67
重い扉の向こうで、何かが擦れた。
ぎ……、と。
耳にまとわりつくような、低い音だった。
ラティアの肩がびくりと揺れる。
ユリスの手は、もう剣にかかっていた。
カイルの指は弦へ。
サラの祈りは、声になる寸前まで持ち上がっている。
レオンは灯りを掲げたまま、扉の継ぎ目を鋭く睨んでいた。
もう一度。
ぎ……、ぎり、と。
近づいてくる音ではない。
向こう側で、長いこと倒れたままだった何かが、無理やり起き上がろうとしているみたいな音だった。
「開ける」
ユリスの声は低い。
短い。
迷いがない。
誰も止めなかった。
鉄扉が、ゆっくり押し開かれる。
途端、冷たい空気があふれ出た。
湿った石の匂い。
長く閉ざされた地下の冷え。
その奥に混じる、焦げたような、黒いものが乾いたあとの薄い嫌な匂い。
ラティアの喉の奥が、ひり、と焼ける。
灯りが差し込む。
扉の向こうは、すぐ階段だった。
細く、急で、まっすぐ下へ落ちている。
その途中、踊り場の手前に何かが倒れていた。
「……人じゃないな」
カイルが低く言う。
レオンが目を細める。
「古い管理具だ」
灯りが届く。
それは人の背丈ほどある金属製の支柱だった。
折れた補助棒が一本だけ残り、その先が石段を引っかいている。
さっきの音は、あれだ。
けれど、その根元に薄くこびりついていた黒を見た瞬間、空気がまた張った。
「残滓に引っ張られたか」
レオンが吐くように言う。
「意思があるほどじゃない。でも……」
「半端に起きてる」
ラティアは扉の前で息を整える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
違う。
これは違う。
入口にこびりついていただけの、薄い残りだ。
本当に嫌なものは、もっと下にある。
もっと濃い。
もっと重い。
「……まだある」
小さく言うと、ユリスが頷いた。
「行くぞ」
カイルが先に一歩踏み出す。
足元の支柱を乱暴に蹴り、道の端へ寄せた。
金属が石段を打って、甲高い音を立てる。
「起きるならもっと気合入れて起きろって感じだな」
低く言ったその声に、ラティアが思わず顔を上げる。
「縁起でもないこと言わないで」
すぐに返すと、カイルが肩を揺らした。
「少しは緊張ほぐれたろ」
「全然」
「嘘つけ」
そんな軽口のままでも、誰も油断はしていなかった。
一行は順に階段を下りる。
上の光はすぐ細くなる。
石壁が近い。
音が吸われる。
自分たちの足音だけが、やけに重く返る。
ラティアは一段下りるごとに、空気の重さが増していくのを感じた。
ただ湿っているんじゃない。
長く流れきらなかったもの。
沈んだまま淀んでいたもの。
それが床と壁に、薄く、でも確実に染み込んでいる。
「ラティア」
後ろからサラの声がした。
「大丈夫ですか」
「……うん」
嘘ではない。
でも、楽でもない。
下りきった先には、短い廊下が伸びていた。
左右に古い扉。
正面には、半ば崩れた石壁に埋まるように、さらに重い鉄扉がある。
「まずは横を見る」
レオンが左の扉を押した。
中は狭い作業室だった。
棚。
崩れた机。
工具箱。
乾ききったインク壺。
そして、壁一面に貼られていたはずの図面は、ほとんど剥がされていた。
「……持ち出されてる」
レオンの声が低くなる。
床に散った紙片を拾う。
「しかも最近だ」
サラが別の紙片を見た。
「祈祷札の台紙ですね」
「神殿側のものです」
カイルが舌打ちする。
「神殿の型まで知ってるやつが、ここを使ってたってことか」
「そう」
レオンが短く返す。
ラティアは入口から中を見た。
残り香はある。
でも薄い。
何度も出入りした人の気配が、もう擦り切れて、壁の表面に乾いて残っているだけだ。
「こっちは違う」
ぽつりと零すと、ユリスが正面の鉄扉へ視線を向けた。
「奥か」
ラティアは頷く。
「……うん」
「こっちは、触った跡だけ」
「奥の方が濃い」
「なら急ぐ」
ユリスが短く言う。
