57
孤児院がようやく落ち着きを取り戻し始めた頃には、昼の光はすっかり部屋の奥まで差し込んでいた。
さっきまで別室で息を整えていたはずなのに、ラティアの胸の奥には、まだ小さな熱が残っていた。
雪山の春。
会えなかった時間。
レオンのやわらかな声。
そして、ユリスの短い「息」。
少しほどけたはずのものが、完全に消えたわけではない。
けれど今は、それを抱えたままでも前に進かなければならなかった。
礼拝室の外では職員たちが慌ただしく行き来している。
泣いていた子どもたちの声も、今はだいぶ静かだ。
さっきまでの切迫した空気は、もうない。
けれど。
礼拝室の床に残った焼け跡だけは、まだそこにあった。
黒く焦げたような線。
祈りの床に歪んで刻まれた、術式の名残。
重く淀んでいた空気は、ラティアの光に洗われたあとみたいに、もうほとんど消えている。
それなのに、そこだけがまだ“何かがいた場所”のままだった。
ラティアは礼拝室の入口で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。
さっき、自分が膨れ上がらせかけた光。
子どもたちを守りながら、向こうへ届きかけた衝動。
思い出しかけた胸のざわめきを、守り紐に触れて押さえる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
「大丈夫か」
低い声に顔を上げると、ユリスが少しだけこちらを見ていた。
ラティアは小さく頷く。
「……うん」
その一言を聞いて、ユリスはそれ以上何も言わない。
ただ、先に礼拝室の中へ入っていった。
レオンが床の前にしゃがみこんでいる。
指先をかざし、残った魔力の癖を確かめるように目を細めていた。
「どう?」
サラが近づいて問う。
レオンはすぐには答えない。
いつもの軽さは、今はもうどこにもなかった。
「あの術式、狙いは眠らせること自体じゃない」
やがて低く言う。
レオンは焼け跡を指でなぞった。
「子どもたちの眠りを器にして、残滓を育てるためのものだった」
礼拝室に沈黙が落ちる。
サラが静かに続けた。
「夢や不安に黒いものを絡めて、少しずつ深く根を張らせる……そういう型です」
カイルが眉をひそめる。
「放ってたら、どうなってた」
レオンの目が冷える。
「礼拝室全体でひとつの核になってた」
短く、はっきりと言った。
「子どもたちは、そのための苗床にされてたはずだ」
ラティアの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
助けられたから、今はこうして話せている。
でも、もしあと少し遅れていたら。
眠っていた子どもたちは、そのまま黒いものの中へ沈んでいたのかもしれない。
「最低だな」
カイルが吐き捨てる。
「魔導院の術式に神殿の型を混ぜたってことか」
「たぶんね」
レオンは短く答えた。
「しかも孤児院を狙うなら、内部構造も知ってたはずだ」
サラの表情も厳しくなる。
「神殿の祈祷式を反転させています」
その声は静かだが、よく聞けば怒りが滲んでいる。
「守るための形を、眠りを深く落とす方へ捻じ曲げている」
守るためのものを、傷つけるために使う。
そのことが、ラティアにはひどく気持ち悪かった。
「ここに来た時点で、もう仕込みは終わってたんだな」
カイルが礼拝室の中を見回す。
「俺たちが踏み込んだ時には、あとは育つの待ちってわけか」
「ええ」
サラが短く頷く。
「子どもたちの眠りを、そんなふうに使うなんて……」
最後まで言わずに、唇を閉じる。
それだけで十分だった。
ラティアは少し離れた場所で立ち尽くしていた。
みんなの話は聞こえている。
でも、それとは別に気になるものがあった。
床の焼け跡から、まだ何かが漂っている。
黒い靄ではない。
形はもうない。
けれど、匂いみたいなものがある。
焦げた匂い。
乾いた土。
それに混じる、ぞっとするほど冷たい気配。
「……まだ、いる」
ぽつりと零れた声に、全員の動きが止まる。
ユリスが真っ先に振り返った。
「何がだ」
ラティアは礼拝室の中央を見る。
焼けた術式の跡ではない。
そこから少し外れた、祭壇の裏側の壁際。
「ここにいたもの、じゃなくて……」
うまく言葉にできない。
「残ってる」
レオンがゆっくり立ち上がる。
「残滓か?」
ラティアは首を振る。
「違う……もっと薄い」
リュミが肩口で、小さく光った。
ラティアはそっと目を閉じる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
呼吸を整えて、もう一度感じ取る。
