
「まだ入口かもしれないよ」
レオンが苦く言うと、カイルは顔をしかめた。
「嫌なこと言うな」
その時、机の端にまた小さな音がした。
見ると、ユリスが小皿を置いていた。
さっきより少し多めの干し果実と、切った焼き菓子が並んでいる。
ラティアが思わず目を瞬く。
「……増えてる」
「食え」
短い声。
「今日は多い」
「今日は必要だ」
それだけだった。
カイルが肩を揺らす。
「どんどん雑になってるな」
「うるさい」
ラティアが返すと、カイルが笑う。
レオンも小さく笑った。
少しだけ、空気が戻る。
でも、手記の重さは消えない。
欠片。
核。
器。
そして、北方で観測された異常出力。
全部が、もう過去の研究じゃなくなっていた。
ラティアは小皿の上の干し果実を一つつまむ。
甘さがじわりと広がる。
それでも胸の奥には、冷たいものがまだ残っていた。
でも今は、それに飲まれているだけじゃない。
ゼウランが何を見ていたのか。
何を求めていたのか。
それを知った今なら、向き合える気がした。




