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翌朝の空は、薄い雲を引いていた。


神殿の控えの間に差し込む光は白く、昨日より静かに見える。

けれど机の上に置かれたゼウランの手記だけは、その静けさの中でも妙に重かった。


ラティアは椅子に座ったまま、その紙束を見ていた。


何か感じるわけではない。

残り香も、澱みもない。


それでも、あれを開けばまた胸の奥が重くなることだけは、もう分かっている。


「顔、硬いよ」


向かいからレオンが言った。


ラティアがはっとすると、レオンは紙を整えながら少しだけ笑う。


「読む前からそんなだと、先が持たない」


「……レオンは平気なの?」


「平気じゃないよ」


あっさり返ってきた。


「でも、読まない方がもっと嫌だ」


その言葉に、ラティアは少しだけ息を吐く。


たしかに、と思った。


知らないまま怖がるより、知って重くなる方がまだ進める。


サラが昨日の紙束の隣へ、新しく持ってきた記録を置いた。


「神殿側で拾えた関連資料です」


「魔導院から返ってきた簡易索引も、今朝追加で届いています」


カイルが椅子を半分だけ引いて座る。


「今日も朝から気が重い話ってわけだな」


「嬉しそうには聞こえませんね」


サラが静かに返すと、カイルは肩をすくめた。


「嬉しいわけあるか」


ユリスは壁際に立ったまま、短く言った。


「読むぞ」


それで全員の意識が揃う。


レオンが頷き、昨日の続きの紙束を手に取った。


白い紐の次は、灰色の紐でまとめられていた分だ。


紐を解き、数枚めくる。


前半は観測記録。

補助線の揺らぎ。

灯楼の負荷。

神殿祈祷班との齟齬。


整った文字。

冷静な文体。

感情はまだあまり出ていない。


けれど数頁進んだところで、レオンの指が止まった。


「……ここだ」


その声に、ラティアの胸が少しだけ鳴る。


レオンは紙を押さえ、読み上げた。


「“補修案の再提出、却下”」


「“理由。必要以上に広域へ干渉する可能性が高く、既存補助線への負荷が読めないため”」


サラの表情がわずかに動く。


「神殿側の意見ですね」


「うん」


レオンは次の行へ目を落とす。


「“継ぎ目の観測は認めるが、構造そのものの再編成は許可しない”」


「“現時点では経年劣化の範囲内と見なす”」


カイルが顔をしかめた。


「昨日も出たな、それ」


「経年劣化」


レオンは頷いた。


「これ、たぶんゼウランが一番腹を立てた言葉の一つだよ」


ラティアは机の端の自分の指先を見る。


何も感じない。

でも、文字の並びだけで、そこに押し返された気配が見える気がした。


次にレオンは、神殿側の記録から外れた一枚を持ち上げた。


紙質が違う。

魔導院の控えらしい。


「こっちは魔導院だね」


読み上げる声が少し低くなる。


「“北側補助線を単独の補修対象として扱うこと”」


「“周辺施設を含めた一帯運用の提案は、理論上は興味深いが、現行管理体制では実施困難”」


そこでレオンは少しだけ息を止めた。


ラティアはその横顔を見る。


「興味深い」という言葉が、今この場では妙に冷たく聞こえた。


レオンは続ける。


「“補助灯楼、祈祷所、管理棟、予備核保管庫を一つの循環系として扱う案は、規模が大きすぎる”」


「“現段階では採用を見送る”」


サラが静かに目を伏せた。


「退けられていますね」


「徹底してね」


レオンが返す。


「でも、ちゃんと読まれてはいる」


「完全に無視されたわけじゃない」


カイルが低く言う。


「余計まずいな」


「うん」


レオンは頷いた。


「ゼウランにしてみれば、“分かった上で切られた”ってことだから」


その一言で、部屋の空気がまた少し重くなる。


ラティアは手記を見つめた。


最初から変だったのではない。

最初から壊したかったわけでもない。


ちゃんと考えて、出して、退けられた。


その積み重ねが、少しずつ人を曲げていくのだとしたら、それは残滓とは別の怖さだった。


「……まだ、この段階なら」


思わず口にすると、全員の視線が集まる。


ラティアは少しためらいながら言葉を続けた。


「まだ、戻れたのかなって思って」


レオンはすぐには答えなかった。


紙の上の文字を見たまま、少しだけ目を細める。


「たぶんね」


やがて、静かに言った。


「でも、戻れる時に戻れなかったんだと思う」


サラも小さく頷く。


「真剣だったからこそ、退けられた時に折れなかったのでしょう」


「折れないのが全部いいこととは限らないってやつか」


カイルが言う。


そのぶっきらぼうな一言が、妙にまっすぐ胸へ落ちた。


レオンはさらに頁をめくった。


今度の筆跡は、同じ整い方なのに、どこか圧が強い。

線が深い。

言葉と言葉の間が詰まっている。


「……ここから少し変わる」


そう前置きして、読む。


「“彼らは綻びを見ているはずなのに、認めない”」


「“補修で足りるなら、とっくに揺らぎは静まっている”」


「“表面を繕うたび、根は深く沈む”」


