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翌朝。


王都の空気は、晴れているのにどこか重かった。


神殿を出た一行は、まだ人通りの少ない通りを進んでいた。

昨日のうちに話を通してあったらしく、封鎖区画へ向かう許可はすでに下りている。


レオンが先を歩く。


いつもより少しだけ口数が少ない。


手には古地図と簡略な見取り図を重ねた紙束。

視線はまっすぐ前を向いているが、その頭の中ではずっと線と記録を繋いでいるのだと分かる。


「封鎖区画って、どんなところなの?」


ラティアが小さく聞くと、レオンは歩調を緩めずに答えた。


「昔の礼拝堂とか、使われなくなった管理施設とか、古い結界設備の跡がある場所。

今は神殿と魔導院が共同で管理してるけど、普段はほとんど人が入らない」


「入らねえ場所ほど、ろくなことになってねえんだよな」


カイルが肩越しに言う。


「掃除もしねえ、目も届かねえ、けど昔のもんだけは残ってる」


サラも静かに頷いた。


「こういう場所は、浄化が追いつかなくなりやすいですね」


ラティアは前を見た。


高い石壁の向こう、王都の中心から少し外れた一角。

人気の少ないその方角を見ているだけで、胸の奥が少しざわつく。


昨日、地図の上で感じた“澱み”。


そこへ向かっているのだと思うと、足元が少しだけ冷える。


そのときだった。


「ラティア」


低い声。


ユリスが振り返らずに呼ぶ。


「息」


ラティアははっとする。


また浅くなっていた。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吸って、吐く。


守り紐に触れると、指先が少しだけ落ち着いた。


「……うん」


ユリスはそれ以上何も言わない。


でも、そのまま歩調をほんの少しだけ落とした。


それだけで、ラティアは自分が置いていかれていないと分かる。


やがて一行は、封鎖区画の入口にたどり着いた。


鉄の柵。

古い石門。

立ち入りを制限する印章。


神殿騎士と魔導院の管理官がひとりずつ待っていた。


レオンが書状を見せると、管理官はすぐに頷く。


「中の巡回は今朝済ませましたが、異常は確認できていません」


「確認できてないのが一番嫌なんだよな」


カイルがぼそりと呟く。


「古水路跡の周辺は?」


レオンが聞く。


「一応封鎖はされています。

ただ、建物自体は老朽化が激しく……近づく際はお気をつけください」


神殿騎士が低く付け足す。


「礼拝堂跡の地下へ続く通路は、半分埋まっています。

深入りはおすすめしません」


「必要なら入る」


ユリスの返答は短かった。


柵が開かれる。


中へ一歩足を踏み入れた瞬間、王都の喧騒がひどく遠くなった。


空気が違う。


建物はどれも古く、石の表面は風雨で削れ、白かったはずの壁は薄く灰色がかっている。

使われなくなった回廊。

枯れた噴水。

半ば崩れた礼拝堂の尖塔。


静かすぎて、息を潜めた場所みたいだった。


「……嫌な感じは?」


サラがラティアへ静かに問う。


ラティアは目を閉じて、少しだけ呼吸を整えた。


風はある。

朝の冷たさもある。

けれど、昨日地図の上で感じた“澱み”ほど、はっきりしたものはない。


「……薄い」


そう答える。


「でも、ないわけじゃない」


レオンが古地図を開いた。


「礼拝堂跡の真下に古水路が通ってたはずなんだ。

たまるなら、その交点が一番怪しい」


カイルは周囲の建物を見回している。


「罠っぽいもんは?」


「今のところは」


管理官が答える。


「ただし、封鎖区画の外れにある古い管理棟は、昨夜から鍵が外れていた形跡があります」


全員の空気が変わる。


「昨夜?」


レオンが眉を寄せる。


「報告は受けてない」


声は低い。

抑えられている。

けれどその瞬間、空気が重く沈んだ。


怒鳴りも責めもしない。

それなのに、そこにいた管理官が思わず背筋を伸ばすほど、物騒な圧だけが落ちる。


「今朝、巡回時に気づきました。

中に人の気配はありませんでしたが……」


カイルが口元だけで笑った。


「入ってるやつはいるな」


「……行くぞ」


ユリスが言う。


一拍も置かない。


空気が重くなるより先に、もう次の行動へ切り替わっている。


一行は管理棟へ向かった。


崩れかけた石段を上がり、半分外れた扉を押し開ける。


中は暗く、乾いた埃の匂いがした。

机。

棚。

割れたガラス。

壁一面の古い図面。


何年も使われていないはずの場所だ。


なのに。


「新しい」


レオンがしゃがみこんで床を見る。


「靴跡」


ラティアも息を呑む。


床の埃が、一部だけ不自然に乱れている。


カイルが窓辺へ寄る。


「二人分……いや、三人か」


「複数ですね」


サラの声も低い。


ラティアの胸が強く鳴る。


ここへ誰かが来ている。


異変は自然発生じゃないのかもしれない。

そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「こっち」


レオンが奥の扉へ手をかける。


その先は細い階段だった。


地下へ続いている。


空気が一気に冷たくなる。


ラティアは一歩降りたところで、思わず足を止めた。


「……ない」


「何がだ」


ユリスが問う。


ラティアは地下の暗がりを見つめた。


昨日感じた“澱み”が、ここにはない。


あると思っていた。

ここが中心だと思っていた。


でも違う。


