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重い扉の向こうで、何かが擦れた。


ぎ……、と。


耳にまとわりつくような、低い音だった。


ラティアの肩がびくりと揺れる。


ユリスの手は、もう剣にかかっていた。

カイルの指は弦へ。

サラの祈りは、声になる寸前まで持ち上がっている。

レオンは灯りを掲げたまま、扉の継ぎ目を鋭く睨んでいた。


もう一度。


ぎ……、ぎり、と。


近づいてくる音ではない。

向こう側で、長いこと倒れたままだった何かが、無理やり起き上がろうとしているみたいな音だった。


「開ける」


ユリスの声は低い。

短い。

迷いがない。


誰も止めなかった。


鉄扉が、ゆっくり押し開かれる。


途端、冷たい空気があふれ出た。


湿った石の匂い。

長く閉ざされた地下の冷え。

その奥に混じる、焦げたような、黒いものが乾いたあとの薄い嫌な匂い。


ラティアの喉の奥が、ひり、と焼ける。


灯りが差し込む。


扉の向こうは、すぐ階段だった。


細く、急で、まっすぐ下へ落ちている。

その途中、踊り場の手前に何かが倒れていた。


「……人じゃないな」


カイルが低く言う。


レオンが目を細める。


「古い管理具だ」


灯りが届く。


それは人の背丈ほどある金属製の支柱だった。

折れた補助棒が一本だけ残り、その先が石段を引っかいている。


さっきの音は、あれだ。


けれど、その根元に薄くこびりついていた黒を見た瞬間、空気がまた張った。


「残滓に引っ張られたか」


レオンが吐くように言う。


「意思があるほどじゃない。でも……」


「半端に起きてる」


ラティアは扉の前で息を整える。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


違う。


これは違う。


入口にこびりついていただけの、薄い残りだ。

本当に嫌なものは、もっと下にある。


もっと濃い。

もっと重い。


「……まだある」


小さく言うと、ユリスが頷いた。


「行くぞ」


カイルが先に一歩踏み出す。


足元の支柱を乱暴に蹴り、道の端へ寄せた。


金属が石段を打って、甲高い音を立てる。


「起きるならもっと気合入れて起きろって感じだな」


低く言ったその声に、ラティアが思わず顔を上げる。


「縁起でもないこと言わないで」


すぐに返すと、カイルが肩を揺らした。


「少しは緊張ほぐれたろ」


「全然」


「嘘つけ」


そんな軽口のままでも、誰も油断はしていなかった。


一行は順に階段を下りる。


上の光はすぐ細くなる。

石壁が近い。

音が吸われる。

自分たちの足音だけが、やけに重く返る。


ラティアは一段下りるごとに、空気の重さが増していくのを感じた。


ただ湿っているんじゃない。


長く流れきらなかったもの。

沈んだまま淀んでいたもの。

それが床と壁に、薄く、でも確実に染み込んでいる。


「ラティア」


後ろからサラの声がした。


「大丈夫ですか」


「……うん」


嘘ではない。

でも、楽でもない。


下りきった先には、短い廊下が伸びていた。


左右に古い扉。

正面には、半ば崩れた石壁に埋まるように、さらに重い鉄扉がある。


「まずは横を見る」


レオンが左の扉を押した。


中は狭い作業室だった。


棚。

崩れた机。

工具箱。

乾ききったインク壺。

そして、壁一面に貼られていたはずの図面は、ほとんど剥がされていた。


「……持ち出されてる」


レオンの声が低くなる。


床に散った紙片を拾う。


「しかも最近だ」


サラが別の紙片を見た。


「祈祷札の台紙ですね」


「神殿側のものです」


カイルが舌打ちする。


「神殿の型まで知ってるやつが、ここを使ってたってことか」


「そう」


レオンが短く返す。


ラティアは入口から中を見た。


残り香はある。

でも薄い。


何度も出入りした人の気配が、もう擦り切れて、壁の表面に乾いて残っているだけだ。


「こっちは違う」


ぽつりと零すと、ユリスが正面の鉄扉へ視線を向けた。


「奥か」


ラティアは頷く。


「……うん」


「こっちは、触った跡だけ」


「奥の方が濃い」


「なら急ぐ」


ユリスが短く言う。


