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孤児院の門が見えた時には、ラティアの息はもう浅く乱れていた。


朝の空気は冷たいはずなのに、胸の内側だけが妙に熱い。


どうか。

どうか間に合って。


その祈りだけが、頭の中で何度も繰り返される。


神殿付属の孤児院は、王都の中でも古い建物だった。


白い壁。

小さな中庭。

背の高くない鐘楼。


朝の光を受ければ本来は穏やかに見える場所のはずなのに、今はどこか色が薄い。


静かすぎた。


子どもが多い場所なら、もっと声がするはずだ。

笑い声。

足音。

誰かを呼ぶ声。


それが、ない。


「止まるな」


ユリスの声が落ちる。


門まで一直線に駆ける。


その途中、ラティアの胸が強くざわついた。


いた。


建物全体に、薄く黒い揺れがかかっている。


ひとつではない。


細い線みたいなものが何本も。

煙のように、糸のように。

建物の窓や扉の隙間へ這い込むみたいにまとわりついている。


「……っ」


思わず足が止まりかける。


「ラティア」


ユリスの声。


はっとする。


「中か」


レオンが短く問う。


ラティアは頷いた。


「いる……でも、いっぱい」


「散ってるってことか」


カイルが弓を構え直す。


「面倒だな」


「でも、まだ間に合うかもしれません」


サラの声は静かだった。


怒りを押し込めたまま、研がれたように冷たい。


「子どもたちを先に外へ出しましょう」


「俺が開ける」


ユリスが門へ手をかける。


鍵は、かかっていなかった。


それだけで嫌な予感がさらに増す。


中庭へ入る。


そこにも子どもの姿はない。


洗濯物が揺れている。

小さな木椅子が倒れている。

今さっきまで人がいたみたいな気配はあるのに、音だけが抜けていた。


「カイル、右を見ろ。

レオンは左だ。

サラはラティアと来い。

見つけたらすぐ呼べ。深入りはするな」


ユリスが即座に言う。


迷いがない。


全員がすぐ動く。


ラティアはサラとともに中央棟へ駆け込んだ。


中は薄暗かった。


廊下に朝の光は差し込んでいるのに、奥へ行くほど空気が重い。


鼻の奥に、焦げたような嫌な匂いが混じる。


「ラティアさん」


サラが静かに呼ぶ。


「気配は?」


ラティアは息を整え、目を閉じた。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吸って、吐く。


リュミが肩口で、小さくまたたく。


「……上」


言った瞬間、自分でも分かる。


二階だ。


子どもの気配。

眠り。

そして、その上に貼りつく黒いもの。


「行きます」


サラが先に駆けた。


階段を上がりきる前に、別の棟から声が響く。


「こっちだ!」


レオンだった。


同時に、カイルの声も飛ぶ。


「見つけた!」


ラティアとサラは顔を見合わせる。


一瞬。


ユリスの判断は、その一瞬より早かった。


「中央だ!」


低い声が廊下に響く。


「全員、礼拝室へ!」


その声で、ばらけかけた気配がひとつに戻る。


ラティアは音のした方へ走った。


礼拝室は孤児院の中心にあった。


小さな祈りの間。

木の長椅子。

古い祭壇。

色褪せた壁画。


その床に、十人ほどの子どもたちが倒れるように眠っていた。


年はばらばらだ。

小さい子も、大きめの子もいる。


眠っている。

でも、普通の眠りじゃない。


顔色が悪い。

眉が寄っている。

うなされるように喉を震わせている子もいる。


そして、その上に。


黒い靄が、低く漂っていた。


「……ひどい」


ラティアの声が掠れる。


一人分じゃない。


昨日の子どもの悪夢みたいなものが、何人分も重なっている。


しかもまだ完全には入り込んでいない。


礼拝室そのものを、眠りごと包もうとしているみたいだった。


「まだ浅い」


サラが即座に言う。


「今なら外せます」


「一気にだな」


カイルが低く言う。


レオンは祭壇の前で床を見ていた。


何かの紋様が、黒く薄く浮いている。


「……術式だ」


その声にははっきり怒りが混じっていた。


「雑だけど、十分悪質だ」


レオンは床の黒い線を睨みながら独り言のようにつぶやく。


「眠らせるのが目的じゃない。

眠ってる間に、残滓を馴染ませるための術式?」


サラが静かに頷く。


「眠りに入り込んで、少しずつ定着させるつもりだったのでしょう」


カイルが低く言う。


「時間が経つと?」


「まとまる」


レオンの返答は短かった。


「礼拝室全体で、ひとつの核になる」


ラティアの背筋が冷たくなる。


眠っているだけじゃない。


このままなら、子どもたちの眠りそのものが黒いものに食われていたのかもしれない。


「解除できるか」


ユリスが問う。


「壊すだけなら」


レオンは答える。


「でも、子どもを巻き込まずにほどくなら、ラティアとサラの方が早い」


ラティアの胸が鳴る。


一人じゃない。


でも、多い。


十人。


もし失敗したら。


その不安が広がりかけた瞬間、サラが静かに言った。


「ラティアさん、全部を一度に抱えなくて大丈夫です」


その声はやわらかい。


でも芯がある。


「眠りを壊さず、表面に貼りついているものだけをほどきましょう。

私が支えます」


レオンも短く言う。


「術式の流れは俺が切る」


カイルが弓を引いた。


「浮いたら落とす」


ユリスは礼拝室の入口に立つ。


「やれる」


短い。

でも、それは突き放す声ではなかった。


ラティアは子どもたちを見た。


小さな寝息。

苦しそうな顔。

揺れる黒い影。


昨日の母親の言葉がまたよぎる。


何かの巡り合わせ。


そんなきれいな言葉にしたくはない。


でも、それでも。


今ここに来たことに意味があってほしいと思った。


(どうか)


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


呼吸を整える。


(どうか、間に合って)