その時、レオンが右の部屋から声を上げた。
「こっち来て」
全員が動く。
中は小さな記録室だった。
棚は荒らされている。
けれど壁際の一番下の段だけ、不自然に箱が残っていた。
「持ち出し漏れ?」
カイルが問う。
「いや」
レオンが蓋を開ける。
中身は紙ではなかった。
細い金属板。
交換用の結界部品。
そして、円盤状の古い補助核が二つ。
どちらも黒く曇っていた。
サラの顔が険しくなる。
「補助核……」
「灯楼で使う予備だね」
レオンが片方を持ち上げ、光にかざす。
「でも、使い切られ方が変だ」
ラティアが思わず見つめる。
核の表面を走る細い線が、途中で何度も乱れていた。
本来の流れじゃない。
何か別のものを、無理やり押し込まれた跡。
「外から流し込んでる」
レオンの声が冷える。
「使い方を変えたんだ」
カイルが顔をしかめた。
「またそれかよ」
「王都の設備を壊すんじゃなくて、組み替えてる」
ラティアの胸がざわつく。
核そのものに強い残滓はない。
でも、触れたものの跡だけが薄く冷たい。
「……嫌」
思わず零れる。
「ここにも少し残ってる」
レオンがすぐに核を戻した。
「触らなくて正解」
その瞬間だった。
正面の鉄扉の向こうで、また何かが擦れた。
今度は、さっきより近い。
ぎ……、と。
一瞬で空気が凍る。
ユリスはもう扉の前に立っていた。
「こっちが本命だ」
短い声。
誰も異論を挟まない。
廊下の突き当たりの鉄扉は、上のものよりさらに重かった。
中央に古い封印盤。
その上から後付けの鎖。
そして、その鎖はもう切られている。
「補助核保管庫だな」
レオンが図面と見比べて言う。
「本命だ」
サラが封印盤へ手をかざす。
「古い封印は壊されています」
「でも、完全には死んでいません」
「少しだけ残ってる」
ラティアの胸が、どくん、と強く鳴った。
扉の向こうにあるものは、今までとは比べものにならない。
残り香、というより、澱みの層が深い。
上澄みだけでも冷たいのに、その下にはもっと重いものが沈んでいる。
息が詰まる。
「……ここ」
声が掠れた。
「ここが、いちばん嫌」
カイルが弓を握り直す。
「分かりやすくて助かる」
「ありがたくないけどね」
レオンが返す。
その直後、ユリスが鎖を脇へ払った。
重い音が廊下に響き、ラティアの背中が粟立つ。
「開ける」
鉄扉が、ゆっくり開く。
中は想像していたより広かった。
円形に近い石室。
壁際に沿って、核を収めるための台座が並んでいる。
その大半は空だった。
残っているのは三つ。
そのうち二つは割れていた。
砕けた破片の周りに、黒い煤のようなものが散っている。
そして、一番奥。
中央の台座にだけ、まだ何かがあった。
ラティアは思わず息を呑む。
補助核だった。
けれど、普通ではない。
本来は淡い光を宿すはずの核が、今は濁った灰色に曇り、内側に黒い筋を何本も抱え込んでいる。
壊れてはいない。
でも、壊れる寸前だった。
危うい均衡で、かろうじて形を保っている。
「触るな!」
レオンの声が鋭く飛ぶ。
その瞬間、核の中の黒い筋が脈打った。
どくん、と。
石室の空気が揺れた。
ラティアの喉の奥が焼けるみたいに熱くなる。
「澱みが――」
言い終わる前に、核の表面から黒いものが溢れた。
煙ではない。
液体でもない。
もっと粘り気のある、黒い塊。
それが台座からずるりと落ち、床に広がり、形を取り始める。
「下がれ!」
ユリスが前へ出る。
カイルの矢が飛ぶ。
雷光が黒い塊を撃ち抜く。
だが散らない。
表面が焦げるだけで、すぐにまた盛り上がる。
「核に繋がってる!」
レオンが叫ぶ。
「先に切らないと止まらない!」
サラの祈りが石室に響く。
白い光が黒い塊の動きを一瞬だけ鈍らせる。
でも止まりきらない。
黒が、床を這って広がる。
「ラティア!」
レオンが振り返る。
「一番濃いの、どこ!」
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
