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神殿へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。


高い塔の向こうへ陽が落ちかけていて、白い石壁も昼とは違うやわらかな色を帯びている。


王都の喧騒はまだ遠くで続いていたが、神殿区画へ入ると、その音もどこか薄い膜を隔てたみたいに遠のいた。


「今日はここまで、でいいんじゃないですか?」


神殿の一角にある控えの間へ通されると、レオンが椅子の背に軽く手をかけながら言った。


「さすがに三件目はないと思いたい」


「お前が言うと、逆に来そうだな」


カイルが即座に返す。


「ひどくない?」


「事実だろ」


「事実かなあ……」


そんなやり取りに、サラが小さく笑う。


緊張の続いた一日の終わりとしては、少しだけやわらかい空気だった。


ラティアは窓際の椅子に座って、そっと息を吐く。


疲れてはいる。


けれど、ただ疲れているだけじゃない。


胸の奥に、いくつもの感情がまだ残っていた。


助けられた安堵。

王都の下に広がっている不穏な流れ。

母親の「巡り合わせ」という言葉。

レオンに言われた言葉。

そして、ユリスの短い声。


整理はつかない。


それでも、前よりは自分の中で息ができる気がした。


「ラティア」


不意に呼ばれて顔を上げる。


レオンだった。


いつの間にか少し近くへ来ていて、机を挟んだ向こう側からこちらを見ている。


「何か飲む?」


「え?」


「神殿の人が持ってきてくれてた。温かいの」


言われて見ると、机の端に湯気の立つカップがいくつか並んでいた。


さっきまで気づかなかった。


「甘いやつと、そうでもないやつがあるけど」


レオンが片方のカップを持ち上げる。


「昔の君なら、たぶんこっちだった」


そう言って差し出されたのは、薄い琥珀色の飲み物だった。


甘い香りがする。


ラティアはきょとんとする。


「……なんで分かるの」


「覚えてるから」


あっさり言われて、ラティアは少しだけ言葉に詰まる。


レオンは何でもないことみたいに続けた。


「苦いの苦手だったろ」


「……今も苦手」


答えると、レオンが笑った。


「だと思った」


そのやり取りがあまりに自然で、ラティアは一瞬だけ時間の感覚を失う。


昔も、こういうふうにやり取りしていたのだろうか。


何かを言われて、少しむっとして、でも嫌じゃなくて。


胸の奥にあるのは懐かしさだ。


でもそれだけじゃない。


置いてきた時間に、今さらそっと触れられるみたいな、不思議な痛みも混ざっている。


ラティアはカップを受け取った。


「あったかい……」


「冷えてたんじゃない?」


「少し」


「顔色はさっきよりマシ」


その言い方が妙に自然で、ラティアは少しだけ肩の力を抜く。


レオンは昔のことを知っている。


でも、今の自分も見ようとしている。


そのことが、嬉しくて、少しだけ怖い。


「何?」


見られているのに気づいて、レオンが首を傾げる。


ラティアは慌てて視線を落とした。


「……別に」


「それ、絶対別にじゃないやつ」


「ちがう」


「違わないだろ」


少しだけ言い返すようなやり取りに、カイルが離れたところで吹き出した。


「なんか、お前らだけ空気違うな」


ラティアがびくりとする。


レオンは平然と笑った。


「昔からの付き合いだからね」


「便利な言葉だな、それ」


「便利だよ」


サラがやわらかく微笑む。


「でも、少し分かる気がします」


ラティアはますます落ち着かなくなる。


自分では普通に話しているつもりなのに、周りから見ると違うのだろうか。


そう思った時、ふと視線が前方へ向いた。


部屋の入口近くの壁際。

そこにユリスが立っていた。


腕を組んでいるわけでもない。

いつも通り、ただ静かに立っているだけ。


会話に入る様子はない。


でも、ちゃんとここにいる。


ラティアの胸が小さく鳴る。


レオンと話している時は、懐かしさで心が揺れる。

少しだけ昔の自分に戻るみたいな感じがする。


けれどユリスを視界に入れると、どこかで息が整う。


その違いが、自分でも不思議だった。


レオンはラティアの視線の先を追うように、ほんの一瞬だけユリスを見た。


それからすぐに視線を戻す。


「そういえば」


何でもない風に言う。


「昔の君、もうちょっと素直だったよね」


ラティアが目を瞬く。


「……うそ」


「ほんと」


「うそ」


「ほんとだって」


レオンは楽しそうに言う。


「今みたいに、すぐ“ちがう”って言わなかった」


「言ってない」


「今言った」


「……」


ラティアは口をつぐむ。


カイルがまた肩を揺らした。


「確かに、ちょっと今の方が意地張ってる感じあるな」


「カイルまで」


「いや、悪い意味じゃねえよ」


サラがくすくす笑う。


「前より、自分で立とうとしているのかもしれませんね」


その言葉に、ラティアは少しだけ黙る。


前より、自分で立とうとしている。


そう言われると、否定できなかった。


昔は、怖かったら閉じこもっていた。

傷つけたら、そのまま全部から逃げた。


今も怖い。

でも、怖いままで立っていようとしている。


それは、たしかに昔とは違う。


「でもさ」


レオンの声がやわらかく落ちる。


「今のそれも、嫌いじゃないよ」


ラティアの指先が止まる。


「……え」


「ちょっと踏ん張るようになったとこ」


レオンは軽く笑った。


「前よりずっと、目が離せない」


その言葉に、ラティアの頬が少し熱くなる。


返し方が分からない。


