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孤児院がようやく落ち着きを取り戻し始めた頃には、昼の光はすっかり部屋の奥まで差し込んでいた。


さっきまで別室で息を整えていたはずなのに、ラティアの胸の奥には、まだ小さな熱が残っていた。


雪山の春。

会えなかった時間。

レオンのやわらかな声。

そして、ユリスの短い「息」。


少しほどけたはずのものが、完全に消えたわけではない。

けれど今は、それを抱えたままでも前に進かなければならなかった。


礼拝室の外では職員たちが慌ただしく行き来している。

泣いていた子どもたちの声も、今はだいぶ静かだ。


さっきまでの切迫した空気は、もうない。


けれど。


礼拝室の床に残った焼け跡だけは、まだそこにあった。


黒く焦げたような線。

祈りの床に歪んで刻まれた、術式の名残。


重く淀んでいた空気は、ラティアの光に洗われたあとみたいに、もうほとんど消えている。

それなのに、そこだけがまだ“何かがいた場所”のままだった。


ラティアは礼拝室の入口で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。


さっき、自分が膨れ上がらせかけた光。

子どもたちを守りながら、向こうへ届きかけた衝動。


思い出しかけた胸のざわめきを、守り紐に触れて押さえる。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


「大丈夫か」


低い声に顔を上げると、ユリスが少しだけこちらを見ていた。


ラティアは小さく頷く。


「……うん」


その一言を聞いて、ユリスはそれ以上何も言わない。

ただ、先に礼拝室の中へ入っていった。


レオンが床の前にしゃがみこんでいる。


指先をかざし、残った魔力の癖を確かめるように目を細めていた。


「どう?」


サラが近づいて問う。


レオンはすぐには答えない。


いつもの軽さは、今はもうどこにもなかった。


「あの術式、狙いは眠らせること自体じゃない」


やがて低く言う。


レオンは焼け跡を指でなぞった。


「子どもたちの眠りを器にして、残滓を育てるためのものだった」


礼拝室に沈黙が落ちる。


サラが静かに続けた。


「夢や不安に黒いものを絡めて、少しずつ深く根を張らせる……そういう型です」


カイルが眉をひそめる。


「放ってたら、どうなってた」


レオンの目が冷える。


「礼拝室全体でひとつの核になってた」


短く、はっきりと言った。


「子どもたちは、そのための苗床にされてたはずだ」


ラティアの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。


助けられたから、今はこうして話せている。

でも、もしあと少し遅れていたら。


眠っていた子どもたちは、そのまま黒いものの中へ沈んでいたのかもしれない。


「最低だな」


カイルが吐き捨てる。


「魔導院の術式に神殿の型を混ぜたってことか」


「たぶんね」


レオンは短く答えた。


「しかも孤児院を狙うなら、内部構造も知ってたはずだ」


サラの表情も厳しくなる。


「神殿の祈祷式を反転させています」


その声は静かだが、よく聞けば怒りが滲んでいる。


「守るための形を、眠りを深く落とす方へ捻じ曲げている」


守るためのものを、傷つけるために使う。


そのことが、ラティアにはひどく気持ち悪かった。


「ここに来た時点で、もう仕込みは終わってたんだな」


カイルが礼拝室の中を見回す。


「俺たちが踏み込んだ時には、あとは育つの待ちってわけか」


「ええ」


サラが短く頷く。


「子どもたちの眠りを、そんなふうに使うなんて……」


最後まで言わずに、唇を閉じる。


それだけで十分だった。


ラティアは少し離れた場所で立ち尽くしていた。


みんなの話は聞こえている。


でも、それとは別に気になるものがあった。


床の焼け跡から、まだ何かが漂っている。


黒い靄ではない。

形はもうない。


けれど、匂いみたいなものがある。


焦げた匂い。

乾いた土。

それに混じる、ぞっとするほど冷たい気配。


「……まだ、いる」


ぽつりと零れた声に、全員の動きが止まる。


ユリスが真っ先に振り返った。


「何がだ」


ラティアは礼拝室の中央を見る。


焼けた術式の跡ではない。

そこから少し外れた、祭壇の裏側の壁際。


「ここにいたもの、じゃなくて……」


うまく言葉にできない。


「残ってる」


レオンがゆっくり立ち上がる。


「残滓か?」


ラティアは首を振る。


「違う……もっと薄い」


リュミが肩口で、小さく光った。


ラティアはそっと目を閉じる。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


呼吸を整えて、もう一度感じ取る。


黒いものは消えた。


