52
神殿へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
高い塔の向こうへ陽が落ちかけていて、白い石壁も昼とは違うやわらかな色を帯びている。
王都の喧騒はまだ遠くで続いていたが、神殿区画へ入ると、その音もどこか薄い膜を隔てたみたいに遠のいた。
「今日はここまで、でいいんじゃないですか?」
神殿の一角にある控えの間へ通されると、レオンが椅子の背に軽く手をかけながら言った。
「さすがに三件目はないと思いたい」
「お前が言うと、逆に来そうだな」
カイルが即座に返す。
「ひどくない?」
「事実だろ」
「事実かなあ……」
そんなやり取りに、サラが小さく笑う。
緊張の続いた一日の終わりとしては、少しだけやわらかい空気だった。
ラティアは窓際の椅子に座って、そっと息を吐く。
疲れてはいる。
けれど、ただ疲れているだけじゃない。
胸の奥に、いくつもの感情がまだ残っていた。
助けられた安堵。
王都の下に広がっている不穏な流れ。
母親の「巡り合わせ」という言葉。
レオンに言われた言葉。
そして、ユリスの短い声。
整理はつかない。
それでも、前よりは自分の中で息ができる気がした。
「ラティア」
不意に呼ばれて顔を上げる。
レオンだった。
いつの間にか少し近くへ来ていて、机を挟んだ向こう側からこちらを見ている。
「何か飲む?」
「え?」
「神殿の人が持ってきてくれてた。温かいの」
言われて見ると、机の端に湯気の立つカップがいくつか並んでいた。
さっきまで気づかなかった。
「甘いやつと、そうでもないやつがあるけど」
レオンが片方のカップを持ち上げる。
「昔の君なら、たぶんこっちだった」
そう言って差し出されたのは、薄い琥珀色の飲み物だった。
甘い香りがする。
ラティアはきょとんとする。
「……なんで分かるの」
「覚えてるから」
あっさり言われて、ラティアは少しだけ言葉に詰まる。
レオンは何でもないことみたいに続けた。
「苦いの苦手だったろ」
「……今も苦手」
答えると、レオンが笑った。
「だと思った」
そのやり取りがあまりに自然で、ラティアは一瞬だけ時間の感覚を失う。
昔も、こういうふうにやり取りしていたのだろうか。
何かを言われて、少しむっとして、でも嫌じゃなくて。
胸の奥にあるのは懐かしさだ。
でもそれだけじゃない。
置いてきた時間に、今さらそっと触れられるみたいな、不思議な痛みも混ざっている。
ラティアはカップを受け取った。
「あったかい……」
「冷えてたんじゃない?」
「少し」
「顔色はさっきよりマシ」
その言い方が妙に自然で、ラティアは少しだけ肩の力を抜く。
レオンは昔のことを知っている。
でも、今の自分も見ようとしている。
そのことが、嬉しくて、少しだけ怖い。
「何?」
見られているのに気づいて、レオンが首を傾げる。
ラティアは慌てて視線を落とした。
「……別に」
「それ、絶対別にじゃないやつ」
「ちがう」
「違わないだろ」
少しだけ言い返すようなやり取りに、カイルが離れたところで吹き出した。
「なんか、お前らだけ空気違うな」
ラティアがびくりとする。
レオンは平然と笑った。
「昔からの付き合いだからね」
「便利な言葉だな、それ」
「便利だよ」
サラがやわらかく微笑む。
「でも、少し分かる気がします」
ラティアはますます落ち着かなくなる。
自分では普通に話しているつもりなのに、周りから見ると違うのだろうか。
そう思った時、ふと視線が前方へ向いた。
部屋の入口近くの壁際。
そこにユリスが立っていた。
腕を組んでいるわけでもない。
いつも通り、ただ静かに立っているだけ。
会話に入る様子はない。
でも、ちゃんとここにいる。
ラティアの胸が小さく鳴る。
レオンと話している時は、懐かしさで心が揺れる。
少しだけ昔の自分に戻るみたいな感じがする。
けれどユリスを視界に入れると、どこかで息が整う。
その違いが、自分でも不思議だった。
レオンはラティアの視線の先を追うように、ほんの一瞬だけユリスを見た。
それからすぐに視線を戻す。
「そういえば」
何でもない風に言う。
「昔の君、もうちょっと素直だったよね」
ラティアが目を瞬く。
「……うそ」
「ほんと」
「うそ」
「ほんとだって」
レオンは楽しそうに言う。
「今みたいに、すぐ“ちがう”って言わなかった」
「言ってない」
「今言った」
「……」
ラティアは口をつぐむ。
カイルがまた肩を揺らした。
「確かに、ちょっと今の方が意地張ってる感じあるな」
「カイルまで」
「いや、悪い意味じゃねえよ」
サラがくすくす笑う。
「前より、自分で立とうとしているのかもしれませんね」
その言葉に、ラティアは少しだけ黙る。
前より、自分で立とうとしている。
そう言われると、否定できなかった。
昔は、怖かったら閉じこもっていた。
傷つけたら、そのまま全部から逃げた。
今も怖い。
でも、怖いままで立っていようとしている。
それは、たしかに昔とは違う。
「でもさ」
レオンの声がやわらかく落ちる。
「今のそれも、嫌いじゃないよ」
ラティアの指先が止まる。
「……え」
「ちょっと踏ん張るようになったとこ」
レオンは軽く笑った。
「前よりずっと、目が離せない」
その言葉に、ラティアの頬が少し熱くなる。
返し方が分からない。
