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神殿へ戻る頃には、空はすっかり夕方の色に沈み始めていた。


北側から吹いてくる風は少し冷たく、灯楼跡に残っていた薄い残り香まで、一緒に服へ染みついてきた気がする。


控えの間の机には、すでに灯りが用意されていた。


昼間まで広げられていた北側の地図は端へ寄せられ、その中央に、レオンが布包みをそっと置く。

中には、灯楼跡で見つけた古い魔導板が入っていた。


誰もすぐには口を開かなかった。


今日一日だけで、ずいぶん多くのものを見た。

礼拝室の残り香。

北側の地図。

灯楼跡。

抜き取られた補助核。


断片ばかりなのに、そのどれもが同じ方角を向いているのが分かる。


「じゃあ、見るよ」


最初に沈黙を破ったのはレオンだった。


布を開く。


黒ずんだ魔導板は、灯りの下で見ると、さっきよりも傷が深く見えた。

端の欠け。

細い術式の線。

そして裏面にある、意図的に削られた文字の跡。


サラが机の反対側へ回り込む。


「祈祷式の汚染は感じません」


「でも、元の用途を歪めた痕はかなり濃いですね」


「うん」


レオンは頷き、薄い硝子板を重ねて灯りにかざした。


「削られてるけど、完全には消しきれてない」


「たぶん、元の刻印が深かったんだ」


カイルが椅子を半分だけ引いて座る。


「読めるのか」


「少しは」


レオンの声は低い。


いつもの軽さが消えて、完全に“読む側”の顔になっていた。


ラティアは少し離れた場所から、その魔導板を見ていた。


何かを感じようとして、でも分からない。


礼拝室の壁際みたいな残り香は、もうほとんど残っていない。

灯楼跡であった薄い名残も、布に包んで運ぶ間にかなり削れてしまったらしい。


「……もう、ほとんど分からない」


ぽつりと零すと、レオンが目だけを上げた。


「残滓は?」


ラティアは小さく首を振る。


「ない」


「触った跡がちょっとあったくらいで、今はもう薄い」


「それでいい」


レオンはまた板へ視線を戻した。


「この先は、読める方を拾う」


灯りを寄せる。

硝子板の角度を変える。

削られた線の凹みを追う。


しばらくして、レオンの指先がぴたりと止まった。


「……これだ」


サラも身を乗り出す。


「読めますか」


「全部は無理」


レオンは慎重に言う。


「でも、単語はいくつか拾える」


そのまま低く読み上げる。


「“循環補助”」


「“外縁観測”」


「それから……」


少しだけ間があく。


レオンの目が鋭くなる。


「“ゼウ……”」


カイルが眉をひそめる。


「なんだそれ」


レオンはもう一度、削り跡をなぞった。


「“ゼウラン”」


部屋の空気が、そこでわずかに止まった気がした。


ラティアは無意識に守り紐へ触れる。


名前。


今まで残り香や痕跡ばかりだったものに、初めて輪郭がついた。


「人の名前か」


ユリスが問う。


レオンはゆっくり頷く。


「たぶん」


「しかも、魔導板の管理刻印に入ってるなら、相当深く関わってる」


サラが静かに息を吐いた。


「心当たりは」


「ある、かもしれない」


レオンはそう言って、一度板から手を離した。


「魔導院の古い結界研究の索引で、似た名前を見たことがある」


「北側補助線のところだった気がする」


カイルが口元を歪める。


「じゃあ当たりだな」


「まだ断定はしない」


レオンは即座に返す。


「でも、かなり近い」


その時、控えめなノックがした。


扉が開き、エドガルド補佐が入ってくる。


手には、古びた書類箱を抱えていた。


「灯楼跡はいかがでしたか」


穏やかな声。

乱れのない所作。

いつも通りの落ち着いた顔。


ラティアはその姿を見た瞬間、ほんの少しだけ胸の奥がざわついた。


でも、残り香を感じたわけじゃない。

何かが分かるわけでもない。

ただ、言葉にできない小さな引っかかりが一瞬だけ生まれて、すぐに消える。


「収穫はあったよ」


レオンが魔導板を示す。


「古い管理板だ。削られてるけど、名前が残ってた」


「ゼウラン」


エドガルド補佐の目が、ほんのわずかに細くなる。


けれど、それはすぐ整った。


「……やはり、その名でしたか」


サラが顔を上げる。


「ご存じなのですか」


「名前だけなら」


補佐は書類箱を机へ置いた。


「神殿保管庫に、北側補助線の共同管理記録が少し残っていました」


「魔導院との共同観測に、その名があったはずです」


レオンの目が変わる。


「見せてください」


「もちろん」


箱が開かれる。


中には、かなり古い報告書や索引票が束になっていた。

紙は黄ばんでいるが、整然とまとめられている。


レオンとサラがすぐに左右へ分かれてめくり始めた。


カイルは机の端に肘をつき、黙ってそれを見守る。

ユリスは壁際に寄りかかったまま、部屋全体を見ていた。


ラティアは椅子に座ったまま、紙の擦れる音を聞く。


紙自体からは、やはり何も感じない。

それが少しだけ不思議だった。


礼拝室や灯楼跡みたいに、残り香があればまだ“感じる”ことで近づける。

でも今は違う。


