68
神殿へ戻る頃には、空はすっかり夜の色に沈んでいた。
北側封鎖区画の冷たさは、建物を出てもすぐには落ちなかった。
外套の内側に残る自分の熱だけが、ようやく今ここに戻ってきたのだと教えてくれる。
控えの間の机には、灯りが二つ置かれていた。
柔らかな橙の光。
けれど、その中央に置かれた細長い箱だけは、どこか別の場所のものみたいに見える。
中にあるのは、ゼウランの手記。
隠し棚の奥に押し込まれ、長く人の目から外されていたものだ。
誰も、すぐには手を伸ばさなかった。
サラが先に祈祷札を置き、短く祈る。
白い光が、箱の縁を薄くなぞった。
「……呪いの類はありません」
その声で、部屋の空気がほんの少しだけ動く。
レオンが静かに頷いた。
「じゃあ、開くよ」
蓋は思っていたより軽かった。
乾いた音を立てて開いた箱の中には、丁寧に巻かれた紙束が三つ。
それぞれ紐の色が違う。
白。
灰。
そして、黒。
「分けてるな」
カイルが低く言う。
「年代か、内容か」
「たぶん両方だね」
レオンは一番上にあった白い紐の束を取り上げた。
紙は古い。
けれど、湿気にやられていない。
保管の仕方がよかったのか、それとも隠した者がそれだけ慎重だったのか。
ラティアは少し離れた椅子に座ったまま、その束を見ていた。
何か感じようとして、でも分からない。
封鎖区画の地下で触れたような澱みはない。
礼拝室や灯楼跡であったような残り香もない。
「……何も、分からない」
ぽつりとラティアが言うと、レオンが目を上げる。
「残滓は?」
ラティアは首を振った。
「ない」
「嫌な感じもしない」
「ただの紙、みたい」
その言葉に、サラが静かに頷く。
「なら、少なくともこの手記そのものに黒いものは残っていないのでしょう」
レオンも小さく息を吐く。
「逆に言うと、読むしかないってことだね」
その一言が、妙に重かった。
ラティアは自分の指先を握る。
感じ取れない。
だから、これは感覚で避けられるものじゃない。
文字を読んで、意味を知って、理解しなければいけない怖さだった。
レオンは慎重に紐を解く。
最初の一頁が開かれる。
そこには、想像していたよりずっと整った文字が並んでいた。
癖の少ない、静かな筆跡。
乱れも、焦りもない。
それがかえって、部屋の空気を少しだけ冷やした。
レオンが最初の行を読み上げる。
「――“北側補助線再観測記録・私記”」
カイルが眉を上げる。
「私記」
「私的な覚え書きってことだろうね」
レオンは頁を見たまま答えた。
その下に、はっきりと名前がある。
ゼウラン・フェルノア
その名が文字として目の前にあるだけで、ラティアの胸が小さく鳴った。
影だったものが、急に人の形を帯びた気がした。
レオンは次の行へ視線を落とす。
「読むよ」
誰も何も言わなかった。
灯りの音だけが、かすかに鳴る。
レオンの声が、静かな部屋に落ちた。
「“王都北側の補助線に、近年、説明のつかぬ揺らぎが見える”」
「“祈祷班は経年劣化とするが、私はそうは思わない”」
サラの目がわずかに動く。
レオンは続けた。
「“継ぎ目に触れる外縁由来の流れは、これまで想定されていたよりも深い”」
「“今行われている補修は表面を撫でているに過ぎず、根を見ていない”」
カイルが腕を組む。
「最初からこれか」
「思ったより真っ当だな」
「そこが嫌なんだよ」
レオンは頁から目を上げずに言った。
「続き、読む」
再び視線を落とす。
「“壊れているのではない。巡りが滞っているのだ”」
「“正しく流れれば、北側は再び安定する”」
「“既存の補助灯楼では足りない。構造そのものを見直す必要がある”」
部屋が静かになる。
ラティアはその言葉を胸の中で反芻した。
壊れているのではない。
巡りが滞っている。
ただの破壊ではなく、組み替え。
ただの悪意ではなく、理屈。
灯楼跡で見つけた魔導板の言葉と、同じ方向を向いていた。
レオンが最後の一文へ目を走らせる。
「“彼らは補修を望む。私は再構築が必要だと考える”」
その声が止まる。
灯りが、ぱち、と小さく弾けた。
サラがゆっくり息を吐く。
「……再構築」
「最初からその言葉を使っていたのですね」
「うん」
レオンは頁を見つめたまま頷く。
「つまり、後から狂ったわけじゃない」
「少なくとも、この時点でもう発想の芯は同じだ」
カイルが口元を歪める。
「王都を直したい、って顔して壊すやつが一番面倒なんだよな」
「まだ壊すつもりだったとは限りません」
サラが静かに言う。
その声音は冷静だったが、どこか硬い。
「この段階では、本当にそう信じていた可能性もあります」
「それが厄介なんだよ」
レオンが低く返した。
