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神殿の保管庫は、日が傾くほどに静かになる場所だった。
石造りの壁。
高い天井。
並んだ書架。
古い紙と木箱の匂い。
外ではまだ鐘が鳴っていないはずなのに、この中にいると時間まで少し沈んで聞こえる。
机の上には、持ち出された記録がいくつも積まれていた。
共同観測記録。
結界保全報告。
北側灯楼の補修申請。
そして、ゼウラン・フェルノアの名が残っていた、あの古い覚書。
レオンは手袋を外したまま、紙をめくっている。
サラは別の束を開き、神殿側の索引と照らし合わせていた。
カイルは壁際の棚に寄りかかっていたが、退屈しているわけではない。視線はちゃんと机の上にある。
ユリスは少し離れた場所に立ち、保管庫の扉と部屋の中を同時に見ていた。
ラティアは机の端に座って、並ぶ紙を見ていた。
文字を全部追えるわけではない。
でも、レオンとサラの空気が少しずつ硬くなっていくのは分かった。
「……おかしい」
先に口を開いたのはレオンだった。
紙の束をひとつ持ち上げ、机へ置き直す。
「時期が飛んでる」
サラもすぐ頷く。
「こちらもです」
「北側灯楼の補助線管理記録はあるのに、共同試験の結果だけが抜けています」
カイルが眉をひそめる。
「抜けてるって、たまたまじゃねえのか」
「これだけ都合よく?」
レオンが顔を上げる。
その目はもう完全に仕事の顔だ。
「前後の申請と、予算の記録と、人の配置は残ってる」
「なのに、肝心の“何をしたか”だけが消えてる」
サラも一枚の索引票を机に置いた。
「こちらはもっとはっきりしています」
「保管番号は振られているのに、該当の箱が空です」
「しかも一つではありません」
保管庫の空気が、わずかに冷えた気がした。
ラティアは机の上の紙を見つめる。
ゼウランの名が出た途端、急に記録が途切れる。
それは偶然というより、誰かがそこだけ削り取ったみたいだった。
「……わざと?」
思わず聞くと、レオンがすぐ頷く。
「うん」
「自然に消えたにしては、綺麗すぎる」
「残ってる周辺情報が、逆に不自然なくらい残りすぎてる」
カイルが小さく舌打ちする。
「名前は残して、中身は抜く。趣味悪ぃな」
「名前すら、魔導板の方は削られていました」
サラの声は静かだったが、奥が少し冷えていた。
「保管庫の記録までこうなら、かなり前から意図的に整理されています」
レオンは古い索引票を指先で叩いた。
「一つだけ、共通して残ってる語がある」
「何?」
レオンは少しだけ間を置いた。
「外縁」
サラの指も、別の紙の上で止まる。
「こちらにもあります」
「“外縁由来の異質流入に関する観測”」
カイルが顔をしかめた。
「異質流入?」
「王都の外から入ってくる、普通じゃない魔力のことだよ」
レオンが低く答える。
「残滓や、外縁に触れた呪具や、結界の外から引っかかってくる歪み」
「そういうものをまとめて扱ってる」
ラティアはその言葉を聞きながら、そっと守り紐に触れた。
残滓。
外から来るもの。
ゼウランがそこに目をつけていたのだとしたら、孤児院も灯楼も、ただの偶然ではなくなる。
その時、保管庫の扉が二度、軽く叩かれた。
「失礼します」
エドガルド補佐だった。
片手に新しい書類束を抱えている。
穏やかな表情。
乱れのない所作。
この重い空気の中でも、声だけはいつもと同じだった。
「魔導院側の返答が一部届きました」
そう言って、机の端へ書類を置く。
レオンがすぐ手を伸ばした。
「早いですね」
「王命ですから」
補佐は落ち着いた声で答える。
「それに、北側灯楼と共同観測の線を当たれば、ある程度は絞れます」
その言い方が、あまりにも自然だった。
ラティアは補佐を見た。
何かを感じるわけではない。
残り香も、澱みもない。
でも、ほんの一瞬だけ、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
うまく言えない。
ただ、話の持ってき方がきれいすぎる気がした。
「どうしました、ラティア様」
補佐がこちらを見る。
視線が合う。
