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夜明けの光は、まだ薄かった。


神殿の石段を下りる頃には空の端がようやく白み始めていたが、朝と呼ぶには静かすぎる時間だった。


吐く息が少し白い。


北側へ向かう道は人通りも少なく、店の戸もまだ閉じられたままだ。

王都は目を覚ましきっていないのに、一行の足取りだけが先に進んでいく。


ラティアはユリスから渡された外套を肩に掛けていた。


思っていたよりずっとあたたかい。

布の重みと、かすかに残る体温みたいなものが、妙に落ち着いた。


そのことを意識すると少しだけ気恥ずかしくて、ラティアは外套の縁をそっと握る。


「寒くない?」


隣からレオンがやわらかく聞いた。


「……うん、大丈夫」


「そっか」


それだけ言って、レオンは前へ視線を戻す。


けれどその横顔は、少しだけラティアの顔色を見ていたあとみたいだった。


前を行くカイルが肩越しに言う。


「今日は迷子になるなよ」


「ならないよ」


「昨日、王城の階段で怪しかっただろ」


「それはもういいの」


「よくねえよ。封鎖区画で段差踏み外されたら困る」


ラティアがむっとすると、サラが小さく笑った。


「でしたら、今日は私たちがちゃんと見ていましょう」


「サラまで」


「私は最初から見ています」


その返しがあんまりさらっとしていて、ラティアは思わず頬をふくらませる。


前でカイルが吹き出した。


「ほら、やっぱり分かりやすい」


「うるさい」


言い返した声が少しだけ弾む。


それで、朝の冷たさの中にわずかにやわらかい空気が混じった。


けれど、その空気は長くは続かなかった。


北側の外れへ近づくにつれて、街の音が減っていく。


開きかけた窓。

人の気配の薄い通り。

古い建物の壁に、風だけが擦れていく。


「この先だ」


レオンが地図を閉じる。


道の先には、低い石壁と鉄の門が見えていた。


門の両脇には王城の兵が二人。

さらに、その後ろに神殿の監視役が一人立っている。


門は閉じられていた。


けれど使われなくなって久しい、というより、閉じたまま忘れられたような重さがそこにはあった。


門扉の上には、古い封印札の跡が何枚も重なっている。

色褪せ、破れ、半分風に剥がれかけたものまである。


「思ったより露骨だな」


カイルが低く言った。


「“入るな”って顔してる」


レオンが鼻で笑う。


「その通りなんだろうね」


兵の一人がこちらへ進み出る。


「王命による立ち入りと伺っております。許可証を」


サラが封蝋付きの書状を差し出す。


兵はそれを確かめ、神殿側の監視役に視線を送った。


監視役の男は一度ラティアたちを見回し、最後にユリスの顔で止める。


「封鎖区画の中は、かなり荒れております」


「古い結界設備も多い。足元にはご注意を」


「分かってる」


ユリスが短く答える。


男はわずかに頷き、門の鍵へ手をかけた。


重い音がする。


鈍く、嫌な響きだった。


鉄が擦れ、長いあいだ閉じていたものがゆっくり開く。


その隙間から流れ出た空気は、街のものとは少し違っていた。


冷たい。

けれど朝の冷たさじゃない。


触れた瞬間、ラティアの喉の奥がかすかにひりついた。

乾いた土と、古い石と、それに混じる、鉄を舐めたみたいな薄い苦さ。


人のいない場所の匂いではない。

もっと奥に、長く沈んだまま動かなかったものが、門が開いたことでわずかに浮いてきた――そんな感じがした。


ラティアの指先が、外套の端をきゅっと握る。


「……やだ」


ぽつりと零すと、すぐ隣から低い声がした。


「分かるか」


ユリスだった。


ラティアは小さく頷く。


「昨日の残り香と似てる」


「でも、あっちより古い」


「黒いものが残ってるっていうより……ずっと下に沈んでた澱みが、少しだけ浮いてきた感じ」


「行くぞ」


ユリスの一言で、一行は門をくぐる。


中は、思っていたより広かった。


王都の一角であるはずなのに、空気が街と繋がっていない。


石畳は割れ、ところどころに草が生え、使われなくなった水路が黒く口を開けている。

崩れた壁。

板で打ちつけられた窓。

昔は人が住んでいたはずの家屋が、静かに朽ちていた。


「封鎖区画っていうより、捨てられた区画だな」


カイルが周囲を見回す。


「実際、近いと思います」


サラの声は静かだった。


「疫病と地盤沈下が重なって、北側の一部を閉じたと記録にありました」


「そこへ結界の継ぎ目と灯楼が重なった」


レオンが続ける。


「だから余計に、人を入れなくなったんだろうね」


ラティアはゆっくり息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


気配を探る。


あちこちに古い残り滓がある。

閉鎖された時に置き去りにされた人の気配。

暮らしの熱が抜けた家の名残。

祈られなくなった祈祷所の、乾いた静けさ。


でも、それだけじゃない。


もっと下に、別のものがある。


古い設備の隙間を伝って、黒いものが細く流れた跡。

今は表に出ていないのに、土の下でまだ沈んだまま残っているみたいな冷たさ。


「……右」


ラティアが言う。


ユリスがすぐそちらへ進路を変える。


迷いがない。

残りの四人も、まるで最初から決まっていたみたいについてくる。


狭い路地を抜けると、開けた場所へ出た。


中央に、崩れた噴水跡。

その向こうに、半ば埋もれた祈祷塔の土台がある。


「ここ、神殿の設備?」


サラが足を止めた。


「たぶん、簡易の祈祷所ですね」


「北側区画の住民用だったのでしょう」


レオンは地面にしゃがみ込む。


土の下からわずかに見える石の線を払う。


