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神殿を出る頃には、午後の光はもう少しだけ傾き始めていた。


昼の白さを残しながらも、建物の影が少しずつ長くなっている。

北側へ向かうには、ぎりぎり間に合う。

そういう時間だった。


「急ぐぞ」


ユリスが短く言う。


その一言で、空気が切り替わる。


レオンは地図を巻いて筒へ戻し、サラは祈祷札の袋を確かめ、カイルは弓の弦を指で軽く弾いた。

ラティアも守り紐を握り直し、小さく息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


まだ少し、胸の奥には王城の余韻が残っている。

リディアの「久しぶりね」。

ミレイユの視線。

王の声。


けれど今は、それを抱えたまま前へ進くしかない。


王都の通りを北へ進むにつれ、人の気配は少しずつ薄れていった。


大通りの喧騒。

市場の呼び声。

荷車の音。


そうしたものが、一歩ごとに背中の方へ遠ざかっていく。


「静かだな」


カイルがぼそりと言った。


「北側はもともと人通りが少ない」


レオンが前を見たまま答える。


「でも、今日はそれだけじゃない気がするね」


サラが通りの先へ目を向ける。


「軽症報告のせいで避けている方もいるのかもしれません」


ラティアは歩きながら、空気の底に意識を向ける。


まだはっきり何かを感じるわけではない。

けれど、昨日より少しだけ近い。


礼拝室の壁際に残っていた、あの薄い冷たさ。

乾いた匂い。

焦げた残り香の名残。


それに似たものが、ずっと遠くに細く引かれている。


「ラティア」


前を向いたまま、ユリスが呼ぶ。


「何かあるか」


ラティアは少しだけ目を閉じる。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


「……うっすら」


「でも、昨日と同じ感じはする」


「それで十分だ」


短い返答。


その声だけで、不思議と迷いが薄れる。


やがて建物の密度がまばらになり、道の先に小高い土地が見えてきた。


崩れた石壁。

草に埋もれた古い道。

その奥に、かつて塔だったものの影が立っている。


「……あれか」


カイルが目を細める。


レオンは筒から地図を抜き、見比べて小さく頷いた。


「灯楼跡だね」


今はもう灯りの役目を失った、古い見張り塔。


近づくほどに、その場所だけ空気が少し違っていた。


風が通らないわけではない。

けれど、抜けた風がどこか冷たい。


ラティアの指先が、無意識に外套の端をつまむ。


「……ある」


小さく言うと、ユリスが足を止めた。


「残り香か」


ラティアは頷く。


「礼拝室より薄いけど」


「同じ感じがする」


レオンの表情が変わる。


「場所は合ってるね」


「問題は、どこまで残ってるかだ」


灯楼跡へ続く細い坂道に入ったところで、ラティアの足が止まった。


ほんの一歩。

それだけなのに、胸の奥がざわつく。


「待って」


先頭を行くユリスが、すぐに止まる。


「どこだ」


ラティアは前方ではなく、足元を見る。


石畳は古く、継ぎ目が深い。

雑草が割れ目から伸びている。

見た目には何もない。


でも、そこだけ少し重い。


「……下」


言葉にした瞬間、レオンの顔色が変わった。


「伏せろ!」


叫ぶのとほとんど同時に、ユリスの腕がラティアを引いた。


強く、迷いなく。


体が石壁側へ寄せられる。


次の瞬間、石畳の継ぎ目から黒い線が一斉に噴き上がった。


細い。

けれど鋭い。


針のような影が何本も地を這い、足首へ絡みつこうとするように伸びる。


「っ!」


カイルの矢が走った。


バチッ、と雷が弾け、最初に伸びた数本を撃ち抜く。


サラの祈りがほぼ同時に重なる。


白い膜が足元へ広がり、地面から這い出た黒を押し返した。


「感知型か!」


レオンが吐き捨てる。


「踏ませるための罠だ!」


「趣味悪ぃな!」


カイルが舌打ちする。


ユリスはラティアを庇う位置のまま、剣を抜いた。


一歩踏み込み、石畳を走る黒い線を断つ。


銀の軌跡が地を裂く。


けれど、それで終わらない。


別の継ぎ目から、また黒が滲み出る。


「節が一つじゃない!」


