56
礼拝室の扉は開け放たれていた。
砕けた窓から入る風が、白く澄んだ朝の空気を運び込んでくる。
さっきまであの部屋を満たしていた淀みは、もうほとんど残っていなかった。
黒い術式の跡だけが、床に焦げたように薄く残っている。
子どもたちは別室へ運ばれ、職員たちが慌ただしく行き来している。
泣き声も、安堵の声も、もう礼拝室の外にある。
けれどラティアの胸の中だけは、まだ静かになりきっていなかった。
「座れ」
低い声に顔を上げると、ユリスが礼拝室を出た先の小部屋を示していた。
孤児院の空き部屋らしい。
白い壁に、簡素な机と椅子。
開けた窓から、昼へ向かうやわらかな光が差し込んでいる。
ラティアは小さく頷いて、椅子に腰を下ろした。
その途端、膝の力が少し抜けた。
ユリスは何も言わずに水差しを置き、木の杯に水を注ぐ。
そのままラティアへ差し出した。
「……ありがとう」
受け取ると、ひんやりした感触が指先に気持ちいい。
ユリスはそのまま少し離れた壁際へ下がった。
でも、離れすぎない。
ラティアがふらついたら、すぐに届く距離だった。
扉が開いて、サラ、カイル、レオンが入ってくる。
「子どもたちは落ち着きました」
サラがほっとしたように言った。
「職員の方たちも戻っています」
「ならよかった」
カイルが短く答える。
その声はいつも通りぶっきらぼうなのに、どこか少しだけやわらかい。
レオンは入ってくるなり、ラティアの顔を見た。
それから手元の杯に視線を落とす。
「飲めてる?」
「……ちょっとだけ」
「よかった」
それだけ言って、少し笑う。
ラティアは思わず小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
サラが近くに腰を下ろした。
「ラティアさん、今はどこか苦しいところはありませんか?」
ラティアは少し考える。
身体が痛いわけじゃない。
でも胸の奥がまだ落ち着かなくて、熱を持ったままみたいだった。
「……こわかった」
ぽつりと出た言葉に、自分で少し驚く。
言葉にするつもりはなかった。
けれど、口にした瞬間、あの時の感覚が少しだけ輪郭を持つ。
「子どもたちを助けたかったのに」
指先が、杯の縁をそっとなぞる。
「向こうも消したいって、思った」
部屋が少し静かになる。
レオンは軽く返さない。
ただ、ちゃんと聞いている顔で立っていた。
「守りたかったのに、同時に、なくなれって思った」
ラティアは小さく唇を噛む。
「それが、すごくいやだった」
少しだけ間が空いた。
その静けさを破ったのは、レオンだった。
「……今まで、こういう時どうしてたの」
ラティアが顔を上げる。
レオンは机の端に寄りかかるように立っていた。
いつもの余裕は残しているのに、今はふざける気配がない。
「こういうふうに、力が溢れそうになる時」
少しだけ言葉を選ぶ。
「君、今までどうしてたの」
ラティアはすぐに答えられなかった。
雪の匂いがした気がした。
あの、静かすぎる白い山。
息を吐けば消えてしまいそうな、自分だけの春。
「……山にいたの」
小さく言う。
「山?」
レオンが聞き返す。
ラティアは頷いた。
「ずっと雪だった」
「……レオンを傷つけて、怖くなって」
そこで言葉が少し詰まる。
「誰にも触れない方がいいって、思って」
部屋の空気が静かになる。
ラティアは守り紐に触れながら、続けた。
「雪山に、閉じこもってた」
レオンが小さく息を呑む。
「雪山?」
「……うん」
「外はずっと雪で、寒くて」
ラティアは少しだけ目を伏せる。
「でも、わたしの周りだけ、少し春みたいになってて」
その時、低い声が静かに入った。
「結界だ」
ユリスだった。
ラティアが少しだけそちらを見る。
ユリスは壁際に寄りかかったまま、短く続けた。
「雪山の中で、春の結界を張ってた」
レオンの目が、そこで初めて大きく揺れた。
「……なるほど」
その声は納得したみたいで、でも少しだけ苦かった。
「今まで見つからないわけだ」
ラティアが目を瞬く。
レオンは視線を落としたまま言う。
「あの魔力なら、どこかで必ず痕跡が出ると思ってた」
「魔導院にいれば、いつか会えるんじゃないかって」
そこで、少しだけ困ったように笑った。
「……本当は、誰より先に見つけたかったんだけど」
ラティアの胸が、小さく鳴る。
レオンは続けた。
「でも、雪山の中で春の結界なんて張って閉じこもってたなら」
ようやくラティアを見る。
その目は責めるでもなく、ただやわらかかった。
「そりゃ、見つけられないよ」
ほんの少し息を吐いて、肩をすくめる。
「ずっと、会いたかったのにな」
ラティアの胸がぎゅっと縮む。
そんなふうに言われると思っていなかった。
会えなかった時間を、自分だけが抱えていたわけじゃないのだと、今さらみたいに思い知らされる。
「……ごめん、なさい」
やっとそれだけ言うと、レオンは小さく首を振った。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
その声はやわらかい。