昔から知ってる、みたいな延長の言葉にも聞こえる。

でもそれだけじゃない響きも少しある。


ラティアは視線を逸らして、カップの中を見た。


湯気が揺れている。


「……レオン、そういうこと平気で言う」


「平気で言ってるつもりないんだけど」


「うそ」


「またそれ」


レオンが笑う。


その笑い声に、自分でも少しだけ頬がゆるみそうになる。


そのときだった。


「ラティア」


低い声。


顔を上げる。


ユリスだった。


いつの間にか、入口ではなく少し近くまで来ている。


「もう飲んだなら、部屋に戻れ」


短い。


相変わらず、用件だけ。


けれどその声には、これ以上ここで長居をさせないみたいな、静かな区切りがあった。


ラティアは少しだけ目を見開く。


「……まだ少ししか」


「冷める前に飲んだだろ」


言われてカップを見る。


たしかに、もう半分以上なくなっていた。


自分でも気づかないうちに飲んでいたらしい。


少し迷ってから、ラティアは小さく言う。


「……少し、疲れた」


その言葉がこぼれた瞬間、自分でもほんの少しだけ驚く。


前なら、言わなかった。


言えなかった。


ユリスの目が、ほんのわずかに動く。


「なら戻れ」


いつも通りの短さ。


でも、その一言は前より少しだけやわらかく落ちた。


レオンが横でふっと笑う。


「保護者みたい」


ユリスは答えない。


ただ、ラティアを見る。


その目はいつも通り読みにくいのに、なぜか逆らいにくい。


ラティアは小さくカップを持ち直した。


「……戻る」


立ち上がると、レオンが少しだけ目を細める。


「じゃあ、またあとで」


その言い方はやわらかい。


追いかけるでも、引き止めるでもない。


でも、離れる前提ではない声だった。


ラティアは小さく頷く。


「……うん」


そのまま歩き出しかけて、ふと肩口に気配を感じる。


リュミだった。


いつの間にかまた戻ってきていて、ふわりと淡い光を揺らしている。


レオンがその光を見て、ふっと目を細めた。


視線をまだリュミに向けたまま、言う。


「やっぱり、いたんだなって」


ラティアはきょとんとする。


「え?」


レオンは少しだけ肩をすくめた。


「小さい頃から、なんとなく感じてたんだよね」


リュミを見つめたまま、言葉を探すように少しだけ考える。


「君のそば、時々へんなふうに光るっていうか」


「ちゃんと見えてたわけじゃないよ。

でも、日差しでも見間違いでもない何かが、ずっといる気がしてた」


ラティアは目を見開いた。


リュミも、ぴたりと動きを止める。


レオンはその反応に少しだけ笑う。


「ずっと俺の気のせいかと思ってた。

でも今見たら、ああ、これだったんだなって」


ラティアは思わずリュミを見た。


小さな光は、少し照れたみたいにふわりと揺れる。


「……こわく、なかったの?」


気づけば、そう聞いていた。


レオンは一瞬だけ不思議そうな顔をする。


「なんで?」


「だって……」


ラティアは言葉を探す。


「わたしのそばにいたら、変だと思うでしょ」


レオンは少しだけ黙った。


それから、あまりにも自然に言った。


「綺麗だな、って思ってた」


ラティアは息を止めた。


レオンはリュミを見つめたまま、やわらかく笑う。


「君のまわりだけ、時々春の日差しみたいだったから」


その声音は軽くない。


昔のことを、本当にそう思っていた人の声だった。


「怖いって思ったことは、一回もないよ」


ラティアの胸の奥が、小さく揺れる。


自分にとっては、ずっと怖いものだった。

隠したいものだった。

人を傷つけるものだった。


でも、レオンは昔からそれを“綺麗”だと思っていたのだ。


そのことが、嬉しいのに少し信じられない。


「……そうなんだ」


やっとそれだけ言うと、レオンはようやくラティアを見る。


「うん」


それから少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「まあ、今はちゃんと見えたから、前よりもっと綺麗だなって思ってるけど」


「……っ」


ラティアの頬が少し熱くなる。


リュミが肩口で、照れたみたいにふわりと揺れた。


ラティアはその小さな光を見つめたまま、何も言えなくなる。


レオンに見えていた。


昔から。


それは、少し不思議で、少しうれしい。


でも、自分はもう昔のままではいられない。


そう思いながら、隣に立つユリスの気配を感じると、胸の奥が少しだけ静まった。


そのとき、すぐ横から低い声が落ちる。


「行くぞ」


ユリスだった。


短い一言だけで、空気が少し切り替わる。


ラティアははっとして、小さく頷いた。


「……うん」


部屋を出る前に、ラティアは一度だけ振り返る。


レオンはまだ窓辺に立っていた。


夕暮れの光の中で、やわらかく笑っている。


昔を知る人。


懐かしさを呼ぶ人。


その一方で、ラティアの足は自然にユリスの方へ向いていた。


前を歩く背中があるだけで、呼吸が少し楽になる。


そのことを、まだうまく言葉にできない。


けれど。


レオンと話している時の自分は、たぶんユリスの知らない自分だ。

そして、ユリスのそばで落ち着く自分は、たぶんレオンの知らない自分なのだろう。


その両方が、今は確かにここにある。


部屋を出たあと、ユリスは何も言わなかった。


ラティアも黙ったまま、その隣を少しだけ歩く。


沈黙は重くない。


それだけで、少し息がしやすい。


王都の夜は、まだ始まったばかりだった。

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