その時、レオンが右の部屋から声を上げた。


「こっち来て」


全員が動く。


中は小さな記録室だった。


棚は荒らされている。

けれど壁際の一番下の段だけ、不自然に箱が残っていた。


「持ち出し漏れ?」


カイルが問う。


「いや」


レオンが蓋を開ける。


中身は紙ではなかった。


細い金属板。

交換用の結界部品。

そして、円盤状の古い補助核が二つ。


どちらも黒く曇っていた。


サラの顔が険しくなる。


「補助核……」


「灯楼で使う予備だね」


レオンが片方を持ち上げ、光にかざす。


「でも、使い切られ方が変だ」


ラティアが思わず見つめる。


核の表面を走る細い線が、途中で何度も乱れていた。

本来の流れじゃない。

何か別のものを、無理やり押し込まれた跡。


「外から流し込んでる」


レオンの声が冷える。


「使い方を変えたんだ」


カイルが顔をしかめた。


「またそれかよ」


「王都の設備を壊すんじゃなくて、組み替えてる」


ラティアの胸がざわつく。


核そのものに強い残滓はない。

でも、触れたものの跡だけが薄く冷たい。


「……嫌」


思わず零れる。


「ここにも少し残ってる」


レオンがすぐに核を戻した。


「触らなくて正解」


その瞬間だった。


正面の鉄扉の向こうで、また何かが擦れた。


今度は、さっきより近い。


ぎ……、と。


一瞬で空気が凍る。


ユリスはもう扉の前に立っていた。


「こっちが本命だ」


短い声。


誰も異論を挟まない。


廊下の突き当たりの鉄扉は、上のものよりさらに重かった。


中央に古い封印盤。

その上から後付けの鎖。

そして、その鎖はもう切られている。


「補助核保管庫だな」


レオンが図面と見比べて言う。


「本命だ」


サラが封印盤へ手をかざす。


「古い封印は壊されています」


「でも、完全には死んでいません」


「少しだけ残ってる」


ラティアの胸が、どくん、と強く鳴った。


扉の向こうにあるものは、今までとは比べものにならない。


残り香、というより、澱みの層が深い。

上澄みだけでも冷たいのに、その下にはもっと重いものが沈んでいる。


息が詰まる。


「……ここ」


声が掠れた。


「ここが、いちばん嫌」


カイルが弓を握り直す。


「分かりやすくて助かる」


「ありがたくないけどね」


レオンが返す。


その直後、ユリスが鎖を脇へ払った。


重い音が廊下に響き、ラティアの背中が粟立つ。


「開ける」


鉄扉が、ゆっくり開く。


中は想像していたより広かった。


円形に近い石室。

壁際に沿って、核を収めるための台座が並んでいる。

その大半は空だった。


残っているのは三つ。


そのうち二つは割れていた。

砕けた破片の周りに、黒い煤のようなものが散っている。


そして、一番奥。


中央の台座にだけ、まだ何かがあった。


ラティアは思わず息を呑む。


補助核だった。

けれど、普通ではない。


本来は淡い光を宿すはずの核が、今は濁った灰色に曇り、内側に黒い筋を何本も抱え込んでいる。


壊れてはいない。

でも、壊れる寸前だった。


危うい均衡で、かろうじて形を保っている。


「触るな!」


レオンの声が鋭く飛ぶ。


その瞬間、核の中の黒い筋が脈打った。


どくん、と。


石室の空気が揺れた。


ラティアの喉の奥が焼けるみたいに熱くなる。


「澱みが――」


言い終わる前に、核の表面から黒いものが溢れた。


煙ではない。

液体でもない。


もっと粘り気のある、黒い塊。


それが台座からずるりと落ち、床に広がり、形を取り始める。


「下がれ!」


ユリスが前へ出る。


カイルの矢が飛ぶ。


雷光が黒い塊を撃ち抜く。


だが散らない。


表面が焦げるだけで、すぐにまた盛り上がる。


「核に繋がってる!」


レオンが叫ぶ。


「先に切らないと止まらない!」


サラの祈りが石室に響く。


白い光が黒い塊の動きを一瞬だけ鈍らせる。

でも止まりきらない。


黒が、床を這って広がる。


「ラティア!」


レオンが振り返る。


「一番濃いの、どこ!」


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


怖い。

でも、見る。