「ここじゃない」


その声が思ったより大きく響いた。


全員が止まる。


レオンが振り返る。


「ラティア?」


「薄い……でも、違う」


うまく言葉にできない。


「ここ、跡はある。

でも、昨日の地図で感じたのとは違う」


カイルが床を見回し、低く息を吐いた。


「痕跡はある」


靴跡。

外された鍵。

地下へ続く通路。


どれも“何かがいた”証拠には見える。


けれど。


「ありすぎるな」


その一言に、空気が少し張る。


サラが静かに周囲を見渡した。


「……ええ」


割れたガラス。

乱れた埃。

奥へ続く導線。


「隠す気がないように見えます」


レオンの目が細まる。


「見つけさせるため、みたいだ」


その言葉が落ちた瞬間、カイルが低く舌打ちした。


「……違うな」


鋭い目が地下の暗がりを睨む。


「外れたんじゃねえ」


声は低く、はっきりしていた。


「外された」


部屋の空気が、一気に冷たくなる。


サラの目もすっと細まった。


「囮、ですね」


その声は静かだった。


けれど、その静けさの奥に怒りがあった。


「子どもや病人だけでなく、こちらの動きまで利用するなんて……」


言葉尻はやわらかいのに、その怒りははっきりしている。


レオンの顔色が変わった。


「……いや」


手元の地図を見る。


古水路。

交点。

管理棟。

全部、筋は通っている。


でも筋が通りすぎていた。


「誘導された」


その一言に、ラティアの胸がひやりと冷えた。


自分たちは先回りしていたつもりだった。

でも、向こうがそれを知っていたら?


「どこだ」


ユリスの声は低く、短い。


もう“外された”こと自体に足を取られていない。

次を取る声だった。


レオンは紙をめくる。


指先が少し荒い。


焦っているのが分かる。


「待って。

ここじゃないなら、流れの先じゃなくて……逆だ」


「逆?」


「ここを溜まり場にする気じゃない。吐き出す先を選んだのかも」


カイルが目を細める。


「人がいるところか」


「そう」


レオンの視線が地図の別の一点で止まる。


昨日は重視しなかった、小さな印。


古水路の終端近く。

封鎖区画から少し離れた、今も使われている場所。


「……孤児院」


サラが息を呑む。


「神殿付属の」


その瞬間、ラティアの胸が大きく脈打った。


子ども。


昨日の悪夢の子どもが頭をよぎる。


そして、昨夜の母親の言葉まで浮かぶ。


――何かの巡り合わせだったのかもしれません。


胸の奥がぎゅっと締まる。


巡り合わせなんて言葉を、今は信じたいわけじゃない。


でも、それでも。


(どうか)


思わず、そう祈っていた。


(どうか、間に合って)


「行くぞ」


ユリスが即座に言った。


階段を引き返す。


判断が早い。

誰よりも早く、迷いなく次へ切り替えている。


レオンも地図を丸める。


いつもの余裕はもうない。


「俺のせいだ」


小さく零れた声は、自分に向けたものだった。


ラティアは思わず顔を上げる。


レオンは前を向いたまま、唇を噛んでいる。


「ここだと思った。

補修線も、古水路も、全部筋が通ってたのに……」


「今それ言ってる場合じゃねえ」


カイルが即座に切る。


ためらいがない。


切り替える声だった。


「取り返す方が先だ」


サラも頷く。


その目は静かに鋭い。


「ええ。まだ間に合います。

間に合わせましょう」


ラティアは何も言えない。


レオンを責める気持ちはなかった。

でも、嫌な予感だけがどんどん膨らんでいく。


もし遅れたら。


もし今度は“浅い”では済まなかったら。


足が速くなる。


封鎖区画を抜ける頃には、王都の空気がもう違って感じた。


さっきまで静かだった世界が、今はひどく騒がしいものに思える。


人がいる場所へ。

子どもがいる場所へ。

そこへ何かが流れ込もうとしている。


「ラティア」


走るような足取りの中で、ユリスの声が落ちる。


「前を見ろ」


はっとする。


不安に飲まれかけていた。


呼吸。

足元。

守り紐。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吸って、吐く。


「……うん」


それだけで、完全じゃなくても少し戻る。


レオンが前方を睨んだまま言う。


「孤児院には結界が薄い。

子どもも多い。

もし狙うなら、最悪の場所だ」


「だから外されたんだろ」


カイルが低く答える。


「こっちが封鎖区画に食いつくのを見越して」


「だったら」


サラの声も張りつめていた。


「もう、ただの残滓ではありません」


誰かがいる。


意図がある。


その気配が、ようやくはっきり形を持ちはじめていた。


遠くに、孤児院の尖塔が見える。


朝の光の中で白く立っているはずなのに、今はなぜかそこだけ色が薄く見えた。


ラティアの胸がざわつく。


嫌な感じが、今度ははっきりある。


流れている。


あそこへ向かって。


(どうか)


もう一度、胸の奥で祈る。


(どうか、間に合って)


「急げ」


ユリスの声で、一行は一気に速度を上げた。


先回りしたつもりだった。


けれど、外された。


その現実だけが、胸の中で重く沈む。


それでも、まだ終わりではない。


間に合うかもしれない。


そう信じるしかなかった。


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