58
王城へ向かう馬車の中は、思ったより静かだった。
揺れに合わせて窓の外の光が流れていく。
昼の王都はいつも通りに見えるのに、ラティアには少し違って見えた。
孤児院の礼拝室。
床に焼け残った術式。
壁の向こうに残っていた冷たい気配。
助かった。
けれど終わってはいない。
その実感が、馬車の揺れのたびに胸の奥で小さく鳴る。
向かいの席で、レオンが書類を軽く叩きそろえていた。
術式の記録。
北側の報告。
観測地図の写し。
その横でカイルは腕を組んだまま、目を閉じている。
寝ているようにも見えるが、たぶん起きている。
サラは静かに手を重ねていた。
祈るというより、気持ちを整えているような顔だ。
そしてユリスは、ラティアの斜め前に座っていた。
いつも通り、姿勢は崩れない。
けれど馬車が大きく揺れた時だけ、ラティアの方に視線が来る。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になる。
「緊張してる?」
不意にレオンが顔を上げた。
ラティアが目を瞬くと、レオンは少しだけ笑う。
「顔、ちょっと固い」
「……してる、かも」
正直に答えると、カイルが片目も開けずに言った。
「王に食われるわけじゃねえよ」
「そういう言い方やめてください」
サラがすぐにたしなめる。
「余計に緊張します」
「じゃあ、“背筋が疲れるだけ”にしとくか」
「変わりません」
そのやりとりに、ラティアは少しだけ口元をゆるめた。
レオンもそれを見て、やわらかく言う。
「大丈夫。ちゃんと話せばいいだけだよ」
少し間を置いてから、さらに続ける。
「さっきみたいにね」
ラティアの胸がわずかに鳴る。
視線が少し揺れたのを見たのか、ユリスが短く言った。
「息」
ラティアははっとして、静かに息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
馬車が止まった。
「着いたか」
カイルがようやく目を開ける。
扉が開き、王城の白い石壁と、高く整えられた回廊が見えた。
⸻
謁見の間へ通される前、長い回廊の途中で、一人の女性がこちらへ歩いてきた。
深い青を基調にした王城勤めの衣装。
飾り気は多くないのに、立ち姿が整っていて目を引く。
艶のある濃い茶髪を後ろでまとめ、無駄のない足取りで近づいてくる。
年の頃は、ユリスたちとそう離れていないように見えた。
その女性は一行の前で立ち止まり、礼儀正しく一礼する。
「ご案内いたします」
落ち着いた声だった。
けれど次の瞬間、その視線がユリスを捉えた時だけ、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
「……久しぶりね、ユリス」
ラティアの足が、ほんの少しだけ止まる。
その呼び方が、他の人に向けるものと違って聞こえた。
ユリスは女性を見る。
ほんのわずかに間があった。
「……久しぶりだな、リディア」
低く短い声。
それだけなのに、ラティアの胸のどこかが小さくざわつく。
リディアは微笑んだ。
「元気そうでよかった」
それから一行へ向き直る。
「失礼しました。王がお待ちです」
声音はすぐに公のものへ戻っていた。
でもラティアの胸のざわつきは、すぐには消えない。
リディアの先導で、回廊を進む。
途中、カイルが小さくユリスを見た。
「知り合いか」
聞き方は軽い。
でも、当然分かっていて聞いている声だった。
ユリスは前を見たまま答える。
「昔の」
それだけだった。
ラティアがわずかに目を瞬く。
昔の。
その二文字だけでは、うまく意味が掴みきれない。
その時、カイルがラティアの横で、声をひそめもせずに言った。
「元恋人」
「……っ」
ラティアの足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
カイルは気にした様子もなく続けた。
「王城勤めになった頃には、もう切れてたはずだけどな」
「カイル」
サラがたしなめるように名を呼ぶ。
「今、それ言う必要あります?」
「いや、隠す話でもねえだろ」
あっさりしたものだった。
けれど、そのぶん余計に現実味がある。
元恋人。
その言葉が、遅れて胸の奥へ落ちてくる。
ラティアは思わず前を歩くリディアを見る。
背筋の伸びた、きれいな後ろ姿。
迷いのない足取り。
そして、さっきユリスへ向けた、ほんの少しだけやわらいだ目。
元恋人。
その言葉を知ってしまった瞬間、さっきの「久しぶりね」の響きまで、急に違うものになる。
横でレオンが、ほんの少しだけ視線を寄こした。
気づかれたかもしれない。
そう思って顔を上げた時には、レオンはもう何も言わずに前を向いていた。
リディアは前を向いたまま歩いている。
振り返らない。