レオンが地面を睨む。


「散らして埋めてる!」


「ラティアさん!」


サラが呼ぶ。


「分かりますか」


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


怖い。

でも、今はその怖さに飲まれている暇がない。


目を閉じる。


地の下に残っている澱みが、薄く、複数、走っている。

その中で一箇所だけ、ほかより重い。


「……左!」


ラティアは目を開けた。


「井戸跡の手前!」


「了解!」


カイルの矢が一直線に走る。


石畳を打ち、雷光が弾ける。


その下に埋められていた黒い節が、一瞬だけ露わになる。


「そこか!」


レオンの魔法陣が重なった。


青白い光が、節の位置を押さえ込む。


サラの祈りがその上をなぞるように走る。


「ラティア!」


レオンが振り返る。


「濃いのはまだある?」


ラティアは顔を上げ、ざわつく地面を見つめる。


「少しだけ、右にも」


「でも、今の方が濃い!」


「十分だ!」


レオンが叫ぶ。


「ユリス!」


ユリスはすでに動いていた。


剣が閃く。


露わになった黒い節ごと、石の継ぎ目を深く断ち割る。


乾いた音。


次の瞬間、地面を這っていた黒い線が、一気に力を失ったように沈んだ。


静寂。


少し遅れて、風が抜ける。


ラティアはその場で浅く息をつく。


まだ心臓は速い。

でも、さっきのように何も見えなくなる感じではなかった。


「よく拾ったな」


ユリスが短く言う。


それだけなのに、胸の奥が小さく鳴る。


「……うん」


カイルが弓を下ろし、壊れた石畳を見下ろす。


「ただの迎撃じゃねえな」


レオンもしゃがみ込む。


「侵入者の足を止めるためのものだ」


その声は冷たい。


「しかも、近づいた時にだけ起きるようにしてある」


「礼拝室の残り香を追って、こっちが来ることまで読んでたわけじゃないでしょうが……」


サラが静かに言う。


「少なくとも、誰かが近づくことは想定していたのでしょう」


ラティアは通りの先を見る。


まだ灯楼跡そのものには触れていない。

でも、もう歓迎されてはいないことだけはよく分かった。


「……行く」


自分でも驚くくらい自然に、その言葉が出た。


ユリスが少しだけこちらを見る。


「平気か」


ラティアは守り紐に触れ、頷いた。


「怖いけど」


小さく息を吸う。


「このまま帰る方が、いや」


一瞬、静けさが落ちる。


先に口を開いたのはカイルだった。


「だよな」


ぶっきらぼうに言って、坂の先を顎で示す。


「せっかくここまで来たんだ。見て帰らなきゃ損だ」


「損って言い方」


ラティアが小さく返すと、カイルが肩を揺らす。


レオンも少しだけ笑った。


「でも、同感」


その横でサラも静かに頷く。


「ええ。今なら、まだ日があるうちに確認できます」


ユリスは一度だけ灯楼跡を見上げ、それから短く言った。


「進むぞ」


誰も迷わなかった。


坂を上りきった先は、王都の喧騒から切り離されたみたいに静かだった。


石造りの低い塀。

崩れかけた見張り台の土台。

風にさらされた草。

そして、その奥に、古びた灯楼の残骸があった。


もう灯りはない。

高く伸びていたはずの塔も半ばで崩れ、上部は失われている。


それでも、そこがかつて王都を見張る場所だったのだと分かるだけの名残は残っていた。


ラティアはその場に立ったまま、小さく息を止める。


澱みは薄い。

でも、消えてはいない。


ここにも、確かに何かが触れた跡がある。


「……やっぱり」


その呟きに、レオンが頷いた。


「当たりだね」


午後の光が傾き始めた灯楼跡は、どこまでも静かだった。


けれど、その静けさの底には、まだ名前のつかない冷たさが沈んでいる。


一歩遅かったのか。

それとも、まだ何か残っているのか。


その答えは、もう少し中へ入らなければ分からない。


ラティアはもう一度だけ、そっと息を吸った。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


その先で、崩れた灯楼の影が、黙ってこちらを見下ろしていた。

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