昔から知ってる、みたいな延長の言葉にも聞こえる。
でもそれだけじゃない響きも少しある。
ラティアは視線を逸らして、カップの中を見た。
湯気が揺れている。
「……レオン、そういうこと平気で言う」
「平気で言ってるつもりないんだけど」
「うそ」
「またそれ」
レオンが笑う。
その笑い声に、自分でも少しだけ頬がゆるみそうになる。
そのときだった。
「ラティア」
低い声。
顔を上げる。
ユリスだった。
いつの間にか、入口ではなく少し近くまで来ている。
「もう飲んだなら、部屋に戻れ」
短い。
相変わらず、用件だけ。
けれどその声には、これ以上ここで長居をさせないみたいな、静かな区切りがあった。
ラティアは少しだけ目を見開く。
「……まだ少ししか」
「冷める前に飲んだだろ」
言われてカップを見る。
たしかに、もう半分以上なくなっていた。
自分でも気づかないうちに飲んでいたらしい。
少し迷ってから、ラティアは小さく言う。
「……少し、疲れた」
その言葉がこぼれた瞬間、自分でもほんの少しだけ驚く。
前なら、言わなかった。
言えなかった。
ユリスの目が、ほんのわずかに動く。
「なら戻れ」
いつも通りの短さ。
でも、その一言は前より少しだけやわらかく落ちた。
レオンが横でふっと笑う。
「保護者みたい」
ユリスは答えない。
ただ、ラティアを見る。
その目はいつも通り読みにくいのに、なぜか逆らいにくい。
ラティアは小さくカップを持ち直した。
「……戻る」
立ち上がると、レオンが少しだけ目を細める。
「じゃあ、またあとで」
その言い方はやわらかい。
追いかけるでも、引き止めるでもない。
でも、離れる前提ではない声だった。
ラティアは小さく頷く。
「……うん」
そのまま歩き出しかけて、ふと肩口に気配を感じる。
リュミだった。
いつの間にかまた戻ってきていて、ふわりと淡い光を揺らしている。
レオンがその光を見て、ふっと目を細めた。
視線をまだリュミに向けたまま、言う。
「やっぱり、いたんだなって」
ラティアはきょとんとする。
「え?」
レオンは少しだけ肩をすくめた。
「小さい頃から、なんとなく感じてたんだよね」
リュミを見つめたまま、言葉を探すように少しだけ考える。
「君のそば、時々へんなふうに光るっていうか」
「ちゃんと見えてたわけじゃないよ。
でも、日差しでも見間違いでもない何かが、ずっといる気がしてた」
ラティアは目を見開いた。
リュミも、ぴたりと動きを止める。
レオンはその反応に少しだけ笑う。
「ずっと俺の気のせいかと思ってた。
でも今見たら、ああ、これだったんだなって」
ラティアは思わずリュミを見た。
小さな光は、少し照れたみたいにふわりと揺れる。
「……こわく、なかったの?」
気づけば、そう聞いていた。
レオンは一瞬だけ不思議そうな顔をする。
「なんで?」
「だって……」
ラティアは言葉を探す。
「わたしのそばにいたら、変だと思うでしょ」
レオンは少しだけ黙った。
それから、あまりにも自然に言った。
「綺麗だな、って思ってた」
ラティアは息を止めた。
レオンはリュミを見つめたまま、やわらかく笑う。
「君のまわりだけ、時々春の日差しみたいだったから」
その声音は軽くない。
昔のことを、本当にそう思っていた人の声だった。
「怖いって思ったことは、一回もないよ」
ラティアの胸の奥が、小さく揺れる。
自分にとっては、ずっと怖いものだった。
隠したいものだった。
人を傷つけるものだった。
でも、レオンは昔からそれを“綺麗”だと思っていたのだ。
そのことが、嬉しいのに少し信じられない。
「……そうなんだ」
やっとそれだけ言うと、レオンはようやくラティアを見る。
「うん」
それから少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「まあ、今はちゃんと見えたから、前よりもっと綺麗だなって思ってるけど」
「……っ」
ラティアの頬が少し熱くなる。
リュミが肩口で、照れたみたいにふわりと揺れた。
ラティアはその小さな光を見つめたまま、何も言えなくなる。
レオンに見えていた。
昔から。
それは、少し不思議で、少しうれしい。
でも、自分はもう昔のままではいられない。
そう思いながら、隣に立つユリスの気配を感じると、胸の奥が少しだけ静まった。
そのとき、すぐ横から低い声が落ちる。
「行くぞ」
ユリスだった。
短い一言だけで、空気が少し切り替わる。
ラティアははっとして、小さく頷いた。
「……うん」
部屋を出る前に、ラティアは一度だけ振り返る。
レオンはまだ窓辺に立っていた。
夕暮れの光の中で、やわらかく笑っている。
昔を知る人。
懐かしさを呼ぶ人。
その一方で、ラティアの足は自然にユリスの方へ向いていた。
前を歩く背中があるだけで、呼吸が少し楽になる。
そのことを、まだうまく言葉にできない。
けれど。
レオンと話している時の自分は、たぶんユリスの知らない自分だ。
そして、ユリスのそばで落ち着く自分は、たぶんレオンの知らない自分なのだろう。
その両方が、今は確かにここにある。
部屋を出たあと、ユリスは何も言わなかった。
ラティアも黙ったまま、その隣を少しだけ歩く。
沈黙は重くない。
それだけで、少し息がしやすい。
王都の夜は、まだ始まったばかりだった。