けれど、ユリスの歩幅を知っている人みたいに、案内の速さがちょうどよかった。
そのことまで、なぜか少し気になる。
やがて重い扉の前で立ち止まり、リディアが衛兵へ合図を送る。
「勇者一行、および協力者ラティア様をお連れしました」
声が通る。
扉が、ゆっくりと開かれた。
⸻
王座の間は広かった。
高い天井。
磨かれた床。
奥にある王座。
その前に立つ人物を見て、ラティアは思わず息を止める。
王の傍らに、見知らぬ女の人が立っていた。
淡い金の髪。
白を基調とした神殿の正装。
光をやわらかく集めたみたいな、整った空気。
その人は美しかった。
派手な美しさではない。
けれど、目を離しにくい。
王に仕える光、という言葉がそのまま形になったような人だった。
そして、その少し後ろには、エドガルド補佐が静かに控えている。
「面を上げよ」
王の声が、低く落ちた。
威圧ではない。
けれど、逆らえない重みがある。
一行が頭を上げる。
王はユリスたちを見渡し、最後にラティアへ視線を向けた。
「孤児院の件、報告は受けている」
その声には、すでに怒りの芯があった。
「子どもたちを苗床にしようとした、か」
短い沈黙。
「……許しがたいな」
その一言で、部屋の空気がさらに引き締まる。
王はユリスへ視線を戻した。
「まずは現場の状況を」
「は」
ユリスが一歩進み出る。
説明は短く、無駄がなかった。
孤児院に到着した時の状況。
礼拝室に集められていた子どもたち。
床に刻まれていた術式。
術式の先に繋がる何者かの気配。
王は最後まで遮らずに聞く。
続いてレオンが進み出た。
「術式は、眠らせるためのものではありませんでした」
いつもの軽さはない。
「眠りと不安を器にして、残滓を定着させる型です」
「時間が経てば、礼拝室全体でひとつの核になっていた可能性が高い」
王の眉がわずかに動く。
「核、か」
「はい」
レオンは頷く。
「魔導院の術式に、神殿の祈祷式を反転させた構造が重なっていました」
「単独の異変ではなく、王都全体の継ぎ目に手をかけている可能性があります」
今度はサラが一歩進む。
「神殿側から見ても、かなり悪質です」
その静かな声の奥には、はっきり怒りがあった。
「守るための型を、眠りを深く落とすために捻じ曲げていました」
王はゆっくり頷いた。
「北側の軽症報告とも繋がるか」
「おそらく」
レオンが答える。
そこで王の視線が、再びラティアへ向いた。
「ラティア」
名を呼ばれて、肩が少し強張る。
けれど、隣から低い声が落ちた。
「大丈夫だ」
ユリスだった。
ほんの小さな声だったのに、不思議と胸の奥まで届く。
ラティアは小さく頷いて、一歩進んだ。
「……はい」
王は静かに問う。
「其方は、術の主の気配を感じたのだな」
ラティアは息を整える。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
「はい」
声は少しだけ緊張していた。
それでも続ける。
「黒いものそのものは、もうほとんど消えていました」
「でも、壁の向こうに……そこにいた“誰か”の気配だけが残っていて」
王は目を細める。
「それを追えるか」
ラティアは少しためらう。
けれど、嘘はつきたくなかった。
「はっきりは、まだ」
「でも……同じような気配なら、分かるかもしれません」
その言葉に、王は短く頷く。
「十分だ」
その時だった。
王の傍らに立っていた女の人が、静かに口を開いた。
「孤児院の子どもたちを救ってくださったと伺いました」
声まで綺麗だった。
やわらかいのに、よく通る。
その人はラティアへ向かって、穏やかに微笑む。
「ありがとうございます、ラティア様」
ラティアは少し遅れて会釈する。
「……いえ」
王が言う。
「紹介しておこう。聖女ミレイユだ」
聖女。
その言葉に、ラティアは一瞬だけ息を止めた。
ミレイユは静かに一礼する。
所作は無駄がなく、完璧だった。
「王都北側の件、私も報告を受けております」
ミレイユの視線が、一度だけユリスへ向く。
ほんの一瞬だったのに、近さのある自然な目配せだった。
ラティアの胸のどこかが、少しだけざわつく。
「本来なら私も浄化に加わるべきでしたが、孤児院の件はあまりに急でした」
ミレイユはそう言ってから、もう一度ラティアを見た。
「向こうへ届く浄化、ですか……」
その目はやわらかい。
でも、少しだけ観察するようでもあった。
「興味深いお力ですね」
ラティアは返事に迷う。
その前に、レオンが一歩出た。
「興味深いのは確かですけど、簡単に語れるものでもないんですよ」
軽い口調にも聞こえるのに、目は笑っていない。
王はそれを咎めず、むしろ続きを促した。
レオンは肩をすくめる。
「守りと攻撃が同時に走る可能性がある」