穏やかな笑み。
少しも警戒を抱かせない、整った顔。
ラティアは小さく首を振った。
「……ううん」
「何でもないです」
「そうですか」
補佐はそれ以上何も言わなかった。
そのままサラへ一礼する。
「神殿側の別棚も開けさせます。必要なものがあれば遠慮なく」
「ありがとうございます」
サラが答える。
補佐は静かに下がった。
扉が閉まる。
「……何か言いたそうな顔してたな」
カイルがぼそりと言う。
ラティアは少しだけ目を伏せた。
「別に、何か分かったわけじゃない」
「ただ……」
言葉が続かない。
何も感じていないのに、違和感だけ口にするのは難しかった。
「ただ?」
レオンが顔を上げる。
ラティアは首を振った。
「ううん。ごめん」
「気にしないで」
サラがやわらかく言った。
「分からないままでも、引っかかることはあります」
レオンは何も言わなかった。
ただ、その一瞬だけエドガルド補佐が出ていった扉を見た。
すぐに視線を戻し、届いた返答書へ目を落とす。
「……これだ」
声が低くなる。
サラもすぐ横へ寄った。
「何がありましたか」
「処分記録」
レオンは紙を広げた。
「正式な追放や死去じゃない」
「研究停止、記録封鎖、関係資料の閲覧制限」
カイルが顔をしかめる。
「中途半端だな」
「そう」
レオンは頷く。
「死んだことにしたなら、もっと綺麗に消す」
「でもこれは“名前を残したまま、先だけ見せない”やり方だ」
ラティアは紙の端を見る。
そこには日付と、かすれた印章。
そして、もう一つだけ読める語があった。
「北側……封鎖区画?」
思わず口にすると、レオンがはっと顔を上げた。
「どこ」
ラティアは紙の下を指差す。
小さな注記だった。
北側封鎖区画関連資料、別途移管。
サラが息を呑む。
「封鎖区画……」
カイルが壁から背を離した。
「また北側か」
「灯楼、軽症報告、孤児院の流れと繋がる」
レオンの声がさらに鋭くなる。
「ゼウランの記録の一部が、北側封鎖区画へ移されてる」
「偶然のはずがない」
ラティアの胸が小さく強く鳴った。
また北側。
また、冷たいものが集まる方へ話が寄っていく。
「封鎖区画って、今も入れるの?」
問うと、サラは少しためらった。
「通常は難しいです」
「古い立入禁止区域ですから」
「でも、王命があれば別です」
「ある」
レオンがすぐ言う。
「王は記録の閲覧を認めた」
「区画そのものへの立ち入りも、必要だと判断できれば通るはずだよ」
カイルが口元を歪める。
「ようやく“次”が見えてきたな」
その時、椅子の背にかけていたラティアの指先へ、何かが軽く当たる。
見ると、ユリスが小さな革袋を置いていた。
今度は干し果実ではなく、飴だった。
琥珀色の小さな粒が二つ。
「……また?」
思わず言うと、ユリスは表情も変えずに返した。
「顔色」
それだけだった。
カイルが吹き出す。
「完全に餌付けじゃねえか」
「うるさい」
ラティアがすぐに返すと、カイルが肩を揺らす。
レオンも小さく笑った。
「でも、ちょっと戻った」
ラティアは反論しかけて、やめた。
実際、少しだけ戻っている。
飴を一つつまんで口に入れると、甘さがゆっくり溶けた。
さっきまで重く沈んでいた胸の奥が、ほんの少しだけやわらぐ。
レオンが紙をまとめた。
「決まりだね」
「次は北側封鎖区画」
サラも本を閉じる。
「神殿側で入域許可を取ります」
「王命の範囲で、できるだけ早く」
カイルはもう壁から離れていた。
「今度は何が出るやら」
ラティアは机の上の処分記録を見つめた。
消された頁。
残された名。
北側へ移された資料。
ゼウランはもう、ただの古い研究者じゃない。
誰かが長く隠してきた“何か”になっている。
「ラティア」
低い声で呼ばれて、顔を上げる。
ユリスだった。
「行けるか」
短い問い。
ラティアは飴の甘さを舌の奥で感じながら、小さく頷いた。
「……うん」
怖くないわけじゃない。
でも、ここで止まりたくはなかった。
今はもう、名前まで知ってしまったのだから。
保管庫の窓から差す夕方の光が、書架の端を長く照らしていた。
その中で、机の上の北側封鎖区画という文字だけが、妙に冷たく見えた。




