53
夜の神殿は、昼間よりさらに静かだった。
白い回廊には灯りが落とされ、壁に掛けられた燭台の火がゆらゆらと揺れている。
外の王都にはまだ人の気配があるはずなのに、ここだけが切り離されたみたいにひっそりとしていた。
控えの間へ戻ると、すでにエドガルド補佐と数人の神官が待っていた。
机の上には、新しく地図と書簡が並べられている。
神殿の印が入ったもの。
魔導院の記録らしい細かな報告書。
そして、王都全体を描いた大きな見取り図。
ただの地図ではなかった。
羊皮紙の上には、街路や区画だけでなく、淡い光の線が幾重にも重なっている。
白、青、薄い金。
細い糸のようなそれらは、王都の下を流れる結界と魔力の道筋を表していた。
しかも、ただ描かれているのではない。
かすかに、脈を打つように明滅している。
生き物の呼吸みたいに、ゆっくりと。
王都そのものが静かに息をしているようだった。
ラティアは思わず目を止める。
「……これ」
レオンが地図の端を押さえながら答えた。
「魔導院の観測地図。
結界線と魔力の流れを、今の状態に近い形で写したものだよ」
「こんなものがあるのですね」
サラが静かに目を細める。
「簡易版だけどね」
レオンは言う。
「リアルタイムに近い流れを見るためのもの。
乱れや停滞があると、線の濃さや重なり方が変わる」
「お待ちしておりました」
エドガルド補佐が一礼する。
「下町の件も、ひとまず落ち着いたと聞いております」
「眠った」
ユリスが短く答えた。
「残滓は消えました」
サラが補足する。
「温室の件と同様、浅い段階でした」
「浅い、か……」
補佐はそう繰り返して、机の上の地図へ目を落とした。
「では、やはり門前の件だけが特別重かったのですね」
「重かったっていうより、進んでたんだと思う」
レオンがそう言って机へ近づく。
いつもの軽さはまだ声に残っている。
けれど、目はもう仕事の顔だった。
「温室も下町も、出方が似てる。
でも門前の令嬢の時だけ、残滓がもっと深く食い込んでた」
カイルが腕を組む。
「時間差か、場所の違いか、狙われ方の差か」
「あるいはその全部、ですね」
サラが静かに言った。
ラティアは部屋の隅に立ちながら、机の上の地図を見ていた。
昼間も見た地図だ。
でも、今は前よりも嫌な感じがはっきりしている。
門前。
温室。
下町の仕立て屋。
魔導院の観測石。
点として置かれた印が、ただの印には見えない。
何かが流れている。
細く、暗く、でも確かに。
「ラティア」
補佐の声で、はっとする。
「あなたにも見ていただきたいのです」
少し躊躇ってから、ラティアは机に近づいた。
すぐ隣に、サラがさりげなく立つ。
その後ろ寄りにカイル。
レオンは反対側から地図を押さえている。
ユリスは少し離れていたが、ラティアが立ち位置を決めるまで待ってから、静かにその後方へ回った。
逃げ道を塞がない。
でも、背後が無防備にならない位置だった。
それだけで少し呼吸がしやすい。
エドガルド補佐が細い指で地図の上をなぞる。
「これが神殿で把握していた三件。
ここに門前の件を加えます」
小さな赤い印が、ひとつ、またひとつと置かれる。
「そしてこちらが、魔導院側から報告された結界観測の乱れ」
今度は青い印。
レオンがその脇に、補助線の位置を細く書き足していく。
「この観測石は外縁結界の補助線と繋がってる。
温室のそばを通る流れと、南区側の末端がここで交差してる」
「交差?」
ラティアが小さく呟く。
レオンは頷いた。
「王都の結界って、ひとつの大きな壁っていうより、細い流れの束なんだよ。
重なって、支え合って、網みたいになってる」
「その網の弱いところを、何かが通ってるってことか」
カイルが言う。
「たぶん」
レオンの返事は短い。
サラが手元の記録をめくる。
「神殿記録でも、古い結界線の継ぎ目は定期的な浄化が必要とされています。
ただ、ここ数年は大きな異常がなかったため、点検頻度は下がっていたようです」
「魔導院も同じだな」
レオンが口元を少しだけ歪める。
「補修申請だけ出て、先送りになってた箇所がある」
「それが今、表に出てきてるんだろうな」
カイルが地図を見る目を細める。
部屋は静かだった。
紙の擦れる音と、灯りの火が揺れる気配だけがある。
その中で、ラティアは地図を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
普通の道や区画ではなく、淡く光る線の方が目に入る。
白い流れ。
青い流れ。
細く重なり、ほどけ、また別の線へ移っていく魔力の道筋。
流れている。
巡っている。
脈を打っている。
でも、その一部だけが妙に引っかかった。
そこだけ、呼吸を忘れたみたいに鈍い。
「……これ」
思わず声が零れる。
全員の視線が向く。
ラティアは少しだけためらってから、地図の一箇所を指さした。
中央区画から少し外れた、白と青の線が重なる場所。
そこだけ、流れがよどんで見えた。
「ここ、変」
レオンがすぐ身を乗り出す。
「ここ?」
「……うん」
ラティアは眉を寄せる。
