48
温室を出たあとの空気は、肌にひやりと心地よかった。
熱気と濃い香りに包まれていたせいか、外の風は少し冷たいだけでひどく楽に感じる。
ラティアは庭園の端にある白い石の腰掛けへ座らせられていた。
「座ってろ」
そう言ったのはユリスだった。
短くて、いつも通りの声。
けれど逆らう隙を与えない言い方で、ラティアは素直に従った。
温室の中では気を張っていたせいか、座った途端に足の力が少し抜ける。
肩口では、リュミがふわふわと漂っていた。
大丈夫、と言うように、時々やわらかくまたたく。
ラティアはその小さな光を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。
サラは執事と侍女に温室内での経緯を説明しに行き、カイルは周囲の警戒を兼ねて庭の外れを見に行った。
ユリスは伯爵家の使いと短く言葉を交わし、すぐ近くにはいない。
庭には、少しだけ静かな時間が落ちていた。
ラティアは膝の上で手を組む。
まだ少しだけ指先が熱い。
でも、門前の時とは違う。
怖かった記憶の隣に、助けられた実感がちゃんと残っていた。
「少しは落ち着いた?」
声がして顔を上げる。
レオンだった。
いつの間にか近くまで来ていて、ラティアから少し距離を空けた位置で立ち止まる。
いきなり隣に座ったりしない、その間合いが彼らしかった。
ラティアは小さく頷いた。
「……うん」
「そっか」
レオンもそれ以上は急がない。
近くの柱に軽く背を預けて、庭の花壇へ視線を流す。
「でも、結構無茶したでしょ」
「してない」
反射みたいに返すと、レオンが吹き出した。
「その返し、昔と同じ」
ラティアは少しだけ口を閉じる。
昔。
その言葉が出るたびに、胸の奥が少しだけ揺れる。
レオンはやわらかく笑ったまま言った。
「無茶してる人ほど、してないって言うんだよ」
「……レオンも言いそう」
「言うかも」
さらっと返ってくる。
その軽いやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
でも、気が緩んだせいか、今まで押し込めていたものまで浮かび上がってくる。
言わなきゃ、とずっと思っていたこと。
言いたいのに、ずっと言えなかったこと。
ラティアは視線を落とした。
膝の上で、指先が小さく動く。
「……レオン」
名前を呼ぶと、レオンの表情がほんの少しだけ静かになる。
「ん?」
返事は、いつも通りやわらかい。
それが余計に言いづらい。
喉の奥が少しつまる。
でも、ここでまた黙ったら、前と同じになる気がした。
ラティアは守り紐に触れそうになって、やめる。
代わりに息を吸った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
「……あの時」
声が少しだけ掠れる。
「ごめん」
それだけ言うのに、胸の奥が痛かった。
レオンはすぐには答えなかった。
ラティアは視線を上げられない。
続けようとすると、言葉がうまく出てこない。
「わたし……傷つけて」
喉が鳴る。
「わざとじゃなかったけど……でも、傷つけて……」
あの日の記憶が、嫌に鮮明によみがえる。
暴走した魔力。
弾かれた身体。
苦しそうに息を呑む顔。
腕の血。
守るはずの力で、傷つけた。
その事実だけが、ずっと胸の奥に棘みたいに残っていた。
「ちゃんと謝れなくて」
声がさらに小さくなる。
「そのまま、逃げて……」
逃げた。
山に籠った理由はひとつじゃない。
でも、あの日のことが大きかったのは確かだった。
レオンにだけじゃない。
誰かに触れること自体が怖くなった。
ラティアはぎゅっと唇を噛む。
「ほんとは、ずっと……」
気にしていた、と言いたいのに、最後までうまく言えない。
沈黙が落ちる。
責められても仕方ないと思った。
なのに。
「うん」
返ってきた声は、驚くほど静かだった。
責める響きがない。
ラティアが顔を上げると、レオンはもう笑っていなかった。
でも、怒っているわけでもない。
まっすぐにこちらを見ている。
「痛かったよ」
その言葉に、ラティアの肩がびくりと揺れる。
レオンは目を逸らさない。
「普通に痛かった。びっくりもした」
淡々としているのに、その分だけ本当のことだと分かる。
ラティアの胸がぎゅっと縮んだ。
やっぱり、そうだ。
自分は、傷つけた。
けれどレオンは、そのまま少しだけ息を吐いた。
「でも」
その一言で、ラティアは息を止める。
レオンは困ったように、ほんの少しだけ笑った。