ラティアは礼拝室の中央へ進んだ。


床に膝をつく。


両手をそっと前に出す。


指先に、淡い金色の光が灯った。


リュミがふわりと舞い上がり、その光に寄り添う。


「……助ける」


小さな声。


でも、今度は震えなかった。


光が広がる。


やわらかく、薄く、朝霧みたいに。


礼拝室全体へ行き渡るように。


子どもたちひとりひとりの呼吸に、そっと触れるように。


「……っ」


数人の子が同時に眉を寄せる。


黒い靄が揺れる。


嫌がるみたいに、低く這う。


サラの祈りが重なる。


白い光が、ラティアの金を支える。


床に浮いていた黒い術式の線が、じり、と焼けるように歪んだ。


「今、切る!」


レオンの指先から光が走る。


細い魔法陣が何重にも浮かび、床の黒い線へ食い込んだ。


「……っ、しぶといな」


珍しく余裕のない声。


術式はすぐには切れない。


黒い靄が一気に持ち上がる。


「来るぞ!」


カイルの声と同時に、矢が走る。


バチッ、と雷が弾ける。


礼拝室の上方へ集まりかけた靄の一部が裂ける。


だが全部は止まらない。


その瞬間だった。


ラティアの背筋を、鋭い冷たさが貫いた。


「……まだいる」


思わず零れた声に、レオンが顔を上げる。


「何?」


ラティアの目は、床の術式ではなく、その“先”を見ていた。


見えないはずの先。

けれど確かに、誰かが繋いでいる。


礼拝室の外でもない。

この場でもない。

もっと遠く。


術式の向こう側で、子どもたちを沈めたまま様子をうかがっている気配。


ぞっとするほど冷たい。


「……子どもたちだけじゃない」


ラティアの声が揺れる。


「これ、向こうにまだ……!」


そこで言葉が切れた。


胸の奥で、何かが一気にせり上がる。


助けたい。

止めたい。

こんなことをしたものを、そのままにしたくない。


その感情に魔力が応えた。


ぶわっ、と。


礼拝室の空気が一気に震える。


金色の光が膨れ上がる。


「ラティア!」


レオンの声。


けれど、もう遠い。


「落ち着いて!」


サラの声も聞こえる。

聞こえるのに、意味まで届かない。


世界の輪郭が少しずつ薄くなる。


子どもたちの苦しそうな呼吸。

床に絡みつく黒い線。

その向こうで息を潜める冷たい気配。


それだけが、異様にはっきりしていた。


礼拝室の空気が歪む。


リュミの光が大きく揺れ、ラティアのまわりを何度も巡る。


金色の光が床を舐めるように広がり、子どもたちを包みながら、同時に一本の鋭い線となって術式の向こうへ伸びていく。


「違う……!」


サラの息を呑む気配。


「これ、暴走では――」


「いや!」


レオンの声が切迫する。


「子どもを守るのと、向こうを焼くのが同時に走ってる!」


「まずい!」


カイルが叫ぶ。


「このままだと全部持っていくぞ!」


その瞬間、金色の光がさらに脈打つ。


礼拝室の空気が、内側から一気に押し広げられた。


びしっ、と鋭い音が走る。


窓ガラスにひびが入り、次の瞬間、何枚かが耐えきれず砕けた。


風圧のような衝撃が室内を駆け抜ける。


カーテンが大きくはためき、床の埃が巻き上がり、長椅子の影まで揺れた。


子どもたちを包む光まで強くなりすぎて、白い頬や髪が金色に透ける。


でも、その声も遠かった。


ラティアの意識は、もう半分、礼拝室の中にない。


見えているのは、眠る子どもたちの上にかかった黒いもの。

その根。

その先。

繋がっている先にいる“誰か”。


冷たい。

嫌だ。

消したい。


その瞬間、今度の声は低かった。


鋭く、真っ直ぐだった。


「ラティア!」


ユリスだった。


「こっちを見ろ!」


けれど、それすら最初は届かない。


ラティアの視界の中では、まだ“向こう側”の気配だけが濃い。


あと少し。


そこまで届けば、消せる。


そう思った。


その瞬間――


強い力で引き寄せられた。


ぐらりと揺れた視界の中、ユリスの腕がラティアの肩と背をまとめて抱き込む。


暴れかけた魔力ごと、逃がさないみたいに。


熱。


固い胸板。


現実の温度が、そこで初めて戻る。


「全部やろうとするな」


低い声が、すぐ耳元で落ちた。


「子供たちを守れ」


その言葉が、胸の奥へ鋭く刺さる。


全部。


そうだ。


自分は今、子どもたちも、向こうの誰かも、まとめて呑み込もうとしていた。


