69
翌朝の空は、薄い雲を引いていた。
神殿の控えの間に差し込む光は白く、昨日より静かに見える。
けれど机の上に置かれたゼウランの手記だけは、その静けさの中でも妙に重かった。
ラティアは椅子に座ったまま、その紙束を見ていた。
何か感じるわけではない。
残り香も、澱みもない。
それでも、あれを開けばまた胸の奥が重くなることだけは、もう分かっている。
「顔、硬いよ」
向かいからレオンが言った。
ラティアがはっとすると、レオンは紙を整えながら少しだけ笑う。
「読む前からそんなだと、先が持たない」
「……レオンは平気なの?」
「平気じゃないよ」
あっさり返ってきた。
「でも、読まない方がもっと嫌だ」
その言葉に、ラティアは少しだけ息を吐く。
たしかに、と思った。
知らないまま怖がるより、知って重くなる方がまだ進める。
サラが昨日の紙束の隣へ、新しく持ってきた記録を置いた。
「神殿側で拾えた関連資料です」
「魔導院から返ってきた簡易索引も、今朝追加で届いています」
カイルが椅子を半分だけ引いて座る。
「今日も朝から気が重い話ってわけだな」
「嬉しそうには聞こえませんね」
サラが静かに返すと、カイルは肩をすくめた。
「嬉しいわけあるか」
ユリスは壁際に立ったまま、短く言った。
「読むぞ」
それで全員の意識が揃う。
レオンが頷き、昨日の続きの紙束を手に取った。
白い紐の次は、灰色の紐でまとめられていた分だ。
紐を解き、数枚めくる。
前半は観測記録。
補助線の揺らぎ。
灯楼の負荷。
神殿祈祷班との齟齬。
整った文字。
冷静な文体。
感情はまだあまり出ていない。
けれど数頁進んだところで、レオンの指が止まった。
「……ここだ」
その声に、ラティアの胸が少しだけ鳴る。
レオンは紙を押さえ、読み上げた。
「“補修案の再提出、却下”」
「“理由。必要以上に広域へ干渉する可能性が高く、既存補助線への負荷が読めないため”」
サラの表情がわずかに動く。
「神殿側の意見ですね」
「うん」
レオンは次の行へ目を落とす。
「“継ぎ目の観測は認めるが、構造そのものの再編成は許可しない”」
「“現時点では経年劣化の範囲内と見なす”」
カイルが顔をしかめた。
「昨日も出たな、それ」
「経年劣化」
レオンは頷いた。
「これ、たぶんゼウランが一番腹を立てた言葉の一つだよ」
ラティアは机の端の自分の指先を見る。
何も感じない。
でも、文字の並びだけで、そこに押し返された気配が見える気がした。
次にレオンは、神殿側の記録から外れた一枚を持ち上げた。
紙質が違う。
魔導院の控えらしい。
「こっちは魔導院だね」
読み上げる声が少し低くなる。
「“北側補助線を単独の補修対象として扱うこと”」
「“周辺施設を含めた一帯運用の提案は、理論上は興味深いが、現行管理体制では実施困難”」
そこでレオンは少しだけ息を止めた。
ラティアはその横顔を見る。
「興味深い」という言葉が、今この場では妙に冷たく聞こえた。
レオンは続ける。
「“補助灯楼、祈祷所、管理棟、予備核保管庫を一つの循環系として扱う案は、規模が大きすぎる”」
「“現段階では採用を見送る”」
サラが静かに目を伏せた。
「退けられていますね」
「徹底してね」
レオンが返す。
「でも、ちゃんと読まれてはいる」
「完全に無視されたわけじゃない」
カイルが低く言う。
「余計まずいな」
「うん」
レオンは頷いた。
「ゼウランにしてみれば、“分かった上で切られた”ってことだから」
その一言で、部屋の空気がまた少し重くなる。
ラティアは手記を見つめた。
最初から変だったのではない。
最初から壊したかったわけでもない。
ちゃんと考えて、出して、退けられた。
その積み重ねが、少しずつ人を曲げていくのだとしたら、それは残滓とは別の怖さだった。
「……まだ、この段階なら」
思わず口にすると、全員の視線が集まる。
ラティアは少しためらいながら言葉を続けた。
「まだ、戻れたのかなって思って」
レオンはすぐには答えなかった。
紙の上の文字を見たまま、少しだけ目を細める。
「たぶんね」
やがて、静かに言った。
「でも、戻れる時に戻れなかったんだと思う」
サラも小さく頷く。
「真剣だったからこそ、退けられた時に折れなかったのでしょう」
「折れないのが全部いいこととは限らないってやつか」
カイルが言う。
そのぶっきらぼうな一言が、妙にまっすぐ胸へ落ちた。
レオンはさらに頁をめくった。
今度の筆跡は、同じ整い方なのに、どこか圧が強い。
線が深い。
言葉と言葉の間が詰まっている。
「……ここから少し変わる」
そう前置きして、読む。
「“彼らは綻びを見ているはずなのに、認めない”」
「“補修で足りるなら、とっくに揺らぎは静まっている”」
「“表面を繕うたび、根は深く沈む”」