「神殿式の祈祷陣だ」


「でも上から別の線がなぞられてる」


カイルが顔をしかめる。


「また上書きか」


「うん」


レオンの声が冷える。


「しかもここ、かなり最近掘り返されてる」


その言葉とほぼ同時に、ラティアの胸の奥がざわついた。


昨日の灯楼跡より、もっとはっきりと。


足元の石の下を、何か細いものが走る感じがする。

見えない糸が、噴水跡から四方へ伸びていて、その一本一本に、嫌な澱みが薄くまとわりついている。


「……待って」


足が止まる。


「ここ、澱みがある」


ラティアは噴水跡を見たまま、息を詰める。


「下に、嫌な感じが溜まってる」


「近づくと、動きそう」


「下だ」


ユリスの声が鋭く落ちた。


全員の動きが止まる。


次の瞬間、噴水跡の縁に刻まれていた古い紋様が、じわりと黒く滲んだ。


「来る!」


レオンが叫ぶ。


地面の下から、黒い線が弾けるように広がった。


59話の罠と似ている。

でも、今度はもっと広い。


細い線ではなく、古い祈祷陣そのものが汚染されて起き上がるような感覚。


「散れ!」


ユリスがラティアの肩を押し、位置をずらす。


カイルの矢が即座に飛ぶ。


雷光が黒い線を焼く。


サラの祈りが重なり、地面の一部を白く押さえ込む。


レオンは噴水跡の縁へ魔法陣を走らせた。


「核は噴水の下!」


「古い排水路と繋がってる!」


「厄介だな!」


カイルが二本目の矢を番える。


ラティアは息を吸った。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


見える、というより、分かる。


古い祈祷陣の形に沿って、黒いものが薄く区画の下へ残っている。

その中で一箇所だけ、澱みが強い。


そこだけが、ほかより重く、冷たく沈んでいる。


「左!」


ラティアが叫ぶ。


「そこ、澱みが強い!」


「了解!」


カイルの矢が石柱を砕く。


その瞬間、黒い線の一部が乱れた。


レオンがすぐに反応する。


「そこか、流れが集まってる!」


「サラ、右を押さえて!」


「はい!」


白い祈りの光が走る。


ユリスはもう前へ出ていた。


躊躇なく、崩れた噴水の中心へ踏み込む。


剣が閃く。


古い祈祷陣の下に隠れていた黒い核が、石ごと断ち割られた。


バチッ、と空気が弾ける。


一瞬だけ、冷たい風が噴き出すように広がった。


ラティアの髪がふわりと揺れる。


けれど次の瞬間には、黒い線はほどけるみたいに地面へ沈んでいった。


静寂。


壊れた噴水の縁から、小さく砂がこぼれ落ちる音だけが残る。


「……ふう」


カイルが弓を下ろす。


「歓迎が手厚いな」


レオンは噴水跡を睨んだまま言った。


「歓迎というより、侵入確認の仕掛けだね」


「この区画そのものが、半分見張り台みたいになってる」


サラが静かに周囲を見回す。


「古い祈祷所も、噴水も、排水路も使われています」


「王都の古い設備を、そのまま別の用途に変えているのですね」


ラティアは胸を押さえた。


まだざわつきが残っている。


でも、昨日ほどではない。


見つければほどける。

そう分かってきた。


「ラティア」


振り向くと、ユリスが噴水跡から戻ってきていた。


剣についた黒い汚れを払っている。


「まだ行けるか」


短い問い。


ラティアは小さく息を整える。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


「……うん」


ユリスは頷くだけだった。


それから、ほんの一瞬だけラティアの外套の襟元に触れ、ずれを直す。


無意識みたいな、短い仕草。


でもその指先に、ラティアの心臓が小さく跳ねた。


横でカイルが口元を歪める。


「ほんと過保護だな」


「うるさい」


今度はラティアの方が先に返した。


カイルが肩を揺らす。


レオンはそんな二人を見て、ほんの少しだけ笑ったあと、噴水跡の下を見つめ直す。


「でも、これで分かった」


「封鎖区画はただの保管場所じゃない」


「今も使ってる」


サラも頷く。


「ええ」


「消された記録も、おそらくこの周辺にまだ残っています」


「なら、先を探るしかねえな」


カイルが言う。


レオンは地図を開き、今の位置へ印をつけた。


「この先に旧管理棟がある」


「区画の記録を移すなら、そこが一番自然だよ」


ラティアはその名を聞いた瞬間、また胸の奥がざわつくのを感じた。


旧管理棟。


そこだけ、空気の沈み方が違う。


区画に入ってからずっと感じていた冷たさが、あちこちに散っているのではなく、細い流れになってその奥へ集まっている気がした。


見えないのに、分かる。


「……そっち」


思わず言うと、レオンが顔を上げる。


「分かる?」


「たぶん」


ラティアは頷いた。


「残り香が、奥の方に溜まってる感じがする」


「他より、ずっと濃い」


ユリスが短く言う。


「進むぞ」


誰も迷わなかった。


封鎖区画の奥へ向かう道は、さらに光が届きにくくなっていく。


朝に入ったはずなのに、ここだけ時間が少し遅れているみたいだった。


ラティアは外套の襟元に残る微かな感触を意識しそうになって、すぐ前を向く。


今はまだ、そっちじゃない。


見るべきものは、もっと奥にある。


そう言い聞かせるみたいに、もう一度だけ息を吸った。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


その先で、崩れかけた大きな建物の影が、静かにこちらを待っていた。

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