ラティアの息が詰まる。


その一瞬で、暴れかけていた魔力の流れが少し変わる。


子どもたちを包む光はそのままに。

術式の先へ伸びた光だけが、鋭く一点へ収束する。


「……浄化か」


レオンが息を呑む。


「いや、半分は攻撃だ」


カイルの声が低くなる。


その次の瞬間。


見えない向こう側で、何かが裂けた。


悲鳴ではない。

でも、人の喉が潰れるみたいな、短いくぐもった音が確かに響いた。


礼拝室の全員が凍りつく。


繋がっていた黒い術式が、一気に切れる。


バチン、と。


何かが無理やり引きちぎられたみたいに。


ラティアの光が大きく揺れる。


サラがすぐに祈りを重ねた。


「ラティアさん、戻して!」


白い光が、膨れすぎた金色を包む。


「呼吸を!」


ユリスの手がまだ離れない。


「ひとつ。ふたつ。みっつだ」


その声に、ラティアははっとする。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吸って、吐く。


吸って、吐く。


膨れ上がっていた光が、少しずつ静まる。


礼拝室を満たしていた金色が、今度こそやわらかく子どもたちだけを包み直した。


黒い靄が、最後の影まで剥がれる。


「今!」


カイルの矢が飛ぶ。


レオンの魔法陣が重なる。


ユリスの剣が閃く。


残った術式の核が砕けた。


静寂。


礼拝室に、ようやく本当の朝の光が差し込んだ気がした。


ラティアはその場で肩を上下させる。


自分の手が、まだ少し震えていた。


「……今の」


レオンが低く言う。


その顔は青ざめている。

けれど目だけは冴えていた。


「届いた」


サラも息を整えながら、静かに頷く。


「ええ。術式の先へ」


カイルが舌打ちする。


「逃がしたが、無傷じゃねえな」


ユリスの腕は、まだラティアを抱き留めたままだった。


すぐには離れない。


ラティアの呼吸が落ち着いてきたのを確かめるみたいに、ほんの一瞬だけそのまま支えて――


「……はぁ」


低く、押し殺すような息が落ちる。


それは安堵にも、張りつめていた緊張がほどけた音にも聞こえた。


ユリスはそこでようやく腕の力を少し緩めた。


「もう一度、呼吸」


ラティアは小さく頷く。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


今度はちゃんと、自分で整えられる。


その間に、サラが子どもたちの様子を見て回る。


「……大丈夫です」


静かに告げる。


「全員、生きています。

眠りも浅くなっています」


その言葉で、ラティアの肩から力が抜けた。


間に合った。


でも同時に、胸の奥には別の感覚が残っていた。


さっき、確かに届いた。


礼拝室の外でも、孤児院の中でもない、もっと遠くにいた“誰か”へ。


そして、その相手は死んでいない。


けれど、無事でもない。


「傷を負ったはずだ」


レオンが低く言う。


「浅くない。

今ので接続が切れたなら、向こうもかなり食らってる」


カイルが口元を歪めた。


「ざまあみろ、だな」


サラの表情は冷えたままだった。


「ええ。少なくとも、もう同じ形では仕掛けにくくなったでしょう」


ラティアは自分の指先を見る。


今さら手が震えはじめた。


守ろうとした。

でも同時に、消したいとも思った。


その二つが混ざった。


それが少し怖い。


けれど。


子どもたちが助かったのも、本当だった。


その時、礼拝室の隅で、小さな女の子がラティアを見上げた。


眠そうな目のまま、かすれた声で言う。


「……ひかり、いた」


ラティアは目を瞬く。


女の子は小さな指で、ラティアの肩口を指した。


そこでは、リュミがやわらかく揺れていた。


「こわいの、なくなった?」


その一言に、ラティアの胸がぎゅっと鳴る。


「……うん」


小さく頷く。


「もう、だいじょうぶ」


女の子は安心したみたいに、ふにゃりと笑った。


その笑顔を見た瞬間、ラティアはようやく、自分の中の強張りがほどけていくのを感じた。


どうか間に合って。


そう祈った気持ちは、無駄ではなかった。


でも――


今度は、向こうもこちらを知った。


その実感が、壊れた術式の残り香みたいに、礼拝室の中にまだ残っていた。

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