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神殿の廊下は、夜が深くなるほど音を吸い込んでいく。


昼間は人の行き来で絶えず気配があったのに、今は足音さえ遠く聞こえた。


控えの間の机には、北側封鎖区画へ持ち込むものが並べられている。


封印布。

小型の灯り。

簡易の祈祷札。

携帯食。

水筒。

そして、王命を示すための封蝋付きの許可証。


サラが札の数を確かめながら、小さく息をついた。


「これで最低限は揃いました」


「最低限で済めばいいけどな」


カイルが言いながら、短剣の重さを手の中で確かめる。


「封鎖区画って響きの時点で、もうだいぶ嫌な予感しかしねえ」


「だから準備してるんだろ」


レオンが書類をまとめながら返す。


そのやりとりは軽いのに、空気はどこか張っていた。


ラティアも机の端で祈祷札を重ねていたが、途中で手が止まる。


同じ枚数を二度数えていたことに、少し遅れて気づいた。


「ラティアさん?」


サラがやわらかく呼ぶ。


「大丈夫ですか?」


「……あ、ごめん」


ラティアは慌てて札を揃え直す。


「ちょっと、ぼーっとしてた」


「知ってる」


すぐ横からレオンの声がした。


顔を上げると、レオンが少しだけ笑っている。


「さっきから三回くらい同じとこ数えてる」


「……三回も?」


「うん」


レオンは紙束を机に置いた。


「疲れてる?」


そう聞かれて、ラティアはすぐには答えられなかった。


疲れていないわけじゃない。

でも、それだけじゃなかった。


頭の中には、北側封鎖区画のことだけじゃなくて、王城で見たものがまだ少し残っている。


リディア。

ミレイユ。

ユリスの、自分の知らない時間と、自分の知らない未来。


そのことを考えると、自分でもうまく整理できないざわつきが残る。


「……少しだけ」


そう答えると、レオンはそれ以上その場では言わなかった。


ただ、机の上の札をラティアの手元からそっと取り上げる。


「こっちはサラに任せよう」


「君はちょっと休憩」


「でも」


「いいから」


言い方はやわらかいのに、軽く押し切るみたいな強さがあった。


サラも頷く。


「ええ。こちらは私がやります」


「……うん」


ラティアは小さく頷いて、机から少し離れた。



控えの間を出た先の回廊は、夜の静けさに包まれていた。


壁の灯りだけが淡く揺れている。


レオンはラティアの少し斜め横を歩いていた。


並びすぎず、離れすぎず。


その距離が妙に自然で、ラティアは少しだけ気持ちを緩める。


「外、少しだけ空気いいよ」


レオンが言う。


そのまま小さな中庭へ続く扉を押し開けた。


夜風が頬に当たる。


昼の熱はもう薄れていて、空気は澄んでいた。


石の手すりに寄りかかると、胸の奥のざわつきが少しだけ外へ逃げていく気がする。


しばらく黙っていたレオンが、ふいに口を開いた。


「北側のことだけじゃないでしょ」


ラティアが振り返る。


レオンは前を見たまま、やわらかく言う。


「引っかかってるの」


その声は、問い詰めるものではなかった。


ただ、分かってしまっている人の声だった。


ラティアは少しだけ目を伏せる。


「……そんなに分かりやすい?」


「うん」


即答だった。


「ちょっと面白いくらいに」


「ひどい」


小さく言い返すと、レオンがくすっと笑う。


それで少しだけ、息がしやすくなる。


けれど、胸の奥のものは消えない。


ラティアは手すりの向こうの暗さを見ながら、ぽつりと零した。


「王城で見た人たちのこと、ちょっと」


レオンは黙って待つ。


ラティアは少しためらってから続けた。


「リディアさんも、ミレイユ様も」


名前にしてしまうと、余計に胸がざわつく。


「どっちも、ちゃんとユリスの隣にいた人なんだって思ったら……」


言葉が途切れる。


自分でも、何を言いたいのか分かりきってはいない。


ただ、少し苦しい。


レオンは少しだけ目を細めた。


「そっか」


その一言は、驚くでもなく、茶化すでもなかった。


「気になるよね」


ラティアが思わず顔を上げる。


責められないことが、少し意外だった。


「……変じゃない?」


「全然」


レオンは肩をすくめる。


「むしろ、そこで何も思わない方が不自然じゃない?」


夜の風が、静かに髪を揺らした。


ラティアは自分の指先を見つめる。