「“遅い。すべてが遅い”」


最後の一文を読んだ時、ラティアは小さく息を呑んだ。


怒鳴っているわけではない。

乱暴な言葉でもない。


それなのに、前の頁よりずっと息苦しい。


サラが低く言う。


「焦りが出ていますね」


「うん」


レオンは指先で紙の端を押さえた。


「理屈はまだ保ってる。でも、もう他人を待てなくなってる」


カイルが机に肘をつく。


「自分でやる方へ傾き始めたか」


「そう見える」


レオンは頁を閉じずに、そのまま続けた。


「“北側は反応が素直だ”」


「“補助核の器としての性質は、想定以上に安定している”」


「“既存構造を流用する方が早い”」


そこでサラの目が鋭くなる。


「既存構造を流用……」


「もうこの頃には、今のやり方に近づいてる」


レオンの声も冷えた。


「王都の設備をそのまま使って、別の流れを通す発想が出てる」


ラティアは昨日見た、割れた核を思い出す。


補助核なのに、もう補助核ではなかったもの。

器に変えられたもの。


あれは突然できたやり方じゃない。

ずっと前から、ゼウランの中で育っていた考えだったのだ。


「……嫌だね」


ぽつりと零れる。


「ちゃんと考えてたのに、だんだん変わっていくの」


「うん」


レオンが小さく頷く。


「その方が怖い」


部屋が静かになる。


紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。


その時、サラが別の記録から一枚を抜き出した。


「こちらも見てください」


差し出されたのは、神殿側の会議記録だった。


簡潔な文。

列席者名。

決定事項。


レオンが目で追い、すぐ眉を寄せる。


「……これ」


「何ですか」


サラが問う。


「ゼウランの提案を退けた会議」


レオンの声が少し硬くなる。


「列席者の中に、神殿と魔導院の共同管理責任者がいる」


「しかも、処分決定の二週間前だ」


カイルが顔を上げる。


「処分って、研究停止のか?」


「うん」


レオンは机にその紙を置いた。


「つまり、退けられただけじゃない」


「会議のあとで、正式に切られてる」


ラティアはその紙を見る。


何も感じない。

でも、流れは見える。


提案する。

退けられる。

なお食い下がる。

そして切られる。


人が孤立していく形が、文字の並びだけで分かってしまった。


「……一人になったんだ」


気づけば、そう言っていた。


サラが静かに目を伏せる。


「ええ」


「少なくとも、この時点で味方はいなくなったのでしょう」


ユリスが壁際から口を開いた。


「次は、その先だ」


短い言葉だった。


けれど、それで全員の意識がまた前へ戻る。


レオンが頷く。


「うん」


「退けられたあと、どうやって今のやり方に踏み込んだのか」


「そこが次だ」


カイルが息を吐く。


「朝から読むには重すぎるな」


「まだ午前だけどね」


レオンが返すと、カイルは顔をしかめた。


「余計嫌だわ」


そのやりとりに、ラティアは少しだけ息を抜いた。


重い。

でも、ずっと張りつめたままではいられない。


その時、机の端へ小さな音がした。


見ると、ユリスがまたラティアの前に小さな包みを置いていた。


今度は飴ではなく、焼き菓子だった。


「……また?」


思わず言うと、ユリスは淡々と返した。


「朝から顔色が悪い」


それだけだった。


カイルが吹き出す。


「完全に観察されてんじゃねえか」


「うるさい」


ラティアがすぐに返すと、カイルが肩を揺らした。


レオンも横で少し笑った。


「でも、食べた方がいいよ」


「今日の記録、空腹で読むには重すぎる」


ラティアは小さく息をつき、包みを開く。


甘い匂いがした。


その小さな甘さだけで、少しだけ現実へ戻れる気がした。


レオンは手記を閉じ、机の上へそっと置く。


「ここまでで十分見えた」


「ゼウランは最初から再構築を考えていた」


「でも、いきなり今のやり方になったわけじゃない」


「退けられて、切られて、それでも諦めなかった」


サラが静かに続ける。


「その“諦めなさ”が、正しい方へ残らなかったのですね」


ラティアは焼き菓子を指先に持ったまま、手記を見る。


諦めなかった人。

だからこそ、危うい方へ進んでしまった人。


それは、少しだけ悲しい。


でも、悲しいだけでは止められない。


「次は……?」


ラティアが問うと、レオンは灰色の紐で綴じられた次の束へ視線を落とした。


「次は、たぶん予言の頃だ」


その一言で、空気がまた少しだけ変わる。


聖女の予言。

勇者一行の雪山行き。

ラティアの知らないところで動いていた、もう一つの視線。


ユリスが短く言う。


「読むぞ」


ラティアは小さく頷いた。


怖い。


でも、ここで止まりたくない。


焼き菓子の甘さがゆっくり口の中でほどけていく。


それを頼りにするみたいに、ラティアはもう一度だけ、机の上の手記を見つめた。

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