黒いものは消えた。
でも、“触れた感じ”だけが壁に染みついている。
まるで、そこに立って見ていた誰かの気配みたいに。
「……残り香、みたい」
その言葉に、レオンの顔色が変わる。
「術者の?」
「たぶん……」
ラティアは目を開ける。
「ここにいた。
長くじゃないけど、ちゃんと」
サラが壁際へ近づいた。
何も見えない石壁。
古い壁画の剥がれ。
それだけのはずなのに、たしかに空気が少し冷たい。
「覗き穴……ではありませんね」
「いや」
レオンが壁の下部にしゃがみこむ。
指で石の継ぎ目を探る。
「隠し通路の跡だ」
カイルが眉を上げる。
「おいおい」
レオンが埃を払うと、壁の一部に不自然な切れ目が現れた。
今は石で塞がれている。
けれど、元は人ひとり通れるくらいの狭い通路だったらしい。
「古い礼拝堂によくある構造だよ」
レオンが低く言う。
「裏方用の通路。
修繕の時に埋めたんだろうけど……」
「向こうを知ってるやつなら、ここに立てる」
カイルが言う。
「しかも礼拝室を近い位置で見られる」
サラの表情が冷える。
「子どもたちの様子も、術の定着も、すべて確認できたということですね」
ラティアの胸がざわつく。
見られていた。
自分たちも。
子どもたちも。
全部。
その事実が、助けられた安堵を少しずつ削っていく。
「追えるか」
ユリスが問う。
レオンは隠し通路の石を軽く叩き、首を振った。
「今は無理。
塞がれてから時間が経ってるし、今朝ここを使った痕跡も薄い」
「でも、知ってるやつはいる」
カイルが低く言う。
「内部構造も、神殿の型も、魔導院の術式も」
「ええ」
サラが頷いた。
「しかも、私たちの動きまで見ている」
礼拝室に沈黙が落ちる。
子どもたちの泣き声や職員の声は、開いた扉の向こうから聞こえてくる。
それが余計に、この場の冷たさを際立たせた。
ラティアは隠し通路の跡を見つめたまま、守り紐に触れる。
もし、あと少し遅れていたら。
そう考えたくないのに、考えてしまう。
「ラティア」
低い声。
ユリスだった。
「見るな」
短い。
でも、それは“考えるな”ではなかった。
そこに気を取られすぎるな、という声だった。
ラティアは小さく息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
「……うん」
それで、少し戻る。
レオンはまだ壁際を見ていた。
表情は抑えられている。
でも、抑えきれない怒りと悔しさが、その横顔に滲んでいる。
「遊ばれてるな」
カイルが吐くように言った。
「試されてるのかもしれません」
サラの声は静かだ。
「どこまで気づけるか。どこまで止められるか」
レオンが苦く息を吐く。
「趣味が悪いにもほどがある」
そのとき、礼拝室の外から神殿騎士が駆け込んできた。
「補佐より伝言です!」
全員の視線が向く。
「昨夜から今朝にかけて、王都北側でも小さな体調不良が複数報告されております。
ただし症状は軽く、眠気と頭痛のみ。
場所に共通点はまだ――」
「ある」
レオンが即座に言った。
騎士が目を瞬く。
レオンは振り返り、机代わりに使われていた長椅子の上へ地図を広げた。
「共通点はまだ見えてないんじゃない。
細かく散らしすぎて、見えなくしてるだけだ」
カイルが口角を上げる。
「戻ったな」
レオンは返さない。
そのままラティアを見る。
「君、まだ感じる?」
ラティアは少しだけ戸惑ったあと、頷いた。
「……うっすら」
「なら、この残り香と同じ気配を追えるかもしれない」
サラがすぐに言う。
「神殿側の相談記録と照合しましょう」
「魔導院でも北側の流れを洗う」
レオンが続ける。
「散らされてるなら、逆に癖が出るはずだ」
ユリスは短く言った。
「戻るぞ」
また、判断が早い。
ここで追跡に沈まない。
まず情報を束ねる方を取る。
それが今必要だと、迷わず切り分けている。
ラティアは礼拝室を振り返った。
光の戻った部屋。
助かった子どもたち。
でも壁の奥には、まだ見えない敵の気配が残っている。
間に合った。
けれど、それで終わりじゃない。
むしろ、ようやく向こうの輪郭が見え始めたところなのかもしれなかった。
リュミが肩口で、そっとまたたく。
ラティアは小さく息を吐いて、頷いた。
「……行く」
礼拝室を出ると、外の光が少し眩しかった。
それでも胸の奥には、まだ薄い冷たさが残っている。
残り香。
それはもう消えかけているのに、確かに“誰か”を感じさせた。
そして、その誰かもまた、こちらを知った。
その実感だけが、朝から昼へ変わった光の中でも、消えずに残っていた。




