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夜の神殿は、昼間よりさらに静かだった。


白い回廊には灯りが落とされ、壁に掛けられた燭台の火がゆらゆらと揺れている。

外の王都にはまだ人の気配があるはずなのに、ここだけが切り離されたみたいにひっそりとしていた。


控えの間へ戻ると、すでにエドガルド補佐と数人の神官が待っていた。


机の上には、新しく地図と書簡が並べられている。

神殿の印が入ったもの。

魔導院の記録らしい細かな報告書。

そして、王都全体を描いた大きな見取り図。


ただの地図ではなかった。


羊皮紙の上には、街路や区画だけでなく、淡い光の線が幾重にも重なっている。

白、青、薄い金。


細い糸のようなそれらは、王都の下を流れる結界と魔力の道筋を表していた。


しかも、ただ描かれているのではない。


かすかに、脈を打つように明滅している。


生き物の呼吸みたいに、ゆっくりと。

王都そのものが静かに息をしているようだった。


ラティアは思わず目を止める。


「……これ」


レオンが地図の端を押さえながら答えた。


「魔導院の観測地図。

結界線と魔力の流れを、今の状態に近い形で写したものだよ」


「こんなものがあるのですね」


サラが静かに目を細める。


「簡易版だけどね」


レオンは言う。


「リアルタイムに近い流れを見るためのもの。

乱れや停滞があると、線の濃さや重なり方が変わる」


「お待ちしておりました」


エドガルド補佐が一礼する。


「下町の件も、ひとまず落ち着いたと聞いております」


「眠った」


ユリスが短く答えた。


「残滓は消えました」


サラが補足する。


「温室の件と同様、浅い段階でした」


「浅い、か……」


補佐はそう繰り返して、机の上の地図へ目を落とした。


「では、やはり門前の件だけが特別重かったのですね」


「重かったっていうより、進んでたんだと思う」


レオンがそう言って机へ近づく。


いつもの軽さはまだ声に残っている。

けれど、目はもう仕事の顔だった。


「温室も下町も、出方が似てる。

でも門前の令嬢の時だけ、残滓がもっと深く食い込んでた」


カイルが腕を組む。


「時間差か、場所の違いか、狙われ方の差か」


「あるいはその全部、ですね」


サラが静かに言った。


ラティアは部屋の隅に立ちながら、机の上の地図を見ていた。


昼間も見た地図だ。


でも、今は前よりも嫌な感じがはっきりしている。


門前。

温室。

下町の仕立て屋。

魔導院の観測石。


点として置かれた印が、ただの印には見えない。


何かが流れている。


細く、暗く、でも確かに。


「ラティア」


補佐の声で、はっとする。


「あなたにも見ていただきたいのです」


少し躊躇ってから、ラティアは机に近づいた。


すぐ隣に、サラがさりげなく立つ。

その後ろ寄りにカイル。

レオンは反対側から地図を押さえている。


ユリスは少し離れていたが、ラティアが立ち位置を決めるまで待ってから、静かにその後方へ回った。


逃げ道を塞がない。

でも、背後が無防備にならない位置だった。


それだけで少し呼吸がしやすい。


エドガルド補佐が細い指で地図の上をなぞる。


「これが神殿で把握していた三件。

ここに門前の件を加えます」


小さな赤い印が、ひとつ、またひとつと置かれる。


「そしてこちらが、魔導院側から報告された結界観測の乱れ」


今度は青い印。


レオンがその脇に、補助線の位置を細く書き足していく。


「この観測石は外縁結界の補助線と繋がってる。

温室のそばを通る流れと、南区側の末端がここで交差してる」


「交差?」


ラティアが小さく呟く。


レオンは頷いた。


「王都の結界って、ひとつの大きな壁っていうより、細い流れの束なんだよ。

重なって、支え合って、網みたいになってる」


「その網の弱いところを、何かが通ってるってことか」


カイルが言う。


「たぶん」


レオンの返事は短い。


サラが手元の記録をめくる。


「神殿記録でも、古い結界線の継ぎ目は定期的な浄化が必要とされています。

ただ、ここ数年は大きな異常がなかったため、点検頻度は下がっていたようです」


「魔導院も同じだな」


レオンが口元を少しだけ歪める。


「補修申請だけ出て、先送りになってた箇所がある」


「それが今、表に出てきてるんだろうな」


カイルが地図を見る目を細める。


部屋は静かだった。


紙の擦れる音と、灯りの火が揺れる気配だけがある。


その中で、ラティアは地図を見つめたまま、小さく息を呑んだ。


普通の道や区画ではなく、淡く光る線の方が目に入る。


白い流れ。

青い流れ。

細く重なり、ほどけ、また別の線へ移っていく魔力の道筋。


流れている。

巡っている。

脈を打っている。


でも、その一部だけが妙に引っかかった。


そこだけ、呼吸を忘れたみたいに鈍い。


「……これ」


思わず声が零れる。


全員の視線が向く。


ラティアは少しだけためらってから、地図の一箇所を指さした。


中央区画から少し外れた、白と青の線が重なる場所。


そこだけ、流れがよどんで見えた。


「ここ、変」


レオンがすぐ身を乗り出す。


「ここ?」


「……うん」


ラティアは眉を寄せる。


「流れてる線の中で、ここだけ止まりかけてる感じがする」


指先が少しだけ震える。