でも、“触れた感じ”だけが壁に染みついている。


まるで、そこに立って見ていた誰かの気配みたいに。


「……残り香、みたい」


その言葉に、レオンの顔色が変わる。


「術者の?」


「たぶん……」


ラティアは目を開ける。


「ここにいた。

長くじゃないけど、ちゃんと」


サラが壁際へ近づいた。


何も見えない石壁。

古い壁画の剥がれ。

それだけのはずなのに、たしかに空気が少し冷たい。


「覗き穴……ではありませんね」


「いや」


レオンが壁の下部にしゃがみこむ。


指で石の継ぎ目を探る。


「隠し通路の跡だ」


カイルが眉を上げる。


「おいおい」


レオンが埃を払うと、壁の一部に不自然な切れ目が現れた。


今は石で塞がれている。

けれど、元は人ひとり通れるくらいの狭い通路だったらしい。


「古い礼拝堂によくある構造だよ」


レオンが低く言う。


「裏方用の通路。

修繕の時に埋めたんだろうけど……」


「向こうを知ってるやつなら、ここに立てる」


カイルが言う。


「しかも礼拝室を近い位置で見られる」


サラの表情が冷える。


「子どもたちの様子も、術の定着も、すべて確認できたということですね」


ラティアの胸がざわつく。


見られていた。


自分たちも。

子どもたちも。

全部。


その事実が、助けられた安堵を少しずつ削っていく。


「追えるか」


ユリスが問う。


レオンは隠し通路の石を軽く叩き、首を振った。


「今は無理。

塞がれてから時間が経ってるし、今朝ここを使った痕跡も薄い」


「でも、知ってるやつはいる」


カイルが低く言う。


「内部構造も、神殿の型も、魔導院の術式も」


「ええ」


サラが頷いた。


「しかも、私たちの動きまで見ている」


礼拝室に沈黙が落ちる。


子どもたちの泣き声や職員の声は、開いた扉の向こうから聞こえてくる。

それが余計に、この場の冷たさを際立たせた。


ラティアは隠し通路の跡を見つめたまま、守り紐に触れる。


もし、あと少し遅れていたら。


そう考えたくないのに、考えてしまう。


「ラティア」


低い声。


ユリスだった。


「見るな」


短い。


でも、それは“考えるな”ではなかった。


そこに気を取られすぎるな、という声だった。


ラティアは小さく息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


「……うん」


それで、少し戻る。


レオンはまだ壁際を見ていた。


表情は抑えられている。

でも、抑えきれない怒りと悔しさが、その横顔に滲んでいる。


「遊ばれてるな」


カイルが吐くように言った。


「試されてるのかもしれません」


サラの声は静かだ。


「どこまで気づけるか。どこまで止められるか」


レオンが苦く息を吐く。


「趣味が悪いにもほどがある」


そのとき、礼拝室の外から神殿騎士が駆け込んできた。


「補佐より伝言です!」


全員の視線が向く。


「昨夜から今朝にかけて、王都北側でも小さな体調不良が複数報告されております。

ただし症状は軽く、眠気と頭痛のみ。

場所に共通点はまだ――」


「ある」


レオンが即座に言った。


騎士が目を瞬く。


レオンは振り返り、机代わりに使われていた長椅子の上へ地図を広げた。


「共通点はまだ見えてないんじゃない。

細かく散らしすぎて、見えなくしてるだけだ」


カイルが口角を上げる。


「戻ったな」


レオンは返さない。


そのままラティアを見る。


「君、まだ感じる?」


ラティアは少しだけ戸惑ったあと、頷いた。


「……うっすら」


「なら、この残り香と同じ気配を追えるかもしれない」


サラがすぐに言う。


「神殿側の相談記録と照合しましょう」


「魔導院でも北側の流れを洗う」


レオンが続ける。


「散らされてるなら、逆に癖が出るはずだ」


ユリスは短く言った。


「戻るぞ」


また、判断が早い。


ここで追跡に沈まない。

まず情報を束ねる方を取る。


それが今必要だと、迷わず切り分けている。


ラティアは礼拝室を振り返った。


光の戻った部屋。

助かった子どもたち。

でも壁の奥には、まだ見えない敵の気配が残っている。


間に合った。

けれど、それで終わりじゃない。


むしろ、ようやく向こうの輪郭が見え始めたところなのかもしれなかった。


リュミが肩口で、そっとまたたく。


ラティアは小さく息を吐いて、頷いた。


「……行く」


礼拝室を出ると、外の光が少し眩しかった。


それでも胸の奥には、まだ薄い冷たさが残っている。


残り香。


それはもう消えかけているのに、確かに“誰か”を感じさせた。


そして、その誰かもまた、こちらを知った。


その実感だけが、朝から昼へ変わった光の中でも、消えずに残っていた。

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