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灰色の紐で綴じられた束は、白いものより少しだけ重く見えた。
机の上に置かれたそれを前にして、ラティアは無意識に指先を握る。
何かを感じるわけではない。
残り香も、澱みもない。
それでも、これを開けばまた、知らなかったものが形になる。
その予感だけは、もう十分すぎるほどあった。
レオンが灰色の紐をほどく。
紙の擦れる音が、妙に静かな部屋に落ちた。
「この辺から、記述の時期が少し飛ぶ」
そう言って、数枚を順にめくる。
観測記録。
補助線の変動。
灯楼負荷。
北側封鎖区画への資料移管。
そこまでは、前日までの流れと同じだった。
けれど、その次の頁で、レオンの指が止まる。
「……ああ、ここだ」
声が少し低くなる。
ラティアの胸が小さく鳴る。
「読むよ」
誰も言葉を挟まない。
灯りの小さな音だけがしている。
レオンの声が、静かに落ちた。
「“聖女は北に兆しを見ると告げた”」
サラの目がわずかに動く。
「予言ですね」
「うん」
レオンは頷き、そのまま続きを読む。
「“王都はそれを魔王復活の報と呼ぶ”」
「“勇者は北方へ向かった”」
部屋の空気が、そこでほんの少し張る。
ラティアは思わず守り紐に触れた。
雪山。
それは、自分にとっては閉じこもっていた場所のはずなのに、今こうして文字になると、まるで別の場所みたいに感じる。
「……見てたんだ」
思わず零すと、レオンが頁から目を上げずに頷いた。
「そうみたいだね」
「かなり強く意識してる」
レオンは次の行へ目を落とす。
「“北方に現れるものが本物であるなら、ようやく届く”」
「“王都全体を立て直すに足る力は、これまでどこにもなかった”」
「“だが、もしそれが現れるなら話は変わる”」
カイルが顔をしかめる。
「ずいぶん期待してたんだな」
「期待というより、待ってたんだろうね」
レオンの声は低い。
「ずっと」
サラも静かに言った。
「“再構築に足る力”として、魔王級のものを想定していたのでしょう」
ラティアは机の上の文字を見つめる。
王都を直したい。
そのためには、足りない。
もっと大きな力がいる。
そこまでは、もう見えている。
でも、そこに“魔王復活の予言”が重なった時、ゼウランにとってそれはただの噂ではなかったのだ。
待っていたものが、ついに現れるかもしれない。
そう思ったのだろう。
「……こわいね」
ぽつりとラティアが言う。
カイルが横目で見る。
「何がだ」
「待ってたものが、そういうのって」
自分でも、うまく言葉にできない。
でも、ラティアの中では妙にひやりとした。
誰かが、雪山で起きるかもしれないことを、ずっと別の意味で待っていた。
その感じが、ひどく嫌だった。
レオンは続きを読んだ。
「“だが、報は遅い”」
「“北方へ向かった一行から、決定的なものはまだ何も返らない”」
「“本物であれば、もっと濃い反応が出るはずだ”」
そこでレオンの眉が寄る。
「……ここ、少しおかしい」
「何がですか」
サラが問う。
レオンは紙の一節を指先で押さえた。
「観測してる」
「ただ噂を聞いて待ってたんじゃない」
「北から返る流れそのものを見ようとしてる」
カイルが口元を歪める。
「つまり、勇者一行が雪山に行ったあとも、ずっと張ってたってことか」
「うん」
レオンは短く答える。
「北側の継ぎ目か、灯楼の残りか、何かを使って」
「雪山で起きた力の揺れを、王都側から拾おうとしてた可能性がある」
ラティアの背筋を、薄い冷たさが走る。
知らないところで、見られていたのかもしれない。
直接ではなくても。
遠くから、痕跡だけでも。
そう思うと、雪山の静かな春の景色まで、少しだけ別のものに思えてしまう。
ユリスが短く言った。
「続けろ」
レオンは一つ頷き、さらに頁をめくる。
筆跡は整っている。
でも、前より少しだけ筆圧が強い。
静かなまま、焦りだけが下に沈んでいるみたいだった。
「“報は返る”」
「“だが、本物の魔王に関する確証はどこにもない”」
「“北方で観測される力は大きい。異常なほどに大きい”」
「“だが、それはなお欠片にすぎない”」
そこで、ラティアは小さく息を呑む。
欠片。
その言葉が、やけに引っかかった。
レオンもそこに気づいたのか、少しだけ目を細める。
「本物じゃない」
「でも、何か大きな力の痕跡は拾ったんだ」
サラが静かに言う。
「雪山での何らかの異変を、ゼウランもまた観測していたということですね」
「……ラティアさんの力、でしょうか」
その一言に、部屋がほんの少し静かになる。
ラティアはすぐに返事ができなかった。
雪山で、自分は確かにずっと結界を張っていた。
それがどれだけ大きく、どれだけ異質に見えたのか、自分では正しく分からない。
