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旧管理棟は、近づくほどに“生きていない”建物だった。


窓はほとんど板で打ちつけられ、外壁の漆喰はところどころ剥がれ落ちている。

正面の階段も半分崩れていて、昔はきっともっと整った役所のような建物だったのだろうと分かるだけだ。


それでも、完全な廃墟ではなかった。


ラティアは建物を見上げたまま、外套の端を握る。


区画に入ってからずっと感じていた薄い冷たさが、ここでは少しだけ濃い。

風に晒されて削れながらも、まだ石の隙間や壁の奥に残っている。


「……ここ」


小さく零すと、レオンが建物の正面を見ながら頷いた。


「やっぱりか」


「この辺の流れ、灯楼跡からそのまま続いてる」


サラも眉を寄せる。


「祈祷所や噴水跡の残りが、ここへ向かっていました」


「管理棟っていうより、集積所だな」


カイルが短く言う。


ユリスは正面扉へ近づき、壊れかけた蝶番と鍵の跡を見た。


「開けられた痕がある」


レオンがすぐ横へ来る。


「最近?」


「最近だ」


短い返答。


よく見ると、錆びきった鉄の縁に新しい傷が走っていた。

無理やりこじ開けたというより、慣れた手で最低限だけ壊して入ったような跡だ。


「昨日今日じゃないけど、古くもないね」


レオンがしゃがみ込み、傷の縁を指先で払う。


「しかも一度だけじゃない」


カイルが口元を歪める。


「当たりだな」


サラが扉の脇に残っていた古い札を見た。


「封印札も、一度剥がして貼り直されています」


「雑ですね」


「わざとだろ」


レオンが立ち上がる。


「遠目には“昔の封鎖のまま”に見せるため」


ラティアは入口を見つめた。


冷たいものが、ここから流れ出しているわけではない。

むしろ逆だ。

ここへ入っていくほど濃くなる。


「中、まだある」


ぽつりと零すと、ユリスが振り返る。


「残り香か」


ラティアは少しためらった。


「……うん。人の手の跡みたいなのが、まだ少し」


「今ここに立ってる感じじゃない」


「でも、何度も出入りした感じはある」


その答えに、ユリスはわずかに頷く。


「入る」


誰も反対しなかった。



扉を押し開けると、重い空気がゆっくりこぼれた。


中は暗かった。


朝の光は外にあるのに、建物の中だけ時間が遅れているみたいだった。

板で塞がれた窓の隙間から、細い光が線になって落ちている。

その線の中で、長く触れられなかった埃が静かに舞っていた。


でも、床の全部に埃が積もっているわけではない。


何本か、はっきりと乱れた筋がある。


「通ってるな」


カイルが言う。


レオンも頷いた。


「複数回」


「それも一人じゃないかもしれない」


ラティアはそっと息を吸う。


紙の匂い。

湿った木の匂い。

古い石。

それに混じる、薄く焦げたような嫌な匂い。


礼拝室の残り香そのものではない。

でも、それに近いものが壁の奥へ染みていた。


「右は事務室」


レオンが廊下の案内板の名残を見つけて言う。


「左が資料保管室……いや、違うな」


剥がれた文字を指で追う。


「保管庫と、地下管理室」


「地下か」


ユリスが短く言う。


ラティアの胸が、そこではっきり鳴った。


「……下」


全員の視線が集まる。


ラティアは小さく頷いた。


「下の方が濃い」


「でも、すぐじゃない」


「途中にも残り香がある」


レオンの目が細くなる。


「じゃあ、順に見る」


サラが前へ出る。


「古い封印が残っているなら、無理に触る前に見ます」


「頼む」


ユリスの返答は短い。


そのまま一行は、まず左手の保管庫へ向かった。



保管庫の扉は半開きだった。


中には棚がいくつも並んでいたはずなのだろう。

今はその半分以上が空で、残っている棚もひどく荒れている。


紙の束は床に散り、箱は開け放たれ、中身だけが抜かれていた。


「……露骨」


レオンが低く言う。


足元の紙を一枚拾い上げる。


「持っていきたいものだけ持ってった」


サラも別の束を見た。


「整理して持ち出していますね」


「慌てて隠した形ではありません」


カイルが壁際を覗き込む。


「つまり、ここ使ってたやつが、必要な記録だけ先に片付けたってことか」


「たぶんね」


レオンは棚の背板を軽く叩いた。


「でも全部じゃない」


