59
王城を出たあとの空は、思っていたより明るかった。
高い位置から射す昼の光が白い石畳に反射して、王都の景色をいつもより少しだけ遠く見せる。
それなのに、ラティアの胸の中はまだ静かじゃなかった。
リディアの「久しぶりね」。
ミレイユの視線。
王の言葉。
ひとつひとつは短かったのに、残るものばかりだった。
「ぼーっとしてる」
すぐ隣からレオンの声がした。
ラティアがはっと顔を上げると、レオンがこちらを見ている。
「してた?」
「してた」
即答だった。
「階段、あと一段あったよ」
言われて初めて、足元に意識が戻る。
「あ……」
少し遅れて下りると、レオンがくすっと笑った。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
そう答えたものの、少しだけ恥ずかしい。
その様子を見ていたのか、前を歩いていたカイルが振り返る。
「王城で階段踏み外すなよ」
「踏み外してない」
「未遂だろ」
「未遂でもない」
思わず言い返すと、カイルが肩を揺らした。
その小さなやりとりで、胸の奥の張りつめたものが少しだけゆるむ。
「馬車は使わない」
前からユリスの声が落ちた。
全員の意識が切り替わる。
「王城から神殿までは歩く」
「その間に整理するぞ」
短い。
でも十分だった。
レオンもすぐに頷く。
「ちょうどいいね。頭の中で並べ直したかった」
サラが静かに問う。
「北側の報告から見ますか?」
「いや、その前に残り香の整理だ」
レオンは歩きながら、手元の紙束を軽く持ち直した。
「孤児院の礼拝室に残ってた気配と、北側の軽症報告」
「この二つが本当に同じ流れか、まずそこを揃えたい」
ラティアも、少し意識を前へ向ける。
ざわついていた胸が、現実へ戻ってくる。
「ラティア」
名前を呼ばれて顔を上げると、ユリスが振り返らないまま言った。
「さっきの気配、まだ辿れるか」
ラティアは少しだけ目を閉じる。
礼拝室の壁の裏に残っていた、あの薄い冷たさ。
乾いた匂い。
焦げた残り香みたいな感覚。
「……うっすらなら」
「消えてはない」
「それでいい」
ユリスの返事は短かった。
その声だけで、迷いなく次へ進んでいいのだと分かる。
レオンが横から続ける。
「北側の報告地点、あとで地図に落とす」
「君が感じた順で指してもらえる?」
「うん」
「助かる」
さらっと言う。
その言い方があまりに自然で、ラティアは少しだけ瞬きをした。
レオンは気づいたのか、ほんの少しだけ笑う。
「今の君の感覚、かなり重要だから」
「遠慮しないで使わせてもらうよ」
その言葉に、ラティアは小さく頷いた。
王城を抜け、大通りへ出る。
昼の王都は、人の気配に満ちていた。
商人の声。
荷車の軋む音。
子どもの笑い声。
さっきまで王の前にいたことが、少しだけ現実味を失うほど、街はいつも通りに見える。
けれど、見えないところでは確かに何かが動いている。
神殿へ戻る頃には、エドガルド補佐から先に記録が運び込まれていた。
控えの間の机いっぱいに、王都北側の簡易地図と相談記録が並べられている。
「早いですね」
サラが言うと、補佐は穏やかに頷いた。
「王命が出ましたので」
その声音はいつも通り落ち着いていて、乱れがない。
「北側の相談記録、過去三日分を優先して集めさせました」
「助かります」
レオンがすぐ机へ向かう。
「これでようやく全体が見られる」
カイルは机の端に寄りかかり、記録を覗き込む。
「症状は?」
エドガルド補佐が一枚の紙を抜き出した。
「眠気、頭痛、倦怠感、悪夢」
「いずれも軽症です」
「表に出にくいな」
カイルが低く言う。
「寝りゃ治るで済まされる」
「だから広がる」
レオンが短く返す。
ラティアは机の横に立ち、並べられた地図を見つめた。
王都北側の区画が細かく描かれている。
道。
古い建物。
小さな礼拝所。
使われなくなった見張り台。
そして、報告のあった場所に小さく印が付いていた。
赤。
青。
黒。
「これ、全部?」
「現時点では」
エドガルド補佐が答える。
「まだ軽い訴えで医師や神殿へ来ていない者もいるでしょう」
レオンが紙を並べ替えながら言う。
「十分多い」
「しかも、わざと散らしてる」
サラが問う。
「散らしている、というのは」
「密度を見えにくくするため」
レオンは指先でいくつかの印をなぞる。