「通ってるのに、抜けてない。

引っかかって、溜まってるみたい」


エドガルド補佐が目を細める。


「溜まっている」


「ええと……」


ラティアは言葉を探す。


「そこだけ、息が詰まるみたいな感じがする」


「澱みか」


サラが小さく呟いた。


「そういうことかもしれません」


レオンが別の羊皮紙を引き寄せる。


そこには王都の古い区画図らしいものが描かれていた。


今の街並みとは少し違う。

消えた道。

埋められた水路。

封鎖と書かれた印。


「……ああ」


レオンの目が変わる。


「何だ」


ユリスが問う。


レオンは地図を二枚重ねた。


「ここ、昔は水路が通ってた場所だ」


「水路?」


「今は埋められてる。

でも古い結界って、水や風の流れに沿って作ることが多いんだよ」


カイルが低く笑う。


「見えてきたな」


サラも頷く。


「古い流れの名残に、残滓が引っかかっている可能性があります」


「そして、その周辺でだけ人に症状が出る」


エドガルド補佐が静かにまとめる。


「だとすれば……偶然ではありませんね」


偶然ではない。


その言葉が、部屋の空気をひとつ重くした。


ラティアは無意識に守り紐へ触れる。


偶然じゃないなら、誰かがやっているのかもしれない。

あるいは、何かが意図を持って流れているのかもしれない。


見えないものが、王都の下を這っている。


それを思うだけで、背筋に冷たいものが走った。


「門前の件も含めると、もう四件」


サラが言う。


「表に出ていないだけで、他にも軽い異常があるかもしれません」


「あるだろうな」


カイルが即答する。


「家で寝込んで終わってるようなやつが、もっと」


レオンは地図に印を増やしながら言った。


「明日、魔導院でも観測記録を洗い直す。

補助線だけじゃなく、封鎖区画の周辺も」


「神殿でも相談記録を広げましょう」


サラが補佐を見る。


エドガルド補佐は深く頷いた。


「そのように」


それから、ゆっくりラティアへ目を向けた。


「あなたの感覚は、予想以上に重要かもしれません」


その一言に、ラティアの肩が少し強張る。


重要。


それは役に立つという意味だ。

でも同時に、巻き込まれていくという意味にも聞こえた。


「……っ」


息が浅くなりかけた、そのとき。


後ろから、低い声が落ちる。


「考えすぎるな」


ユリスだった。


振り向かなくても分かる距離。


ラティアは小さく息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


それだけで、少し戻る。


エドガルド補佐はその様子を見ても何も言わなかった。


ただ静かに話を進める。


「問題は、この“澱み”が次にどこへ出るかです」


「ここから流れる先を追えばいい」


レオンが古地図の上を指でなぞる。


「古水路の先は、中央区画の外れ……いや、その先、封鎖区画に近い」


「封鎖区画?」


ラティアが小さく繰り返す。


サラが説明するように言った。


「古い礼拝堂や、今は使われていない施設が残る一帯です。

神殿と魔導院の管理が重なっていて、普段はほとんど人が入りません」


「入りません、で済んでりゃいいがな」


カイルが口元だけで笑う。


「こういうのは、誰も見てねえ場所ほど腐りやすい」


レオンが頷いた。


「明日そこを見る」


「許可は?」


ユリスが問う。


エドガルド補佐は迷わず答えた。


「神殿側は私が通します。

魔導院側も、レオン殿がいるなら問題は少ないでしょう」


「じゃあ決まりだね」


レオンはそう言って、ようやく少しだけ息を抜いた。


けれど、その目の奥にはまだ緊張が残っている。


点だった異変が、もう線になっている。

そしてその線は、どこかへ向かっている。


そこまで全員が分かっていた。


「今日は休め」


ユリスがラティアに言う。


短い言い方だった。


でも、それは命令というより、先のために必要なこととして落ちる声だった。


ラティアは小さく頷く。


「……うん」


レオンが地図を巻きながら、ふと視線を向ける。


「君もね」


やわらかい声。


「明日、また無茶されると困る」


「してない」


反射で返してしまう。


レオンが吹き出す。


「それ、もう信じないって言っただろ」


カイルも肩を揺らす。


「そこだけ元気だな」


少しだけ空気が緩む。


でも、そのやわらぎも一瞬だった。


机の上に残る印。

古地図に引かれた線。

“澱み”と呼ばれた一点。


そこに向かって、何かが静かに集まり始めている。


ラティアは地図を見つめたまま、胸の奥に薄い不安を抱えた。


明日、その場所へ行く。


きっとまた怖い。


でも、もう引き返せないところまで来ている気もした。


部屋を出ると、神殿の回廊には夜の静けさが満ちていた。


灯りは少なく、白い石の床に影が細く伸びる。


前を歩くユリスの背中。

少し後ろで何か考え込むレオン。

横で小さく息をつくサラ。

無言で周囲を見るカイル。


それぞれの足音が、静かな廊下に重なる。


ラティアはその真ん中で、そっと守り紐に触れた。


揺れる。


怖い。


でも――


進むしかない。


その先に何があるのかは、まだ見えなかった。

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