読むしかない。

知るしかない。


その怖さが、じわじわと胸の内側に溜まっていく。


「……あった」


先に声を上げたのはレオンだった。


一枚の索引票を引き抜く。


そこには、はっきりと名前があった。


ゼウラン・フェルノア


その文字を見た瞬間、ラティアは小さく息を呑む。


ゼウラン。

ただの痕跡ではなく、確かに人だった名。


サラが横から読み上げる。


「魔導院結界研究部所属」


「北側補助灯楼、補助線循環、神殿祈祷班との共同観測……」


カイルが低く言う。


「思ったよりちゃんとした肩書だな」


「優秀だったんだろうね」


レオンの声は静かだった。


「じゃなきゃ、北側全体の補助線なんて触れない」


さらに紙をめくる。


次に出てきたのは、小さな覚書だった。


端の擦り切れた、個人用の記録らしい紙。


レオンが灯りの下で開く。


「……これ、研究補足だ」


「読むよ」


誰も止めなかった。


レオンの声が、部屋の静けさに落ちる。


「“北側の継ぎ目は、他区画に比べて反応が素直だ”」


「“補助灯楼は単体ではなく、一帯の循環を見るべきである”」


サラの目が細くなる。


「今の封鎖区画と同じ見方ですね」


「うん」


レオンが頷く。


「灯楼、祈祷所、補助核、管理棟」


「全部を一つの流れとして見てる」


ラティアの胸が、小さく鳴る。


今日、封鎖区画で感じた薄い冷たさ。

あちこちに散っていたのに、奥へ行くほど繋がっていく感じ。


あれは間違っていなかったのだと分かる。


でも同時に、それを最初から“構造”として見ていた人間がいたのだと思うと、背中が少し冷えた。


レオンはさらに次の行へ目を落とす。


「“補修では遅い”」


「“再構築の検討が必要”」


その一言で、部屋がまた静まる。


カイルが小さく舌打ちした。


「出たな」


サラの声は低い。


「この時点でもう、再構築を口にしていたのですね」


「後から思いついたわけじゃないってことだ」


レオンは紙を机へ置く。


「発想の芯が、最初からそっちに向いてた」


ラティアは覚書を見つめる。


何も感じない。

残り香も、澱みもない。


なのに、読まれている言葉だけが重い。


理屈として整っているからこそ、こわい。

感覚ではなく、頭の方からじわじわ押してくるみたいな怖さだった。


「……こわい」


思わず口に出ていた。


全員の視線が集まる。


ラティアは少しだけ指先を握る。


「嫌な感じがするわけじゃないの」


「でも、何も感じないまま読めるのに……読んでると重くなる」


「それが、こわい」


サラが静かに頷いた。


「分かります」


「感覚ではなく、理で押してくる怖さですね」


レオンも小さく息を吐く。


「うん」


「しかも、自分は正しいと思って書いてる」


「それが一番厄介だ」


ユリスが短く言った。


「思想だな」


その一言で、また空気が締まる。


ただの手口じゃない。

ただの異常でもない。


考え方そのものが、今の事件の奥にある。


レオンは索引票と覚書を並べ、魔導板をその横へ置いた。


「名前は出た」


「北側補助線にも、灯楼にも、結界再構築にも繋がってる」


「次は、このゼウランがどこで切れたのかだ」


エドガルド補佐が静かに頷く。


「神殿側の保管庫も、さらに洗わせましょう」


「処分記録や移管記録が残っていれば、追えるはずです」


「お願いします」


サラが答える。


補佐は一礼した。


その姿を見ながら、ラティアはほんの少しだけ眉を寄せる。


やっぱり、何か分かるわけじゃない。

でも、胸の奥に残る引っかかりが、消えない。


ただ、それを今ここで言葉にするほどの根拠は何もなかった。


「今日はここまでだな」


カイルが腕を組んだまま言う。


「頭が重くなる」


「同感」


レオンが苦く笑う。


「でも、進んではいる」


その時、机の端に小さな音がした。


見ると、ユリスが湯呑みを一つ置いていた。


また、自分の前にだけ。


「飲め」


短い声。


ラティアは少しだけ目を瞬いたあと、そっと湯呑みに手を伸ばす。


「……ありがとう」


湯気が指先を包む。


そのあたたかさで、ようやく自分の手が思っていたより冷えていたのに気づく。


向かいでカイルが口元を歪めた。


「今日は茶か」


「次は何になるんだろうな」


「うるさい」


ラティアが返すと、カイルが肩を揺らす。


レオンも少しだけ笑っている。


重かった部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


でも、机の上の名前は消えない。


ゼウラン・フェルノア


過去の研究者。

北側補助線の観測者。

そしてたぶん、今の王都の歪みに最初に手を伸ばした人。


ラティアは湯呑みの熱を指先に抱えたまま、その名前を見つめた。


まだ輪郭の一部しか見えていない。

それでも、向こうがただの影ではなくなったことだけは、もうはっきりしていた。


夜は、まだ長い。


けれどその先にあるものから、もう目は逸らせない気がした。

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