怖い。
でも、見る。
黒い塊そのものじゃない。
その奥。
台座の裏。
核に触れている一点だけが、ほかよりずっと重い。
澱みが、そこへ集まっている。
「核の後ろ!」
叫ぶ。
「そこだけ、澱みが深い!」
「了解!」
カイルが位置を変える。
矢が角度を変えて飛び、中央台座の背面を撃つ。
石が砕けた。
その瞬間、レオンの魔法陣が滑り込む。
「そこか!」
「流し込み口だ!」
サラの白い祈りが重なる。
ユリスが一歩で距離を詰めた。
剣が黒い塊を裂く。
そのまま台座の裏へ深く叩き込まれる。
甲高い音。
核の中の黒い筋が、一気に乱れた。
ラティアは胸を押さえた。
空気が、ほどける。
重く沈んでいた澱みが、引き剥がされるみたいに崩れていく。
「今!」
レオンの声。
カイルの二本目の矢が核そのものを撃ち抜く。
サラの祈りがそれを包み、黒が飛び散らないよう押さえる。
そして最後に、ユリスが核を台座ごと断ち割った。
白い閃き。
次の瞬間、石室を満たしていた嫌な重さが、一気に落ちた。
黒い塊は床に崩れ、ただの煤みたいに乾いていく。
静寂。
本当に、急に。
誰もすぐには動かなかった。
ラティアは浅く息を吐く。
肩が震えているのに、少し遅れて気づく。
「……終わった?」
小さく言うと、サラがまだ警戒を解かないまま答えた。
「いったんは」
レオンは割れた核の断面を見ていた。
その表情が、ゆっくり険しくなる。
「これ、補助核じゃない」
カイルが眉を上げる。
「は?」
「元はそうだった」
レオンは低く言う。
「でも、もう中身をほとんど入れ替えられてる」
「補助核を器にして、澱みを溜めるための容器にされてた」
サラの顔が冷える。
「そんなことを……」
ラティアは割れた核を見つめた。
だから、あんなに嫌だったのだ。
ただの設備じゃない。
澱みを集めるための“溜まり”にされていたから。
その時だった。
ラティアの胸がまた小さくざわつく。
もう強い澱みは崩れている。
でも、それとは別の薄い残りが、壁の奥にある。
「……まだある」
全員が振り返る。
ラティアは割れた核ではなく、その奥の壁を見た。
「残り香」
「濃くはないけど……同じ感じが、奥にも」
レオンが灯りを向ける。
壁の一角だけ、石の色が違う。
「隠し棚か」
カイルが近づき、石の縁へ指をかける。
押すと、浅い手応えがあった。
「開くぞ」
小さな石扉がずれた。
奥から細長い箱が現れる。
中には、巻かれた古い紙が三本と、封蝋の割れた小箱が一つ。
誰も、すぐには触れなかった。
ラティアの胸の奥はまだ少しざわついている。
でも、さっきまでの濁った重さとは違う。
これは澱みじゃない。
長く隠されていたものの、乾いた残りだ。
レオンが慎重に紙を取り上げる。
一番外側の紐を解き、広げた瞬間、目の色が変わった。
「……あった」
その声は、興奮というより確信に近かった。
「ゼウランの手記だ」
石室の空気が、また別の意味で張る。
カイルが小さく息を吐く。
「ようやく本命か」
サラはまだ割れた核から目を離していない。
「ここで読むのは危険です」
「持ち帰る」
ユリスが即座に言う。
レオンも頷いた。
「そうする」
ラティアは石室の中央を見渡した。
割れた核。
乾いた黒。
空になった台座。
隠されていた手記。
ようやく掴んだ。
けれど、それはきっと入口に過ぎない。
胸の奥で、冷たさとは別の重みが静かに残る。
ゼウランが何を考え、何をしようとしたのか。
その“中身”に、これから触れるのだ。
「戻るぞ」
ユリスの声で、意識が現実へ戻る。
ラティアは小さく頷いた。
「……うん」
でも、石室を出る前に一度だけ、割れた核の跡を振り返る。
あそこに溜められていたものは、もうほとんど消えた。
それでも、嫌な残りだけは、まだ薄く床に染みていた。
今まで感じてきた“残り香”のひとつひとつが、ようやく線になり始めている。
その先にあるものは、きっと軽くない。
そう分かってしまう朝だった。