「ただ、ちょっとさみしかっただけ」
レオンはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
それから、ためらうみたいに手を伸ばす。
指先がラティアの髪にそっと触れ、頬の横へ落ちていた一房を耳の後ろへ流した。
ほんの一瞬。
それだけなのに、触れられた場所が熱を持つ。
「……でも、見つけた」
低い声が、やわらかく落ちた。
ラティアの胸が小さく鳴る。
少しだけ静かになりかけたところで、レオンがふと、ユリスたちを見る。
「その春の結界って、実際どんなだったの」
一瞬、部屋が静かになる。
先に口を開いたのはカイルだった。
「あー……一言で言うなら、異様だったな」
腕を組んだまま、少しだけ遠い目になる。
「雪しかねえ山の中で、そこだけ春だった」
「草が生えてて、花まで咲いてて、空気まで違った」
「なのに、綺麗ってだけじゃ済まねえ感じ」
サラが静かに続ける。
「ええ。不思議と穏やかなのに、張りつめてもいました」
「結界の中にいる限り、ラティアさんの魔力は保たれていたのでしょう」
「でも同時に、あれはご自身を閉じ込めておくための、静かな囲いでもあったのでしょう」
レオンの表情が少しだけ変わる。
「囲い……」
ユリスが短く言う。
「自分で、出ないようにしてた」
それだけの言い方だった。
でも、ラティアの肩が小さく揺れる。
ユリスはそのまま続ける。
「結界は綺麗だった」
「けど、綺麗なだけじゃなかった」
「あいつが、壊さないために閉じこもってた場所だ」
部屋が少し静かになる。
その空気を崩すみたいに、カイルが口を挟んだ。
「あとカップは割るしな」
「……またそれ言う」
ラティアが小さくむくれる。
カイルは肩を揺らした。
「だって本当だろ。あれだけ綺麗な結界の中で、ぱきぱき食器割ってたんだぞ」
サラも少しだけ笑う。
「ええ。三つ続けて割った日もありましたね」
「サラまで……!」
今度はレオンまで吹き出した。
「なにそれ。見たかったな」
「見なくていい……」
ラティアが頬を少し熱くすると、カイルが追い打ちをかける。
「しかも皿じゃなくて、よりによってカップな」
「飲もうとするたび割るの、ちょっと才能あったぞ」
「ないよ!」
思わず返した声が少しだけ大きくなって、自分でも驚く。
でも、それで部屋の空気がふっとほどけた。
カイルは少しだけ真面目な声に戻る。
「雪山で春作って、食器割りまくって、そりゃ加減も難しいわけだ」
ぶっきらぼうだったが、その奥にはちゃんと優しさがあった。
「閉じこもってたの、責める気にはならねえよ」
ラティアは小さく「……うん」と返した。
その時、壁際から低い声が落ちる。
「……それで、山に籠ったのか」
ユリスだった。
全員の視線が向く。
ユリスはラティアを見る。
その視線は静かで、でもさっきより少しやわらかい。
「レオンを傷つけたから」
確認するみたいな声だった。
ラティアの肩が小さく揺れる。
「……うん」
ユリスは短く息を吐く。
「なるほどな」
それから少しだけ間を置いて、続けた。
「……それでも、今は出てきた」
ラティアの喉が小さく鳴る。
「……うん」
それしか言えなかった。
でも、その一言は静かに胸へ落ちた。
少しだけ呼吸が浅くなりかけた、その時。
「息」
ユリスが言った。
短い、いつもの声。
ラティアははっとして、小さく息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
その繰り返しだけで、胸のざわめきが少し落ち着く。
レオンがそれを見て、少しだけ目を伏せた。
気づいているのだ。
こういう時に、ラティアを現実へ戻せるのが誰か。
それでも、目を逸らさずにレオンは笑う。
「……でもさ」
ラティアがそちらを見る。
「雪山の中で春を作って閉じこもってたなんて、ほんと君らしいよね」
「そう……かな」
「そうだよ」
レオンはやわらかく笑った。
「とんでもないのに、どこか綺麗で」
「しかも一人で抱え込む」
少しだけ肩をすくめる。
「昔から変わってない」
その言葉に、ラティアの胸がまた小さく揺れる。
ユリスは何も言わない。
でもその沈黙は冷たくなかった。
ただ静かに、今ここにいるラティアを見ている。
サラが立ち上がった。
「少し休んだら、また動きましょう」
現実へ戻すような声だった。
「礼拝室の術式の確認も、北側の件の整理も、まだ残っています」
「だな」
カイルが頷く。
レオンも軽く息を吐いた。
「……うん」
ラティアも頷く。
まだ終わっていない。
向こうは生きている。
傷を負っただけで、止まってはいない。
でも。
会えなかった時間を知ってもらえたこと。
今ここで、息を整えられること。
その両方が、ラティアの中に静かに残った。
窓の外では、昼の光が少しずつ濃くなっている。
雪山の春は、閉じこもるためのものだった。
けれど今、胸の奥にある小さなあたたかさは、少しだけ違う気がした。
まだ名前はつけられない。
それでも、ラティアはもう一度だけ深く息を吸った。