黒い塊そのものじゃない。


その奥。

台座の裏。

核に触れている一点だけが、ほかよりずっと重い。


澱みが、そこへ集まっている。


「核の後ろ!」


叫ぶ。


「そこだけ、澱みが深い!」


「了解!」


カイルが位置を変える。


矢が角度を変えて飛び、中央台座の背面を撃つ。


石が砕けた。


その瞬間、レオンの魔法陣が滑り込む。


「そこか!」


「流し込み口だ!」


サラの白い祈りが重なる。


ユリスが一歩で距離を詰めた。


剣が黒い塊を裂く。

そのまま台座の裏へ深く叩き込まれる。


甲高い音。


核の中の黒い筋が、一気に乱れた。


ラティアは胸を押さえた。


空気が、ほどける。


重く沈んでいた澱みが、引き剥がされるみたいに崩れていく。


「今!」


レオンの声。


カイルの二本目の矢が核そのものを撃ち抜く。


サラの祈りがそれを包み、黒が飛び散らないよう押さえる。


そして最後に、ユリスが核を台座ごと断ち割った。


白い閃き。


次の瞬間、石室を満たしていた嫌な重さが、一気に落ちた。


黒い塊は床に崩れ、ただの煤みたいに乾いていく。


静寂。


本当に、急に。


誰もすぐには動かなかった。


ラティアは浅く息を吐く。

肩が震えているのに、少し遅れて気づく。


「……終わった?」


小さく言うと、サラがまだ警戒を解かないまま答えた。


「いったんは」


レオンは割れた核の断面を見ていた。


その表情が、ゆっくり険しくなる。


「これ、補助核じゃない」


カイルが眉を上げる。


「は?」


「元はそうだった」


レオンは低く言う。


「でも、もう中身をほとんど入れ替えられてる」


「補助核を器にして、澱みを溜めるための容器にされてた」


サラの顔が冷える。


「そんなことを……」


ラティアは割れた核を見つめた。


だから、あんなに嫌だったのだ。


ただの設備じゃない。

澱みを集めるための“溜まり”にされていたから。


その時だった。


ラティアの胸がまた小さくざわつく。


もう強い澱みは崩れている。

でも、それとは別の薄い残りが、壁の奥にある。


「……まだある」


全員が振り返る。


ラティアは割れた核ではなく、その奥の壁を見た。


「残り香」


「濃くはないけど……同じ感じが、奥にも」


レオンが灯りを向ける。


壁の一角だけ、石の色が違う。


「隠し棚か」


カイルが近づき、石の縁へ指をかける。


押すと、浅い手応えがあった。


「開くぞ」


小さな石扉がずれた。


奥から細長い箱が現れる。


中には、巻かれた古い紙が三本と、封蝋の割れた小箱が一つ。


誰も、すぐには触れなかった。


ラティアの胸の奥はまだ少しざわついている。

でも、さっきまでの濁った重さとは違う。


これは澱みじゃない。

長く隠されていたものの、乾いた残りだ。


レオンが慎重に紙を取り上げる。


一番外側の紐を解き、広げた瞬間、目の色が変わった。


「……あった」


その声は、興奮というより確信に近かった。


「ゼウランの手記だ」


石室の空気が、また別の意味で張る。


カイルが小さく息を吐く。


「ようやく本命か」


サラはまだ割れた核から目を離していない。


「ここで読むのは危険です」


「持ち帰る」


ユリスが即座に言う。


レオンも頷いた。


「そうする」


ラティアは石室の中央を見渡した。


割れた核。

乾いた黒。

空になった台座。

隠されていた手記。


ようやく掴んだ。


けれど、それはきっと入口に過ぎない。


胸の奥で、冷たさとは別の重みが静かに残る。


ゼウランが何を考え、何をしようとしたのか。

その“中身”に、これから触れるのだ。


「戻るぞ」


ユリスの声で、意識が現実へ戻る。


ラティアは小さく頷いた。


「……うん」


でも、石室を出る前に一度だけ、割れた核の跡を振り返る。


あそこに溜められていたものは、もうほとんど消えた。

それでも、嫌な残りだけは、まだ薄く床に染みていた。


今まで感じてきた“残り香”のひとつひとつが、ようやく線になり始めている。


その先にあるものは、きっと軽くない。


そう分かってしまう朝だった。

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