65
夜明けの光は、まだ薄かった。
神殿の石段を下りる頃には空の端がようやく白み始めていたが、朝と呼ぶには静かすぎる時間だった。
吐く息が少し白い。
北側へ向かう道は人通りも少なく、店の戸もまだ閉じられたままだ。
王都は目を覚ましきっていないのに、一行の足取りだけが先に進んでいく。
ラティアはユリスから渡された外套を肩に掛けていた。
思っていたよりずっとあたたかい。
布の重みと、かすかに残る体温みたいなものが、妙に落ち着いた。
そのことを意識すると少しだけ気恥ずかしくて、ラティアは外套の縁をそっと握る。
「寒くない?」
隣からレオンがやわらかく聞いた。
「……うん、大丈夫」
「そっか」
それだけ言って、レオンは前へ視線を戻す。
けれどその横顔は、少しだけラティアの顔色を見ていたあとみたいだった。
前を行くカイルが肩越しに言う。
「今日は迷子になるなよ」
「ならないよ」
「昨日、王城の階段で怪しかっただろ」
「それはもういいの」
「よくねえよ。封鎖区画で段差踏み外されたら困る」
ラティアがむっとすると、サラが小さく笑った。
「でしたら、今日は私たちがちゃんと見ていましょう」
「サラまで」
「私は最初から見ています」
その返しがあんまりさらっとしていて、ラティアは思わず頬をふくらませる。
前でカイルが吹き出した。
「ほら、やっぱり分かりやすい」
「うるさい」
言い返した声が少しだけ弾む。
それで、朝の冷たさの中にわずかにやわらかい空気が混じった。
けれど、その空気は長くは続かなかった。
北側の外れへ近づくにつれて、街の音が減っていく。
開きかけた窓。
人の気配の薄い通り。
古い建物の壁に、風だけが擦れていく。
「この先だ」
レオンが地図を閉じる。
道の先には、低い石壁と鉄の門が見えていた。
門の両脇には王城の兵が二人。
さらに、その後ろに神殿の監視役が一人立っている。
門は閉じられていた。
けれど使われなくなって久しい、というより、閉じたまま忘れられたような重さがそこにはあった。
門扉の上には、古い封印札の跡が何枚も重なっている。
色褪せ、破れ、半分風に剥がれかけたものまである。
「思ったより露骨だな」
カイルが低く言った。
「“入るな”って顔してる」
レオンが鼻で笑う。
「その通りなんだろうね」
兵の一人がこちらへ進み出る。
「王命による立ち入りと伺っております。許可証を」
サラが封蝋付きの書状を差し出す。
兵はそれを確かめ、神殿側の監視役に視線を送った。
監視役の男は一度ラティアたちを見回し、最後にユリスの顔で止める。
「封鎖区画の中は、かなり荒れております」
「古い結界設備も多い。足元にはご注意を」
「分かってる」
ユリスが短く答える。
男はわずかに頷き、門の鍵へ手をかけた。
重い音がする。
鈍く、嫌な響きだった。
鉄が擦れ、長いあいだ閉じていたものがゆっくり開く。
その隙間から流れ出た空気は、街のものとは少し違っていた。
冷たい。
けれど朝の冷たさじゃない。
触れた瞬間、ラティアの喉の奥がかすかにひりついた。
乾いた土と、古い石と、それに混じる、鉄を舐めたみたいな薄い苦さ。
人のいない場所の匂いではない。
もっと奥に、長く沈んだまま動かなかったものが、門が開いたことでわずかに浮いてきた――そんな感じがした。
ラティアの指先が、外套の端をきゅっと握る。
「……やだ」
ぽつりと零すと、すぐ隣から低い声がした。
「分かるか」
ユリスだった。
ラティアは小さく頷く。
「昨日の残り香と似てる」
「でも、あっちより古い」
「黒いものが残ってるっていうより……ずっと下に沈んでた澱みが、少しだけ浮いてきた感じ」
「行くぞ」
ユリスの一言で、一行は門をくぐる。
中は、思っていたより広かった。
王都の一角であるはずなのに、空気が街と繋がっていない。
石畳は割れ、ところどころに草が生え、使われなくなった水路が黒く口を開けている。
崩れた壁。
板で打ちつけられた窓。
昔は人が住んでいたはずの家屋が、静かに朽ちていた。
「封鎖区画っていうより、捨てられた区画だな」
カイルが周囲を見回す。
「実際、近いと思います」
サラの声は静かだった。
「疫病と地盤沈下が重なって、北側の一部を閉じたと記録にありました」
「そこへ結界の継ぎ目と灯楼が重なった」
レオンが続ける。
「だから余計に、人を入れなくなったんだろうね」
ラティアはゆっくり息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
気配を探る。
あちこちに古い残り滓がある。
閉鎖された時に置き去りにされた人の気配。
暮らしの熱が抜けた家の名残。
祈られなくなった祈祷所の、乾いた静けさ。
でも、それだけじゃない。
もっと下に、別のものがある。
古い設備の隙間を伝って、黒いものが細く流れた跡。
今は表に出ていないのに、土の下でまだ沈んだまま残っているみたいな冷たさ。
「……右」
ラティアが言う。
ユリスがすぐそちらへ進路を変える。
迷いがない。
残りの四人も、まるで最初から決まっていたみたいについてくる。
狭い路地を抜けると、開けた場所へ出た。
中央に、崩れた噴水跡。
その向こうに、半ば埋もれた祈祷塔の土台がある。
「ここ、神殿の設備?」
サラが足を止めた。
「たぶん、簡易の祈祷所ですね」
「北側区画の住民用だったのでしょう」
レオンは地面にしゃがみ込む。