「でも、わたしが気にしてもどうにもならないのに」


「うん」


レオンは素直に頷いた。


「ならないね」


「そこは否定してくれないんだ」


「嘘ついてもしょうがないでしょ」


少しだけ困ったように笑う。


でも次の声は、思っていたよりずっとやさしかった。


「でも、気になる気持ちまで否定しなくていいよ」


ラティアの胸が小さく鳴る。


レオンは続けた。


「それに」


少しだけ視線をずらし、言葉を選ぶように間を置く。


「少なくとも、君が見たほど、ユリスはあの二人の方を見てなかった」


ラティアは息を止める。


「……そう、かな」


「そうだよ」


レオンはそう言って、少しだけ手を伸ばした。


頬の横へ落ちていた髪に、指先がそっと触れる。


触れるか触れないかみたいな、ごく短い仕草で、その一房を耳の後ろへ流した。


「こっち見て」


低くてやわらかい声だった。


ラティアが思わず顔を上げると、レオンは少しだけ笑う。


「リディアがいても、ミレイユ様がいても、あの人、気を配ってたのは君の方だった」


その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。


思い返せば、王の前でも。

回廊でも。

ユリスは短くて、不器用で、でも確かにこちらへ戻ってきていた。


「まあ」


レオンが肩をすくめる。


「そういうの見抜くの、俺の役目みたいになってるけど」


ラティアは思わず小さく笑った。


「なにそれ」


「ほんとだよ」


レオンはやわらかく肩をすくめる。


「君、分かりやすいし」


それから、ほんの少しだけ目を細めた。


「……できれば、そういう顔はあんまり他のやつ相手にしてほしくないんだけど」


ラティアの呼吸が、わずかに止まる。


けれどレオンは、すぐに少し困ったように笑った。


「って言うと、さすがに困らせるか」


冗談みたいな言い方だった。

でも、冗談だけでもないのが分かる。


ラティアは胸の奥が小さく鳴るのを感じながら、ようやく言い返した。


「レオンが見すぎなんだよ」


「それは否定しない」


あっさり返されて、今度はちゃんと笑ってしまう。


その瞬間、少しだけ心が軽くなる。


その時、背後で扉の開く音がした。


振り返ると、ユリスが立っていた。


いつからいたのか分からない。

でも、表情は変わっていない。


「終わったか」


視線はレオンへ向いていた。


レオンも自然に向き直る。


「うん。ちょっと休ませてた」


「そうか」


短いやりとり。


けれど、その間にごく薄い緊張が走った気がした。


ユリスはそれ以上何も言わず、ラティアの方へ視線を移す。


「明朝、出る」


「日の出後すぐだ」


「……うん」


ラティアが頷くと、ユリスは手に持っていたものを差し出した。


厚手の外套だった。


見覚えがある。

前にユリスが自分で使っていたものだ。


「北側は冷える」


「着ろ」


ラティアは少し目を瞬く。


「これ、ユリスのじゃ……」


「いい」


短く遮る。


「明日は風が強い」


それだけだった。


でも、渡された外套はまだ少し体温が残っているみたいにあたたかかった。


「……ありがとう」


ラティアが受け取ると、ユリスは小さく頷く。


レオンが横で軽く笑った。


「過保護」


ユリスはそちらを見もしない。


「必要なだけだ」


その返しがあまりに真顔で、レオンが肩を揺らした。


「はいはい」


ラティアは外套を抱えたまま、少しだけ視線を落とす。


さっきまで胸の中で絡まっていたものが、まだ全部ほどけたわけじゃない。


でも。


レオンのやさしい言葉と、ユリスの無言に近い気遣いは、まるで違う形で胸に残る。


その違いが、かえって苦しくて、でも少しうれしい。


「戻るぞ」


ユリスが言う。


今度はレオンより先に歩き出した。


ラティアは小さく息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


それから、外套を抱えたまま歩き出した。


夜の神殿は静かだった。


でも、その静けさの下で、明日へ向かうものは確実に動いている。


北側封鎖区画。

消された記録。

ゼウランの名。


怖い。

でも、もう引き返したいとは思わなかった。


今はまだ、それだけで十分だった。

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