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礼拝室の扉は開け放たれていた。


砕けた窓から入る風が、白く澄んだ朝の空気を運び込んでくる。

さっきまであの部屋を満たしていた淀みは、もうほとんど残っていなかった。


黒い術式の跡だけが、床に焦げたように薄く残っている。


子どもたちは別室へ運ばれ、職員たちが慌ただしく行き来している。

泣き声も、安堵の声も、もう礼拝室の外にある。


けれどラティアの胸の中だけは、まだ静かになりきっていなかった。


「座れ」


低い声に顔を上げると、ユリスが礼拝室を出た先の小部屋を示していた。


孤児院の空き部屋らしい。

白い壁に、簡素な机と椅子。

開けた窓から、昼へ向かうやわらかな光が差し込んでいる。


ラティアは小さく頷いて、椅子に腰を下ろした。


その途端、膝の力が少し抜けた。


ユリスは何も言わずに水差しを置き、木の杯に水を注ぐ。

そのままラティアへ差し出した。


「……ありがとう」


受け取ると、ひんやりした感触が指先に気持ちいい。


ユリスはそのまま少し離れた壁際へ下がった。

でも、離れすぎない。

ラティアがふらついたら、すぐに届く距離だった。


扉が開いて、サラ、カイル、レオンが入ってくる。


「子どもたちは落ち着きました」


サラがほっとしたように言った。


「職員の方たちも戻っています」


「ならよかった」


カイルが短く答える。


その声はいつも通りぶっきらぼうなのに、どこか少しだけやわらかい。


レオンは入ってくるなり、ラティアの顔を見た。

それから手元の杯に視線を落とす。


「飲めてる?」


「……ちょっとだけ」


「よかった」


それだけ言って、少し笑う。


ラティアは思わず小さく息を吐いた。

ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。


サラが近くに腰を下ろした。


「ラティアさん、今はどこか苦しいところはありませんか?」


ラティアは少し考える。


身体が痛いわけじゃない。

でも胸の奥がまだ落ち着かなくて、熱を持ったままみたいだった。


「……こわかった」


ぽつりと出た言葉に、自分で少し驚く。


言葉にするつもりはなかった。


けれど、口にした瞬間、あの時の感覚が少しだけ輪郭を持つ。


「子どもたちを助けたかったのに」


指先が、杯の縁をそっとなぞる。


「向こうも消したいって、思った」


部屋が少し静かになる。


レオンは軽く返さない。

ただ、ちゃんと聞いている顔で立っていた。


「守りたかったのに、同時に、なくなれって思った」


ラティアは小さく唇を噛む。


「それが、すごくいやだった」


少しだけ間が空いた。


その静けさを破ったのは、レオンだった。


「……今まで、こういう時どうしてたの」


ラティアが顔を上げる。


レオンは机の端に寄りかかるように立っていた。

いつもの余裕は残しているのに、今はふざける気配がない。


「こういうふうに、力が溢れそうになる時」


少しだけ言葉を選ぶ。


「君、今までどうしてたの」


ラティアはすぐに答えられなかった。


雪の匂いがした気がした。


あの、静かすぎる白い山。

息を吐けば消えてしまいそうな、自分だけの春。


「……山にいたの」


小さく言う。


「山?」


レオンが聞き返す。


ラティアは頷いた。


「ずっと雪だった」


「……レオンを傷つけて、怖くなって」


そこで言葉が少し詰まる。


「誰にも触れない方がいいって、思って」


部屋の空気が静かになる。


ラティアは守り紐に触れながら、続けた。


「雪山に、閉じこもってた」


レオンが小さく息を呑む。


「雪山?」


「……うん」


「外はずっと雪で、寒くて」


ラティアは少しだけ目を伏せる。


「でも、わたしの周りだけ、少し春みたいになってて」


その時、低い声が静かに入った。


「結界だ」


ユリスだった。


ラティアが少しだけそちらを見る。


ユリスは壁際に寄りかかったまま、短く続けた。


「雪山の中で、春の結界を張ってた」


レオンの目が、そこで初めて大きく揺れた。


「……なるほど」


その声は納得したみたいで、でも少しだけ苦かった。


「今まで見つからないわけだ」


ラティアが目を瞬く。


レオンは視線を落としたまま言う。


「あの魔力なら、どこかで必ず痕跡が出ると思ってた」


「魔導院にいれば、いつか会えるんじゃないかって」


そこで、少しだけ困ったように笑った。


「……本当は、誰より先に見つけたかったんだけど」


ラティアの胸が、小さく鳴る。


レオンは続けた。


「でも、雪山の中で春の結界なんて張って閉じこもってたなら」


ようやくラティアを見る。


その目は責めるでもなく、ただやわらかかった。


「そりゃ、見つけられないよ」


ほんの少し息を吐いて、肩をすくめる。


「ずっと、会いたかったのにな」


ラティアの胸がぎゅっと縮む。


そんなふうに言われると思っていなかった。


会えなかった時間を、自分だけが抱えていたわけじゃないのだと、今さらみたいに思い知らされる。


「……ごめん、なさい」


やっとそれだけ言うと、レオンは小さく首を振った。


「謝ってほしいわけじゃないよ」


その声はやわらかい。


