54
翌朝。
王都の空気は、晴れているのにどこか重かった。
神殿を出た一行は、まだ人通りの少ない通りを進んでいた。
昨日のうちに話を通してあったらしく、封鎖区画へ向かう許可はすでに下りている。
レオンが先を歩く。
いつもより少しだけ口数が少ない。
手には古地図と簡略な見取り図を重ねた紙束。
視線はまっすぐ前を向いているが、その頭の中ではずっと線と記録を繋いでいるのだと分かる。
「封鎖区画って、どんなところなの?」
ラティアが小さく聞くと、レオンは歩調を緩めずに答えた。
「昔の礼拝堂とか、使われなくなった管理施設とか、古い結界設備の跡がある場所。
今は神殿と魔導院が共同で管理してるけど、普段はほとんど人が入らない」
「入らねえ場所ほど、ろくなことになってねえんだよな」
カイルが肩越しに言う。
「掃除もしねえ、目も届かねえ、けど昔のもんだけは残ってる」
サラも静かに頷いた。
「こういう場所は、浄化が追いつかなくなりやすいですね」
ラティアは前を見た。
高い石壁の向こう、王都の中心から少し外れた一角。
人気の少ないその方角を見ているだけで、胸の奥が少しざわつく。
昨日、地図の上で感じた“澱み”。
そこへ向かっているのだと思うと、足元が少しだけ冷える。
そのときだった。
「ラティア」
低い声。
ユリスが振り返らずに呼ぶ。
「息」
ラティアははっとする。
また浅くなっていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吸って、吐く。
守り紐に触れると、指先が少しだけ落ち着いた。
「……うん」
ユリスはそれ以上何も言わない。
でも、そのまま歩調をほんの少しだけ落とした。
それだけで、ラティアは自分が置いていかれていないと分かる。
やがて一行は、封鎖区画の入口にたどり着いた。
鉄の柵。
古い石門。
立ち入りを制限する印章。
神殿騎士と魔導院の管理官がひとりずつ待っていた。
レオンが書状を見せると、管理官はすぐに頷く。
「中の巡回は今朝済ませましたが、異常は確認できていません」
「確認できてないのが一番嫌なんだよな」
カイルがぼそりと呟く。
「古水路跡の周辺は?」
レオンが聞く。
「一応封鎖はされています。
ただ、建物自体は老朽化が激しく……近づく際はお気をつけください」
神殿騎士が低く付け足す。
「礼拝堂跡の地下へ続く通路は、半分埋まっています。
深入りはおすすめしません」
「必要なら入る」
ユリスの返答は短かった。
柵が開かれる。
中へ一歩足を踏み入れた瞬間、王都の喧騒がひどく遠くなった。
空気が違う。
建物はどれも古く、石の表面は風雨で削れ、白かったはずの壁は薄く灰色がかっている。
使われなくなった回廊。
枯れた噴水。
半ば崩れた礼拝堂の尖塔。
静かすぎて、息を潜めた場所みたいだった。
「……嫌な感じは?」
サラがラティアへ静かに問う。
ラティアは目を閉じて、少しだけ呼吸を整えた。
風はある。
朝の冷たさもある。
けれど、昨日地図の上で感じた“澱み”ほど、はっきりしたものはない。
「……薄い」
そう答える。
「でも、ないわけじゃない」
レオンが古地図を開いた。
「礼拝堂跡の真下に古水路が通ってたはずなんだ。
たまるなら、その交点が一番怪しい」
カイルは周囲の建物を見回している。
「罠っぽいもんは?」
「今のところは」
管理官が答える。
「ただし、封鎖区画の外れにある古い管理棟は、昨夜から鍵が外れていた形跡があります」
全員の空気が変わる。
「昨夜?」
レオンが眉を寄せる。
「報告は受けてない」
声は低い。
抑えられている。
けれどその瞬間、空気が重く沈んだ。
怒鳴りも責めもしない。
それなのに、そこにいた管理官が思わず背筋を伸ばすほど、物騒な圧だけが落ちる。
「今朝、巡回時に気づきました。
中に人の気配はありませんでしたが……」
カイルが口元だけで笑った。
「入ってるやつはいるな」
「……行くぞ」
ユリスが言う。
一拍も置かない。
空気が重くなるより先に、もう次の行動へ切り替わっている。
一行は管理棟へ向かった。
崩れかけた石段を上がり、半分外れた扉を押し開ける。
中は暗く、乾いた埃の匂いがした。
机。
棚。
割れたガラス。
壁一面の古い図面。
何年も使われていないはずの場所だ。
なのに。
「新しい」
レオンがしゃがみこんで床を見る。
「靴跡」
ラティアも息を呑む。
床の埃が、一部だけ不自然に乱れている。
カイルが窓辺へ寄る。
「二人分……いや、三人か」
「複数ですね」
サラの声も低い。
ラティアの胸が強く鳴る。
ここへ誰かが来ている。
異変は自然発生じゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「こっち」
レオンが奥の扉へ手をかける。
その先は細い階段だった。
地下へ続いている。
空気が一気に冷たくなる。
ラティアは一歩降りたところで、思わず足を止めた。
「……ない」
「何がだ」
ユリスが問う。
ラティアは地下の暗がりを見つめた。
昨日感じた“澱み”が、ここにはない。
あると思っていた。