「流れてる線の中で、ここだけ止まりかけてる感じがする」
指先が少しだけ震える。
「通ってるのに、抜けてない。
引っかかって、溜まってるみたい」
エドガルド補佐が目を細める。
「溜まっている」
「ええと……」
ラティアは言葉を探す。
「そこだけ、息が詰まるみたいな感じがする」
「澱みか」
サラが小さく呟いた。
「そういうことかもしれません」
レオンが別の羊皮紙を引き寄せる。
そこには王都の古い区画図らしいものが描かれていた。
今の街並みとは少し違う。
消えた道。
埋められた水路。
封鎖と書かれた印。
「……ああ」
レオンの目が変わる。
「何だ」
ユリスが問う。
レオンは地図を二枚重ねた。
「ここ、昔は水路が通ってた場所だ」
「水路?」
「今は埋められてる。
でも古い結界って、水や風の流れに沿って作ることが多いんだよ」
カイルが低く笑う。
「見えてきたな」
サラも頷く。
「古い流れの名残に、残滓が引っかかっている可能性があります」
「そして、その周辺でだけ人に症状が出る」
エドガルド補佐が静かにまとめる。
「だとすれば……偶然ではありませんね」
偶然ではない。
その言葉が、部屋の空気をひとつ重くした。
ラティアは無意識に守り紐へ触れる。
偶然じゃないなら、誰かがやっているのかもしれない。
あるいは、何かが意図を持って流れているのかもしれない。
見えないものが、王都の下を這っている。
それを思うだけで、背筋に冷たいものが走った。
「門前の件も含めると、もう四件」
サラが言う。
「表に出ていないだけで、他にも軽い異常があるかもしれません」
「あるだろうな」
カイルが即答する。
「家で寝込んで終わってるようなやつが、もっと」
レオンは地図に印を増やしながら言った。
「明日、魔導院でも観測記録を洗い直す。
補助線だけじゃなく、封鎖区画の周辺も」
「神殿でも相談記録を広げましょう」
サラが補佐を見る。
エドガルド補佐は深く頷いた。
「そのように」
それから、ゆっくりラティアへ目を向けた。
「あなたの感覚は、予想以上に重要かもしれません」
その一言に、ラティアの肩が少し強張る。
重要。
それは役に立つという意味だ。
でも同時に、巻き込まれていくという意味にも聞こえた。
「……っ」
息が浅くなりかけた、そのとき。
後ろから、低い声が落ちる。
「考えすぎるな」
ユリスだった。
振り向かなくても分かる距離。
ラティアは小さく息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
それだけで、少し戻る。
エドガルド補佐はその様子を見ても何も言わなかった。
ただ静かに話を進める。
「問題は、この“澱み”が次にどこへ出るかです」
「ここから流れる先を追えばいい」
レオンが古地図の上を指でなぞる。
「古水路の先は、中央区画の外れ……いや、その先、封鎖区画に近い」
「封鎖区画?」
ラティアが小さく繰り返す。
サラが説明するように言った。
「古い礼拝堂や、今は使われていない施設が残る一帯です。
神殿と魔導院の管理が重なっていて、普段はほとんど人が入りません」
「入りません、で済んでりゃいいがな」
カイルが口元だけで笑う。
「こういうのは、誰も見てねえ場所ほど腐りやすい」
レオンが頷いた。
「明日そこを見る」
「許可は?」
ユリスが問う。
エドガルド補佐は迷わず答えた。
「神殿側は私が通します。
魔導院側も、レオン殿がいるなら問題は少ないでしょう」
「じゃあ決まりだね」
レオンはそう言って、ようやく少しだけ息を抜いた。
けれど、その目の奥にはまだ緊張が残っている。
点だった異変が、もう線になっている。
そしてその線は、どこかへ向かっている。
そこまで全員が分かっていた。
「今日は休め」
ユリスがラティアに言う。
短い言い方だった。
でも、それは命令というより、先のために必要なこととして落ちる声だった。
ラティアは小さく頷く。
「……うん」
レオンが地図を巻きながら、ふと視線を向ける。
「君もね」
やわらかい声。
「明日、また無茶されると困る」
「してない」
反射で返してしまう。
レオンが吹き出す。
「それ、もう信じないって言っただろ」
カイルも肩を揺らす。
「そこだけ元気だな」
少しだけ空気が緩む。
でも、そのやわらぎも一瞬だった。
机の上に残る印。
古地図に引かれた線。
“澱み”と呼ばれた一点。
そこに向かって、何かが静かに集まり始めている。
ラティアは地図を見つめたまま、胸の奥に薄い不安を抱えた。
明日、その場所へ行く。
きっとまた怖い。
でも、もう引き返せないところまで来ている気もした。
部屋を出ると、神殿の回廊には夜の静けさが満ちていた。
灯りは少なく、白い石の床に影が細く伸びる。
前を歩くユリスの背中。
少し後ろで何か考え込むレオン。
横で小さく息をつくサラ。
無言で周囲を見るカイル。
それぞれの足音が、静かな廊下に重なる。
ラティアはその真ん中で、そっと守り紐に触れた。
揺れる。
怖い。
でも――
進むしかない。
その先に何があるのかは、まだ見えなかった。