「ただ、ちょっとさみしかっただけ」


レオンはそう言って、少しだけ困ったように笑った。


それから、ためらうみたいに手を伸ばす。


指先がラティアの髪にそっと触れ、頬の横へ落ちていた一房を耳の後ろへ流した。


ほんの一瞬。


それだけなのに、触れられた場所が熱を持つ。


「……でも、見つけた」


低い声が、やわらかく落ちた。


ラティアの胸が小さく鳴る。


少しだけ静かになりかけたところで、レオンがふと、ユリスたちを見る。


「その春の結界って、実際どんなだったの」


一瞬、部屋が静かになる。


先に口を開いたのはカイルだった。


「あー……一言で言うなら、異様だったな」


腕を組んだまま、少しだけ遠い目になる。


「雪しかねえ山の中で、そこだけ春だった」


「草が生えてて、花まで咲いてて、空気まで違った」


「なのに、綺麗ってだけじゃ済まねえ感じ」


サラが静かに続ける。


「ええ。不思議と穏やかなのに、張りつめてもいました」


「結界の中にいる限り、ラティアさんの魔力は保たれていたのでしょう」


「でも同時に、あれはご自身を閉じ込めておくための、静かな囲いでもあったのでしょう」


レオンの表情が少しだけ変わる。


「囲い……」


ユリスが短く言う。


「自分で、出ないようにしてた」


それだけの言い方だった。


でも、ラティアの肩が小さく揺れる。


ユリスはそのまま続ける。


「結界は綺麗だった」


「けど、綺麗なだけじゃなかった」


「あいつが、壊さないために閉じこもってた場所だ」


部屋が少し静かになる。


その空気を崩すみたいに、カイルが口を挟んだ。


「あとカップは割るしな」


「……またそれ言う」


ラティアが小さくむくれる。


カイルは肩を揺らした。


「だって本当だろ。あれだけ綺麗な結界の中で、ぱきぱき食器割ってたんだぞ」


サラも少しだけ笑う。


「ええ。三つ続けて割った日もありましたね」


「サラまで……!」


今度はレオンまで吹き出した。


「なにそれ。見たかったな」


「見なくていい……」


ラティアが頬を少し熱くすると、カイルが追い打ちをかける。


「しかも皿じゃなくて、よりによってカップな」


「飲もうとするたび割るの、ちょっと才能あったぞ」


「ないよ!」


思わず返した声が少しだけ大きくなって、自分でも驚く。


でも、それで部屋の空気がふっとほどけた。


カイルは少しだけ真面目な声に戻る。


「雪山で春作って、食器割りまくって、そりゃ加減も難しいわけだ」


ぶっきらぼうだったが、その奥にはちゃんと優しさがあった。


「閉じこもってたの、責める気にはならねえよ」


ラティアは小さく「……うん」と返した。


その時、壁際から低い声が落ちる。


「……それで、山に籠ったのか」


ユリスだった。


全員の視線が向く。


ユリスはラティアを見る。


その視線は静かで、でもさっきより少しやわらかい。


「レオンを傷つけたから」


確認するみたいな声だった。


ラティアの肩が小さく揺れる。


「……うん」


ユリスは短く息を吐く。


「なるほどな」


それから少しだけ間を置いて、続けた。


「……それでも、今は出てきた」


ラティアの喉が小さく鳴る。


「……うん」


それしか言えなかった。


でも、その一言は静かに胸へ落ちた。


少しだけ呼吸が浅くなりかけた、その時。


「息」


ユリスが言った。


短い、いつもの声。


ラティアははっとして、小さく息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


その繰り返しだけで、胸のざわめきが少し落ち着く。


レオンがそれを見て、少しだけ目を伏せた。


気づいているのだ。

こういう時に、ラティアを現実へ戻せるのが誰か。


それでも、目を逸らさずにレオンは笑う。


「……でもさ」


ラティアがそちらを見る。


「雪山の中で春を作って閉じこもってたなんて、ほんと君らしいよね」


「そう……かな」


「そうだよ」


レオンはやわらかく笑った。


「とんでもないのに、どこか綺麗で」


「しかも一人で抱え込む」


少しだけ肩をすくめる。


「昔から変わってない」


その言葉に、ラティアの胸がまた小さく揺れる。


ユリスは何も言わない。

でもその沈黙は冷たくなかった。


ただ静かに、今ここにいるラティアを見ている。


サラが立ち上がった。


「少し休んだら、また動きましょう」


現実へ戻すような声だった。


「礼拝室の術式の確認も、北側の件の整理も、まだ残っています」


「だな」


カイルが頷く。


レオンも軽く息を吐いた。


「……うん」


ラティアも頷く。


まだ終わっていない。


向こうは生きている。

傷を負っただけで、止まってはいない。


でも。


会えなかった時間を知ってもらえたこと。

今ここで、息を整えられること。


その両方が、ラティアの中に静かに残った。


窓の外では、昼の光が少しずつ濃くなっている。


雪山の春は、閉じこもるためのものだった。


けれど今、胸の奥にある小さなあたたかさは、少しだけ違う気がした。


まだ名前はつけられない。


それでも、ラティアはもう一度だけ深く息を吸った。

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