「会えなくなった方が、嫌だった」
胸の奥が、どくんと大きく鳴る。
「え……」
思わず漏れた声に、レオンは肩をすくめた。
「いや、だってそうだろ」
軽く言おうとしているのに、うまく軽くしきれていない。
その声が少しだけ本音に近い。
「痛かったのは、その時の話で終わるけど」
レオンは視線をやわらかくする。
「いなくなったのは、ずっと残る」
ラティアは言葉を失う。
許された、とは少し違う。
もっと静かで、もっと苦しい。
自分が思っていたより、レオンはずっとあの日の先を見ていたのだと分かる。
「だから」
レオンは少しだけ笑った。
「今さら、“ごめん”だけで終わらせたくないんだよね」
その言葉に、ラティアの目が揺れる。
謝りたかった。
ずっとそのつもりだった。
でも、謝って終わることを、自分はどこかで望んでいたのかもしれない。
それで区切りにして、少しだけ楽になりたかったのかもしれない。
でもレオンは、それを受け取らない。
受け取らないまま、ここにいていいと言う。
それが、ありがたくて、苦しい。
「……レオン」
ラティアの声が小さく震える。
何を言えばいいのか、分からない。
許してほしかったのか。
責めてほしかったのか。
会えて嬉しいのか。
怖いのか。
全部が混ざって、うまく言葉にならない。
レオンはそんなラティアを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「泣くほど責めてないよ」
「泣いてない」
「今にも泣きそう」
「……ない」
言い返す声が弱い。
レオンはふっと笑う。
「そこも変わってない」
昔と同じ、みたいに言われると、胸の奥がまた揺れた。
変わっていないものと、変わってしまったものが、一緒にここにある気がする。
ラティアは膝の上の指をぎゅっと握る。
「……でも」
やっと絞り出す。
「会えて、よかった」
その言葉を言った瞬間、自分で少しだけ驚いた。
もっと気まずいかと思っていた。
もっと怖いかと思っていた。
でも、会えてしまったから分かる。
会えなかったままの方が、ずっと痛かった。
レオンの目が、ゆっくりと和らぐ。
「うん」
短く答える。
その一言が、妙にあたたかい。
「俺も」
それだけだった。
でも、その“俺も”にいろんな意味が含まれている気がして、ラティアはまた目を伏せた。
少しだけ沈黙が落ちる。
庭のどこかで、風に葉が鳴る音がした。
その静けさの中で、レオンがふと視線をずらす。
「あんまり今ここで、昔話ばっかりしてると」
「え?」
ラティアが顔を上げる。
レオンは、どこかおかしそうに口元をゆるめた。
「機嫌悪くなりそうなのがいるし」
意味が分からず、ラティアはきょとんとする。
そのときだった。
「レオン」
低い声。
振り向くと、少し離れた場所にユリスが立っていた。
いつからいたのか分からない。
全部聞いていたのか、聞いていなかったのかも分からない。
ただ、その顔はいつも通りで、読めない。
「補佐が呼んでる」
短い用件だけ。
レオンはくすりと笑う。
「はいはい。今行くよ」
軽く返してから、ラティアを見下ろす。
「立てる?」
問いかけられて、ラティアは頷いた。
「……うん」
立ち上がるとき、一瞬だけ足元が揺れそうになる。
けれど今度は自分で踏みとどまれた。
その様子を見て、レオンが少しだけ目を細める。
「前より強くなったね」
やわらかい声。
ラティアは返事に迷う。
強くなったのかどうか、自分ではまだ分からない。
でも、昔みたいに全部から逃げるだけじゃなくなったのは、たぶん本当だった。
「……少しだけ」
そう答えると、レオンは嬉しそうに笑った。
「その少しが大きいんだよ」
そう言って先に歩き出す。
ラティアもその背を追おうとして、ふと視線を上げた。
ユリスと目が合う。
一瞬だけ。
何も言わない。
けれど、その目は静かにラティアを見ていた。
さっきより少しだけ深く。
ラティアの胸が、また小さく鳴る。
レオンと話した後なのに。
いや、話した後だからこそなのかもしれない。
胸の奥が落ち着かないのに、ユリスを見ると少しだけ息がしやすくなる。
その感覚の意味を、まだうまく言葉にできない。
ユリスは先に歩き出した。
ラティアもその後ろにつく。
レオンは少し前で、相変わらず迷いなく王都の道を知っているみたいに歩いている。
昔を知る人。
今を支える人。
その二人の間で、ラティアはそっと守り紐に触れた。
糸の感触は、指先に静かに馴染んだ。