土の下からわずかに見える石の線を払う。
「神殿式の祈祷陣だ」
「でも上から別の線がなぞられてる」
カイルが顔をしかめる。
「また上書きか」
「うん」
レオンの声が冷える。
「しかもここ、かなり最近掘り返されてる」
その言葉とほぼ同時に、ラティアの胸の奥がざわついた。
昨日の灯楼跡より、もっとはっきりと。
足元の石の下を、何か細いものが走る感じがする。
見えない糸が、噴水跡から四方へ伸びていて、その一本一本に、嫌な澱みが薄くまとわりついている。
「……待って」
足が止まる。
「ここ、澱みがある」
ラティアは噴水跡を見たまま、息を詰める。
「下に、嫌な感じが溜まってる」
「近づくと、動きそう」
「下だ」
ユリスの声が鋭く落ちた。
全員の動きが止まる。
次の瞬間、噴水跡の縁に刻まれていた古い紋様が、じわりと黒く滲んだ。
「来る!」
レオンが叫ぶ。
地面の下から、黒い線が弾けるように広がった。
59話の罠と似ている。
でも、今度はもっと広い。
細い線ではなく、古い祈祷陣そのものが汚染されて起き上がるような感覚。
「散れ!」
ユリスがラティアの肩を押し、位置をずらす。
カイルの矢が即座に飛ぶ。
雷光が黒い線を焼く。
サラの祈りが重なり、地面の一部を白く押さえ込む。
レオンは噴水跡の縁へ魔法陣を走らせた。
「核は噴水の下!」
「古い排水路と繋がってる!」
「厄介だな!」
カイルが二本目の矢を番える。
ラティアは息を吸った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
見える、というより、分かる。
古い祈祷陣の形に沿って、黒いものが薄く区画の下へ残っている。
その中で一箇所だけ、澱みが強い。
そこだけが、ほかより重く、冷たく沈んでいる。
「左!」
ラティアが叫ぶ。
「そこ、澱みが強い!」
「了解!」
カイルの矢が石柱を砕く。
その瞬間、黒い線の一部が乱れた。
レオンがすぐに反応する。
「そこか、流れが集まってる!」
「サラ、右を押さえて!」
「はい!」
白い祈りの光が走る。
ユリスはもう前へ出ていた。
躊躇なく、崩れた噴水の中心へ踏み込む。
剣が閃く。
古い祈祷陣の下に隠れていた黒い核が、石ごと断ち割られた。
バチッ、と空気が弾ける。
一瞬だけ、冷たい風が噴き出すように広がった。
ラティアの髪がふわりと揺れる。
けれど次の瞬間には、黒い線はほどけるみたいに地面へ沈んでいった。
静寂。
壊れた噴水の縁から、小さく砂がこぼれ落ちる音だけが残る。
「……ふう」
カイルが弓を下ろす。
「歓迎が手厚いな」
レオンは噴水跡を睨んだまま言った。
「歓迎というより、侵入確認の仕掛けだね」
「この区画そのものが、半分見張り台みたいになってる」
サラが静かに周囲を見回す。
「古い祈祷所も、噴水も、排水路も使われています」
「王都の古い設備を、そのまま別の用途に変えているのですね」
ラティアは胸を押さえた。
まだざわつきが残っている。
でも、昨日ほどではない。
見つければほどける。
そう分かってきた。
「ラティア」
振り向くと、ユリスが噴水跡から戻ってきていた。
剣についた黒い汚れを払っている。
「まだ行けるか」
短い問い。
ラティアは小さく息を整える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
「……うん」
ユリスは頷くだけだった。
それから、ほんの一瞬だけラティアの外套の襟元に触れ、ずれを直す。
無意識みたいな、短い仕草。
でもその指先に、ラティアの心臓が小さく跳ねた。
横でカイルが口元を歪める。
「ほんと過保護だな」
「うるさい」
今度はラティアの方が先に返した。
カイルが肩を揺らす。
レオンはそんな二人を見て、ほんの少しだけ笑ったあと、噴水跡の下を見つめ直す。
「でも、これで分かった」
「封鎖区画はただの保管場所じゃない」
「今も使ってる」
サラも頷く。
「ええ」
「消された記録も、おそらくこの周辺にまだ残っています」
「なら、先を探るしかねえな」
カイルが言う。
レオンは地図を開き、今の位置へ印をつけた。
「この先に旧管理棟がある」
「区画の記録を移すなら、そこが一番自然だよ」
ラティアはその名を聞いた瞬間、また胸の奥がざわつくのを感じた。
旧管理棟。
そこだけ、空気の沈み方が違う。
区画に入ってからずっと感じていた冷たさが、あちこちに散っているのではなく、細い流れになってその奥へ集まっている気がした。
見えないのに、分かる。
「……そっち」
思わず言うと、レオンが顔を上げる。
「分かる?」
「たぶん」
ラティアは頷いた。
「残り香が、奥の方に溜まってる感じがする」
「他より、ずっと濃い」
ユリスが短く言う。
「進むぞ」
誰も迷わなかった。
封鎖区画の奥へ向かう道は、さらに光が届きにくくなっていく。
朝に入ったはずなのに、ここだけ時間が少し遅れているみたいだった。
ラティアは外套の襟元に残る微かな感触を意識しそうになって、すぐ前を向く。
今はまだ、そっちじゃない。
見るべきものは、もっと奥にある。
そう言い聞かせるみたいに、もう一度だけ息を吸った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
その先で、崩れかけた大きな建物の影が、静かにこちらを待っていた。