でも、ゼウランがそれを“欠片”として見ていたのだとしたら。
「嫌だな」
カイルが低く言う。
「見つけたかった“本物”じゃねえけど、十分デカい何かがあったってことだろ」
「うん」
レオンは頷く。
「しかも、それをゼウランは“魔王級に連なる可能性”として読んだかもしれない」
ラティアの指先が、守り紐を強く握った。
自分の知らない場所で、自分のことが何かの兆しみたいに見られていた。
それは、今まで感じてきた残り香とは別の怖さだった。
何も感じない文字なのに、その意味だけが胸の中へ入ってくる。
レオンはさらに読み進める。
「“本物は現れない”」
「“待っているだけでは遅い”」
「“欠片でも、残りでも、核足りうるなら集めるべきだ”」
そこまで読んだところで、レオンの声が止まった。
サラの表情が、目に見えて冷える。
「……来ましたね」
カイルも苦い顔をする。
「ここで残滓に行くわけか」
「だね」
レオンは頁を見たまま答える。
「魔王そのものには届かない」
「でも、本物を待つのはやめた」
「だから代わりに、欠片と残りを集める方へ傾いた」
ラティアはその言葉をゆっくり反芻した。
待つのをやめた。
代わりに、集める。
それが孤児院で。
灯楼跡で。
封鎖区画の核で。
全部、今に繋がっている。
「……最初から残滓が欲しかったわけじゃないんだ」
気づけば、そう言っていた。
レオンが視線を上げる。
ラティアは少しためらいながら続けた。
「本当は、もっと別のものを待ってて」
「でも来ないから、残ってるものを集める方にした」
「だから、ずっと足りないままなんだ」
レオンは少しだけ目を細めた。
「うん」
「それ、かなり近いと思う」
サラも頷く。
「ゼウランにとって残滓は理想ではなく、代替だったのでしょう」
「だからこそ、より多く、より濃く、に傾く」
カイルが舌打ちする。
「面倒くせえ執着だな」
ユリスが静かに言った。
「止まらない」
その短い一言が、妙に重かった。
一度“待つ”ことを諦めて、“集める”方へ進んだ人間は、たぶん簡単には戻らない。
ラティアは胸の奥に残る薄い冷たさを意識した。
ゼウランは、雪山のことを知っていた。
少なくとも、何か大きな力が北に現れたことは拾っていた。
それが本物ではないと切り捨てながら、それでも見ていた。
その視線の先に、自分もいたのだと思うと、少しだけ息が苦しくなる。
「ラティア」
低い声で呼ばれて、顔を上げる。
ユリスだった。
「今、何を考えてる」
短い問いだった。
でも、逃がさない声でもあった。
ラティアは少しだけ迷ってから、正直に言った。
「……見られてたのかなって」
「雪山のこと」
「わたしのことも」
しばらく、誰もすぐには言葉を返さなかった。
その沈黙のあと、レオンがやわらかく口を開く。
「見てたかもしれない」
「でも、見てたからって、向こうの思い通りになるわけじゃない」
サラも静かに続けた。
「ええ。見られていたことと、奪われることは違います」
カイルが腕を組んだまま言う。
「勝手に覗いて勝手に期待して、勝手に外してんだろ」
「知るかって話だ」
そのぶっきらぼうさが、今は少しありがたかった。
最後にユリスが言う。
「お前は、お前だ」
短い。
でも、それで十分だった。
ラティアは小さく息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
少しだけ、胸の苦しさがほどける。
レオンは机の上の手記を閉じた。
「ここまでで十分だね」
「予言の時期に、ゼウランは北を注視していた」
「本物は現れなかった」
「だから残滓を核にする方へ進んだ」
「流れは見えた」
サラも新しく置かれていた紙束へ視線を落とす。
「次は、そのあとですね」
「どうやって集める方へ踏み込んだのか」
「うん」
レオンが頷く。
「たぶん、そこから今のやり方に直結する」
その時、机の端にまた小さな音がした。
見ると、ユリスが湯呑みではなく、小さな包みを置いていた。
開けると、干し果実だった。
ラティアが少しだけ目を丸くする。
「……今日はこれ?」
「甘い方がいい」
短い返答だった。
カイルが吹き出す。
「細かいな」
「うるさい」
ラティアがすぐ返すと、カイルが肩を揺らす。
レオンも少しだけ笑った。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
でも、手記の重さは消えない。
聖女の予言。
勇者一行の雪山行き。
本物を待つことをやめたゼウラン。
その全部が、今の王都へ繋がっている。
ラティアは干し果実をひとつ口に入れる。
甘さがゆっくり広がる。
それでも、胸の奥に残る冷たさは消えなかった。
ゼウランは待っていた。
でも、待つことをやめた。
その先に何があったのか。
それを知らなければ、まだ前へは進めない気がした。