「全部抜く時間がなかったか、抜き切れなかったか」


ラティアは部屋の中へ一歩入った途端、ぞくりとした。


入口よりもここが濃い。


ただし、地下へ落ちる冷たさとは少し違う。


もっと乾いていて、擦り切れた気配。

何度も人が出入りして、触れて、持ち去っていった残り香だけが薄く残っている。


「……ここ、何度も触った跡がある」


思わず言うと、レオンが顔を上げる。


「分かる?」


ラティアは眉を寄せる。


「うまく言えないけど……」


「同じところの残り方だけ、不自然に薄い」


「何回も動かしたみたい」


サラが静かに息を呑む。


「記録を探したのかもしれませんね」


カイルが舌打ちした。


「欲しいもんだけ持ってったってことか」


そのとき、レオンの指先が棚の奥で止まった。


「……これ」


崩れた箱の陰に、半分埋もれた薄い引き出しがある。


他の棚は荒らされているのに、そこだけ妙に壊れ方が浅かった。


レオンが慎重に引くと、中から数枚の目録札と、折り畳まれた古い図面が出てくる。


「残ってた」


サラがすぐ隣へ寄った。


「何の図面ですか」


レオンは机代わりに空の棚板へ広げる。


そこには、旧管理棟の内部構造が描かれていた。


地上階。

保管庫。

事務室。

そして、その下――


「地下管理室」


カイルが低く読む。


「やっぱりあるじゃねえか」


「しかも地下室は一つじゃない」


レオンの声が鋭くなる。


「管理室の奥に、旧補助核保管庫」


カイルが顔をしかめた。


「保管庫?」


「結界補助核の?」


「うん」


レオンは図面の端を押さえた。


「北側の補助線や灯楼を維持するための予備核だ」


「今は使われてないはずだけど」


ラティアはその名を聞いた瞬間、胸の奥の冷たさが強くなった。


下だ。


図面のその場所に、感覚が引かれる。


「そこ」


ラティアが指差す。


「そこが、いちばん濃い」


ユリスが図面を見る。


「地下へ降りる」


「待って」


レオンが止めた。


「先に一つ確認」


彼は床へしゃがみ込み、乱れた埃の筋を追う。


入口から保管庫。

そこから廊下。

そして、地下へ続く扉の方へ。


「やっぱりだ」


レオンが低く言う。


「探してたのはここだけじゃない」


「でも、最後は必ず下へ行ってる」


「つまり?」


カイルが問う。


レオンはまっすぐ地下図面を見た。


「欲しかったものは、結局下にあった」


部屋が静かになる。


ラティアは図面から目を離せなかった。


旧補助核保管庫。


名前だけなら、ただの設備に聞こえる。

でも、感じるものは設備じゃない。


沈んだ水みたいな冷たさ。

長く溜まった残り香。

それが下へ重く沈んでいる。


「行くぞ」


ユリスの一言で、全員が保管庫を出る。


廊下の突き当たりに、半ば崩れた鉄扉があった。


その前の床だけ、埃が不自然に薄い。


最近、人が通った跡だ。


レオンが扉の脇を照らす。


「封印の跡がある」


サラも光を寄せた。


「破られていますね」


「古い封印を壊して、新しい簡易封を重ねてる」


カイルが口元を歪める。


「見られたくないんだろうな」


「もしくは」


レオンが静かに続ける。


「中身をまだ完全には制御しきれてないか」


その言葉に、ラティアの背筋が少し冷えた。


ラティアは扉の前で足を止める。


向こうから、はっきりした気配が来るわけではない。


でも、扉の下から、冷たい澱みがじわじわ染み出している。


礼拝室の残り香より濃い。

灯楼跡より重い。


「……下が、いちばん嫌」


声が少し掠れた。


ユリスが振り返る。


「残り香か」


ラティアは小さく頷く。


「うん」


「すごく濃い」


「長く溜まってた感じがする」


ユリスが手をかける。


その瞬間。


ラティアの胸の奥で、冷たいものが強くざわついた。


澱みが揺れた。

向こう側で何かが動いた、というより、扉に触れたことで沈んでいたものが乱れた感じに近い。


「……来る」


息を詰めた声で言うと、ユリスの動きが一瞬で変わる。


「下がれ」


レオンが灯りを上げる。

サラの祈りが喉元まで上る。

カイルの指が弦へかかる。


重い扉の向こうで、何かが、低く擦れる音を立てた。

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