「一箇所に集めたら、さすがに異変だって分かる」
「でも軽症を点在させれば、“偶然”に見える」
ラティアは地図を見つめたまま、小さく息を吸った。
点。
点。
点。
ばらばらに置かれているように見える。
でも、見ているうちに、妙な違和感が出てくる。
「……これ」
ぽつりと零れた声に、全員の視線が集まる。
ラティアは地図の一点を指した。
「ここから……こっち」
さらに別の印へ指を動かす。
「それで、ここ」
レオンがすぐ隣へ来る。
「順番に見えてる?」
「順番っていうか……」
ラティアは眉を寄せる。
言葉にするのが難しい。
「同じ感じがするところ」
「濃い順に、なんとなく分かる」
レオンの目が鋭くなる。
「続けて」
ラティアは地図の上を、ゆっくり指で辿った。
一つ。
二つ。
三つ。
指先が進むたび、ばらばらだった印が少しずつ繋がっていく。
「……囲んでる?」
サラが小さく言う。
レオンも息を止めるみたいに黙る。
ラティアの指は、最後に北側のやや高い区画で止まった。
そこだけ、不自然に印がない。
でも、何もないわけじゃない。
むしろ逆だった。
そこが、一番“冷たい”。
「ここ」
ラティアが言う。
「ここが変」
沈黙。
レオンが別の地図を引き寄せた。
今度はもっと古い図面だった。
今は消えている小道や、昔の設備が薄く書かれている。
レオンの視線が一点で止まる。
「……灯楼」
カイルが顔を上げる。
「前に出たやつか」
「うん」
レオンの声は低い。
「今は使われてない古い灯楼跡」
「北側の高台の外れにある」
サラが地図を覗き込んだ。
「印のない中心が、そこですか」
「たぶんね」
レオンはラティアを見る。
「君が感じたのも?」
ラティアはゆっくり頷く。
「うっすらだけど……礼拝室の残り香と似てる」
その瞬間、部屋の空気がまた変わる。
カイルが口元を歪めた。
「当たりか」
「まだ確定じゃない」
レオンはそう言いながらも、声はもう次へ進んでいた。
「でも、かなり近い」
ユリスが短く問う。
「今から行くか」
サラが時計代わりの小さな砂時計へ目を向ける。
「日暮れ前なら、周辺の確認までは可能です」
「踏み込みは暗くなる前にしたいですね」
レオンも頷く。
「灯楼跡が本当に中心なら、夜の方が向こうに利がある」
エドガルド補佐が静かに口を開いた。
「神殿騎士をつけましょうか」
ユリスは首を振る。
「まだいらない」
「気づかれる」
その返答は早かった。
補佐はすぐに引く。
「承知しました」
ラティアは地図を見つめたまま、指先を少しだけ握る。
中心。
そこへ行けば、また何かに触れるかもしれない。
怖くないわけじゃない。
でも、孤児院で感じた“向こう側”に、一歩近づける気がした。
その時、机の端に置いていた指先へ、何かが軽く当たる。
見ると、ユリスが小さな革袋を置いていた。
中には干し果実が入っている。
ラティアが目を上げると、ユリスは地図を見たまま言った。
「食え」
「……今?」
「今だ」
短い。
けれど逆らえない。
ラティアは少しだけ袋を開けて、中の一つをつまんだ。
甘酸っぱい味が口の中に広がる。
その様子を見て、カイルが小さく笑う。
「子どもか」
「うるさい」
ラティアがすぐ返すと、カイルは肩を揺らした。
レオンも横で少し笑っている。
「でも、ちょっと顔色戻った」
ラティアは思わず口を閉じる。
そう言われると、余計に意識してしまう。
ユリスは何も言わない。
でも、最初の一つを食べたのを見てから、ようやく地図へ視線を戻した。
そのことに気づいて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
レオンが指先で灯楼跡を叩いた。
「決まりだね」
「次はここ」
ラティアも小さく頷く。
「……うん」
怖い。
でも、もう目を逸らしたくはなかった。
孤児院で助けられた子どもたち。
王の言葉。
ミレイユの視線。
リディアの「久しぶりね」。
そして、今こうして黙って干し果実を置いてくるユリスの手。
全部が胸の中で、きれいに整理なんてできないまま重なっている。
それでも。
前へ進むしかないことだけは、もうはっきりしていた。
控えの間の窓から見える空は、ゆっくり午後へ傾き始めている。
その光の下で、地図の上の灯楼跡だけが、妙に冷たく見えた。