「だからこそ、扱いを間違えたくない」
王はしばらく黙っていた。
それからゆっくりと口を開く。
「王都の継ぎ目を使っているのなら、もはや局地の異変では済まぬ」
その声音に、王としての決断がにじむ。
「北側一帯の調査を正式に許可する」
「神殿、魔導院、いずれも記録の閲覧を認めよ」
後ろに控えていたエドガルド補佐が、静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
王はさらにユリスを見る。
「ユリス」
「は」
「本来なら、ミレイユは其方の補佐として動かすことも考えていた」
王の声音は淡々としていた。
「将来を見据えた話も出ている間柄だ。連携にも支障はあるまいと思っていたが」
ラティアの指先が、わずかに固まる。
“将来を見据えた話”。
その言い方が、ただの協力関係ではないことを、かえってはっきり伝えてきた。
ミレイユは表情を崩さなかった。
けれど、その話題を否定も訂正もしない。
それだけで十分だった。
王は続ける。
「だが現状、現場で最も手掛かりを掴んでいるのは其方らだ」
「まずは今の体制で進めよ」
「御意」
ユリスの返答は短い。
いつも通りにも聞こえたが、その素っ気なさは、かえって余計なものを感じさせた。
王が最後にラティアへ向き直る。
「ラティア」
「……はい」
「其方の力は、危うくもあるのだろう」
その言葉に、胸が小さく鳴る。
「だが、孤児院の子らを救ったのも、また其方だ」
王の声は低く、まっすぐだった。
「そのことは、忘れぬように」
ラティアは少しだけ目を見開く。
責められると思っていたわけではない。
けれど、そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「……はい」
やっとそれだけ答えると、王は頷いた。
「下がってよい」
⸻
謁見の間を出て、長い回廊へ戻った瞬間、ラティアは小さく息を吐いた。
張っていたものが、一気に少しだけほどける。
「肩こったろ」
カイルが横で言う。
「……うん、ちょっと」
「だろうな。あれは俺でも疲れる」
「カイルでも?」
「俺だから、だな」
それが冗談なのか本気なのか分からなくて、ラティアは少しだけ笑った。
「ちゃんとしてたよ」
レオンが隣に並ぶ。
「報告も、落ち着いてた」
「そうかな……」
「そうだよ」
レオンはやわらかく笑う。
「少なくとも、王の前で固まるかと思ってた」
「ひどい」
ラティアが小さくむくれると、レオンが肩を揺らす。
その少し後ろを、ミレイユがエドガルド補佐とともに歩いていた。
数歩進んだところで、ミレイユがユリスを呼び止める。
「ユリス様」
呼び方が妙に自然だった。
何度もそう呼んできた人の響きだった。
ラティアの足が、ほんの少しだけ鈍る。
ユリスは振り返る。
「何だ」
声音は礼儀を欠かない。
でも驚くほど淡々としていた。
ミレイユは穏やかな笑みを崩さない。
「北側の件、私にも共有を」
「父も案じておりますし、私も動けるよう準備を整えておきます」
その言い方にも、王家や神殿の正式な話の延長にいるような近さがあった。
「必要なら後ほど資料を回す」
短い返答。
それだけだった。
ミレイユの笑みが、ほんの少しだけ止まる。
けれどすぐに整う。
「……分かりました」
そのやりとりを、ラティアは見ないふりをしようとして、うまくできなかった。
横でレオンが、ほんの少しだけ視線を寄こす。
気づかれたかもしれない。
そう思った瞬間、前から低い声が落ちた。
「行くぞ」
ユリスだった。
いつの間にかこちらへ戻ってきている。
ラティアははっとして顔を上げる。
ユリスはもう前を向いていた。
けれど歩く速度は、ほんの少しだけラティアに合わせてあった。
そのことに気づいて、胸のざわつきが少しだけ別のものに変わる。
「……うん」
小さく返して、歩き出す。
後ろではエドガルド補佐が静かに一礼していた。
表情は穏やかで、少しも不自然なところはない。
それなのに、なぜかラティアは、ほんの一瞬だけ冷たいものを感じた。
説明できるほどの違和感ではない。
ただ、薄く残る残り香みたいな感覚。
でも、次の瞬間にはもう消えていた。
王城の窓から射す昼の光は明るい。
それでもラティアの胸の奥では、まだ消えないものがいくつもあった。
王の言葉。
リディアの「久しぶりね」。
ミレイユの視線。
レオンのやわらかな声。
そして、迷いなくこちらへ戻ってきたユリスの足音。
全部を抱えたまま、ラティアはそっと息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
まだ終わらない。
むしろ、ここからなのだ。
その実感を胸に、一行は再び王城の回廊を進んでいった。