「“遅い。すべてが遅い”」
最後の一文を読んだ時、ラティアは小さく息を呑んだ。
怒鳴っているわけではない。
乱暴な言葉でもない。
それなのに、前の頁よりずっと息苦しい。
サラが低く言う。
「焦りが出ていますね」
「うん」
レオンは指先で紙の端を押さえた。
「理屈はまだ保ってる。でも、もう他人を待てなくなってる」
カイルが机に肘をつく。
「自分でやる方へ傾き始めたか」
「そう見える」
レオンは頁を閉じずに、そのまま続けた。
「“北側は反応が素直だ”」
「“補助核の器としての性質は、想定以上に安定している”」
「“既存構造を流用する方が早い”」
そこでサラの目が鋭くなる。
「既存構造を流用……」
「もうこの頃には、今のやり方に近づいてる」
レオンの声も冷えた。
「王都の設備をそのまま使って、別の流れを通す発想が出てる」
ラティアは昨日見た、割れた核を思い出す。
補助核なのに、もう補助核ではなかったもの。
器に変えられたもの。
あれは突然できたやり方じゃない。
ずっと前から、ゼウランの中で育っていた考えだったのだ。
「……嫌だね」
ぽつりと零れる。
「ちゃんと考えてたのに、だんだん変わっていくの」
「うん」
レオンが小さく頷く。
「その方が怖い」
部屋が静かになる。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
その時、サラが別の記録から一枚を抜き出した。
「こちらも見てください」
差し出されたのは、神殿側の会議記録だった。
簡潔な文。
列席者名。
決定事項。
レオンが目で追い、すぐ眉を寄せる。
「……これ」
「何ですか」
サラが問う。
「ゼウランの提案を退けた会議」
レオンの声が少し硬くなる。
「列席者の中に、神殿と魔導院の共同管理責任者がいる」
「しかも、処分決定の二週間前だ」
カイルが顔を上げる。
「処分って、研究停止のか?」
「うん」
レオンは机にその紙を置いた。
「つまり、退けられただけじゃない」
「会議のあとで、正式に切られてる」
ラティアはその紙を見る。
何も感じない。
でも、流れは見える。
提案する。
退けられる。
なお食い下がる。
そして切られる。
人が孤立していく形が、文字の並びだけで分かってしまった。
「……一人になったんだ」
気づけば、そう言っていた。
サラが静かに目を伏せる。
「ええ」
「少なくとも、この時点で味方はいなくなったのでしょう」
ユリスが壁際から口を開いた。
「次は、その先だ」
短い言葉だった。
けれど、それで全員の意識がまた前へ戻る。
レオンが頷く。
「うん」
「退けられたあと、どうやって今のやり方に踏み込んだのか」
「そこが次だ」
カイルが息を吐く。
「朝から読むには重すぎるな」
「まだ午前だけどね」
レオンが返すと、カイルは顔をしかめた。
「余計嫌だわ」
そのやりとりに、ラティアは少しだけ息を抜いた。
重い。
でも、ずっと張りつめたままではいられない。
その時、机の端へ小さな音がした。
見ると、ユリスがまたラティアの前に小さな包みを置いていた。
今度は飴ではなく、焼き菓子だった。
「……また?」
思わず言うと、ユリスは淡々と返した。
「朝から顔色が悪い」
それだけだった。
カイルが吹き出す。
「完全に観察されてんじゃねえか」
「うるさい」
ラティアがすぐに返すと、カイルが肩を揺らした。
レオンも横で少し笑った。
「でも、食べた方がいいよ」
「今日の記録、空腹で読むには重すぎる」
ラティアは小さく息をつき、包みを開く。
甘い匂いがした。
その小さな甘さだけで、少しだけ現実へ戻れる気がした。
レオンは手記を閉じ、机の上へそっと置く。
「ここまでで十分見えた」
「ゼウランは最初から再構築を考えていた」
「でも、いきなり今のやり方になったわけじゃない」
「退けられて、切られて、それでも諦めなかった」
サラが静かに続ける。
「その“諦めなさ”が、正しい方へ残らなかったのですね」
ラティアは焼き菓子を指先に持ったまま、手記を見る。
諦めなかった人。
だからこそ、危うい方へ進んでしまった人。
それは、少しだけ悲しい。
でも、悲しいだけでは止められない。
「次は……?」
ラティアが問うと、レオンは灰色の紐で綴じられた次の束へ視線を落とした。
「次は、たぶん予言の頃だ」
その一言で、空気がまた少しだけ変わる。
聖女の予言。
勇者一行の雪山行き。
ラティアの知らないところで動いていた、もう一つの視線。
ユリスが短く言う。
「読むぞ」
ラティアは小さく頷いた。
怖い。
でも、ここで止まりたくない。
焼き菓子の甘さがゆっくり口の中でほどけていく。
それを頼りにするみたいに、ラティアはもう一度だけ、机の上の手記を見つめた。