ここが中心だと思っていた。
でも違う。
「ここじゃない」
その声が思ったより大きく響いた。
全員が止まる。
レオンが振り返る。
「ラティア?」
「薄い……でも、違う」
うまく言葉にできない。
「ここ、跡はある。
でも、昨日の地図で感じたのとは違う」
カイルが床を見回し、低く息を吐いた。
「痕跡はある」
靴跡。
外された鍵。
地下へ続く通路。
どれも“何かがいた”証拠には見える。
けれど。
「ありすぎるな」
その一言に、空気が少し張る。
サラが静かに周囲を見渡した。
「……ええ」
割れたガラス。
乱れた埃。
奥へ続く導線。
「隠す気がないように見えます」
レオンの目が細まる。
「見つけさせるため、みたいだ」
その言葉が落ちた瞬間、カイルが低く舌打ちした。
「……違うな」
鋭い目が地下の暗がりを睨む。
「外れたんじゃねえ」
声は低く、はっきりしていた。
「外された」
部屋の空気が、一気に冷たくなる。
サラの目もすっと細まった。
「囮、ですね」
その声は静かだった。
けれど、その静けさの奥に怒りがあった。
「子どもや病人だけでなく、こちらの動きまで利用するなんて……」
言葉尻はやわらかいのに、その怒りははっきりしている。
レオンの顔色が変わった。
「……いや」
手元の地図を見る。
古水路。
交点。
管理棟。
全部、筋は通っている。
でも筋が通りすぎていた。
「誘導された」
その一言に、ラティアの胸がひやりと冷えた。
自分たちは先回りしていたつもりだった。
でも、向こうがそれを知っていたら?
「どこだ」
ユリスの声は低く、短い。
もう“外された”こと自体に足を取られていない。
次を取る声だった。
レオンは紙をめくる。
指先が少し荒い。
焦っているのが分かる。
「待って。
ここじゃないなら、流れの先じゃなくて……逆だ」
「逆?」
「ここを溜まり場にする気じゃない。吐き出す先を選んだのかも」
カイルが目を細める。
「人がいるところか」
「そう」
レオンの視線が地図の別の一点で止まる。
昨日は重視しなかった、小さな印。
古水路の終端近く。
封鎖区画から少し離れた、今も使われている場所。
「……孤児院」
サラが息を呑む。
「神殿付属の」
その瞬間、ラティアの胸が大きく脈打った。
子ども。
昨日の悪夢の子どもが頭をよぎる。
そして、昨夜の母親の言葉まで浮かぶ。
――何かの巡り合わせだったのかもしれません。
胸の奥がぎゅっと締まる。
巡り合わせなんて言葉を、今は信じたいわけじゃない。
でも、それでも。
(どうか)
思わず、そう祈っていた。
(どうか、間に合って)
「行くぞ」
ユリスが即座に言った。
階段を引き返す。
判断が早い。
誰よりも早く、迷いなく次へ切り替えている。
レオンも地図を丸める。
いつもの余裕はもうない。
「俺のせいだ」
小さく零れた声は、自分に向けたものだった。
ラティアは思わず顔を上げる。
レオンは前を向いたまま、唇を噛んでいる。
「ここだと思った。
補修線も、古水路も、全部筋が通ってたのに……」
「今それ言ってる場合じゃねえ」
カイルが即座に切る。
ためらいがない。
切り替える声だった。
「取り返す方が先だ」
サラも頷く。
その目は静かに鋭い。
「ええ。まだ間に合います。
間に合わせましょう」
ラティアは何も言えない。
レオンを責める気持ちはなかった。
でも、嫌な予感だけがどんどん膨らんでいく。
もし遅れたら。
もし今度は“浅い”では済まなかったら。
足が速くなる。
封鎖区画を抜ける頃には、王都の空気がもう違って感じた。
さっきまで静かだった世界が、今はひどく騒がしいものに思える。
人がいる場所へ。
子どもがいる場所へ。
そこへ何かが流れ込もうとしている。
「ラティア」
走るような足取りの中で、ユリスの声が落ちる。
「前を見ろ」
はっとする。
不安に飲まれかけていた。
呼吸。
足元。
守り紐。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吸って、吐く。
「……うん」
それだけで、完全じゃなくても少し戻る。
レオンが前方を睨んだまま言う。
「孤児院には結界が薄い。
子どもも多い。
もし狙うなら、最悪の場所だ」
「だから外されたんだろ」
カイルが低く答える。
「こっちが封鎖区画に食いつくのを見越して」
「だったら」
サラの声も張りつめていた。
「もう、ただの残滓ではありません」
誰かがいる。
意図がある。
その気配が、ようやくはっきり形を持ちはじめていた。
遠くに、孤児院の尖塔が見える。
朝の光の中で白く立っているはずなのに、今はなぜかそこだけ色が薄く見えた。
ラティアの胸がざわつく。
嫌な感じが、今度ははっきりある。
流れている。
あそこへ向かって。
(どうか)
もう一度、胸の奥で祈る。
(どうか、間に合って)
「急げ」
ユリスの声で、一行は一気に速度を上げた。
先回りしたつもりだった。
けれど、外された。
その現実だけが、胸の中で重く沈む。
それでも、まだ終わりではない。
間に合うかもしれない。
そう信じるしかなかった。