「善意や正しさの顔をしてる分、止めるのが遅れる」
ラティアは手記の文字を見つめた。
何も感じない。
残り香も、澱みもない。
なのに、読まれる言葉は重かった。
感覚で分かる嫌さではない。
頭で意味を追うほど、じわじわ重くなっていく嫌さだ。
「……こわい」
思わず零すと、全員の視線が集まる。
ラティアは少しだけ言葉を探した。
「嫌な感じがするわけじゃないの」
「でも、何も感じないまま読めるのに……読んでると、どんどん重くなる」
「それが、こわい」
レオンが少しだけ目を細める。
「分かる気がする」
サラも頷いた。
「感覚ではなく、理屈で押してくる怖さですね」
ユリスが初めて口を開いた。
「次を読め」
短い言葉だった。
でも、その一言で部屋の空気が少し前へ進む。
レオンは頷き、頁をめくった。
二頁目には、図が描かれていた。
王都北側の簡易見取り図。
灯楼。
補助線。
継ぎ目。
そして、いくつかの箇所に小さな印。
「これ……」
サラが身を乗り出す。
「今の北側封鎖区画と重なります」
「うん」
レオンの声が少し鋭くなる。
「しかも、灯楼だけじゃない」
指先で図をなぞる。
「祈祷所、噴水、管理棟、補助核保管庫」
「今日見た場所、ほぼ全部だ」
カイルが低く息を吐く。
「昔から全部繋がってたってことか」
「少なくとも、ゼウランはそう見てた」
レオンは図面を睨む。
「北側一帯を、ひとつの流れとして扱ってたんだ」
ラティアの胸がまた小さく鳴った。
封鎖区画で感じた冷たさ。
あちこちに散っていた残り香。
それが線みたいに繋がる感覚は、間違っていなかったのだ。
でも、それを“設計”として最初に見ていたのがゼウランだと分かると、急に景色が重くなる。
そのとき、レオンの指が頁の下端で止まった。
「……注記がある」
灯りを寄せる。
小さな文字。
レオンが読み上げた。
「“北側は最も素直に反応する”」
「“澱みは排すべきものではなく、正しく巡らせるべきものである”」
サラの表情が、そこで明確に変わった。
「……澱みを、巡らせる?」
「ありえません」
その声はいつもより低かった。
「祈祷の理では、澱みは清めるべきものです」
「そこを根本から違うものとして見ている」
レオンも頷く。
「だから補助核を“容器”に変えたんだろうね」
「澱みを流すものじゃなく、滞らせて回すために」
カイルが顔をしかめる。
「気持ち悪い理屈だな」
ユリスが短く言う。
「思想だ」
その一言で、部屋がまた静まる。
ただの手口じゃない。
ただの事故でもない。
考え方そのものが違っていたのだと、はっきり分かってしまった。
ラティアは胸の前で指先を握る。
怖い。
でも同時に、ようやく敵の“中身”に触れ始めた気もした。
壊したいんじゃない。
正したいと思っている。
その思い方ごと、たぶん危うい。
レオンが頁を閉じる。
「今日はここまでにしよう」
カイルが意外そうに目を上げる。
「読むの止めるのか」
「止める」
レオンは即答した。
「このまま一気に読むと、解釈が雑になる」
「最初の一頁だけでも、かなり重い」
サラも静かに同意した。
「ええ。今は整理した方がいいでしょう」
ユリスも反対しなかった。
「休め」
それだけ言う。
ラティアは小さく息を吐いた。
正直、助かった気がした。
これ以上読むと、頭の中まであの静かな文字で満ちそうだった。
そのとき、机の端へ小さな音がした。
見ると、ユリスが湯呑みを一つ置いていた。
また、自分の前にだけ。
「飲め」
短い声。
ラティアは少しだけ目を瞬く。
「……ありがとう」
湯呑みを包むと、じんわりと熱が移る。
そのあたたかさで、ようやく自分の指先が思っていたより冷えていたのに気づいた。
向かいでカイルが笑う。
「今日は茶か」
「次は何になるんだろうな」
「うるさい」
ラティアが言うと、カイルが肩を揺らした。
レオンも少しだけ笑っている。
さっきまで張っていた部屋の空気が、ほんの少しだけ緩む。
でも、机の上の手記は変わらずそこにある。
整った文字。
静かな筆跡。
澱みを“巡らせる”という異質な理屈。
ゼウラン・フェルノア。
その名前は、もう過去の研究者ではない。
今も北側に残る異変の中心で、確かに息づいている。
湯気の向こうで、ラティアは閉じられた手記を見つめた。
まだ最初の一頁だ。
それなのに、もう十分重い。
この先にあるものは、きっともっと軽くない。
それでも。
目を逸らしたくはなかった。
湯呑みの熱を指先に抱えたまま、ラティアは小さく息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
明日は、もう少し先へ行ける気がした。




