47
ラング伯爵家の温室は、貴族街の外れにあった。
本邸から少し離れた庭園の奥。
白い石畳の小道を抜けた先に、ガラス張りの大きな建物が見える。
昼の光を受けて、温室はきらきらと明るかった。
けれど近づくほど、ラティアの胸の奥には別のざわめきが広がっていく。
きれいだ。
でも、息が詰まりそうだった。
中に満ちる熱気。
濃い花の香り。
閉じた空気。
生きた植物に囲まれているはずなのに、どこか逃げ道の少ない箱のようにも感じる。
「顔色悪いぞ」
カイルが低く言った。
ラティアははっとして息を吸う。
「……だいじょうぶ」
反射で答えかけて、少しだけ止まる。
無理なら言え。
言葉が胸の奥をかすめる。
「……ちょっと、苦しい」
言い直すと、サラがすぐに周囲を見回した。
「温室の熱と香りですね」
「無理なら外で待つ?」
レオンがやわらかく言う。
問いかける声だった。
押しつける気配はない。
「まだ令嬢の様子を見る前だし、俺たちが先に中を見てもいい」
ラティアは温室の扉を見た。
透明なガラスの向こうで、濃い緑が揺れている。
奥に人影が動いた気もした。
ここで外にいたら、楽かもしれない。
でも——
「……行く」
小さく言う。
「見る」
レオンは少しだけ目を細めたが、止めなかった。
「分かった」
代わりにユリスが前へ出る。
扉を開く役を取るように、自然に一歩前へ。
中からむわっと熱気が流れ出す。
花の香りが一気に濃くなる。
ラティアは思わず眉を寄せた。
そのとき、低い声が落ちる。
「息」
ユリスだった。
ラティアははっとする。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吸って、吐く。
それだけで、ほんの少しだけ足元が戻る。
「……うん」
扉の向こうへ、一行は足を踏み入れた。
温室の中は、外よりさらに異様だった。
色とりどりの花が咲いている。
蔓植物が支柱に絡みつき、南方のものらしい大きな葉が広がっている。
床には水が撒かれたばかりなのか、しっとりと湿っていた。
けれど、その華やかさの中にひどく不穏なものが混じっている。
ラティアの肩が小さく揺れた。
花のいくつかが、根元から黒ずんでいた。
枯れているわけではない。
でも、生気だけを吸われたみたいに、艶がない。
サラも気づいたように目を細める。
「……嫌な気配がありますね」
「伯爵家の人間は?」
ユリスが短く問う。
温室の入口で待っていた執事が、すぐに頭を下げた。
「奥にご令嬢が。医師も呼んではおりますが、熱が下がらず……神殿から診ていただけると聞いて」
「人払いは?」
カイルが確認する。
「侍女が一人ついております。他の者は外へ」
「そのままで」
レオンが口を挟む。
「出入りは制限して。誰も勝手に入れないで」
執事は緊張した顔で頷いた。
温室の奥、白い長椅子にひとりの少女が横たわっていた。
年はラティアより少し下だろうか。
淡い金髪が汗で頬に張りつき、苦しそうに息をしている。
傍らには侍女が膝をついていた。
「お嬢様……」
か細い声。
ラティアが近づいた瞬間、その胸の奥が嫌なふうにざわついた。
いた。
少女の身体の周りに、薄く黒い揺れがまとわりついている。
門前の令嬢よりは弱い。
けれど確かに、残滓だ。
しかも完全に取り憑いているというより、じわじわ染み込んでいる感じが強かった。
「まだ浅い」
ラティアは思わず口にしていた。
全員の視線が向く。
でも今は、それを気にしている余裕がない。
「……たぶん、まだ浅い」
サラが静かに頷いた。
「なら、間に合います」
レオンが息を吐く。
「先回り、成功か」
「油断はするな」
カイルが周囲を見回す。
「こういう時に限って、他にも何かある」
「分かってる」
軽く返しながらも、レオンの目はすでに真面目だった。
ユリスはラティアを見る。
「できるか」
また、その問い。
門前でも聞いた。
神殿でも聞いた。
今度は、少しだけ違う。
前よりも、自分で答えを探せる気がした。
怖い。
人に触れるのは、まだ怖い。
失敗したらどうしようと思う。
壊したらどうしようとも、やっぱり思う。
でも、その恐怖の奥で、別の景色がふっと胸に浮かんだ。
春の結界。
やわらかな光。
芽吹く草。
風に揺れる花。
小さな獣たちが、何の警戒もなく眠っていた場所。
自分が十年かけて積み上げた、閉じた春。
怯えたまま作ったはずなのに、あの中ではたしかに命が息づいていた。
草木はよく育っていた。
精霊も穏やかだった。
生き物は、あの中でのびのびと暮らしていた。
――お前は壊すだけの魔力じゃない。
ユリスに言われた言葉が、静かに胸の奥へ落ちる。
怖いのは消えない。
でも、怖いままでも、手を伸ばせるかもしれない。
ラティアは小さく頷いた。
「……やる」
ユリスはそれ以上何も言わない。
ただ、一歩だけ横へずれた。
いつでも前に出られる位置。
でもラティアの邪魔はしない位置。
それだけで、呼吸が少ししやすくなる。
侍女が不安げに見上げる。
「お嬢様は助かるのでしょうか……」
その問いに、ラティアはやっぱり大丈夫とは言えなかった。
言い切れない。
まだ、自分の力をそこまで信じきれない。
だから代わりに、小さく言った。
「……やってみる」
それだけだった。
でも侍女は、それでも縋るように頷いた。
ラティアは少女のそばに膝をつく。
手首に触れる。
熱い。
けれど、門前の時より少しだけ落ち着いて見られた。
熱の下にあるもの。
呼吸を乱しているもの。
身体の奥に絡みついた黒いざらつき。
ある。
けれど、前より少しだけ分かる。
これは“少女そのもの”じゃない。
外から入り込んで、流れを乱しているものだ。
(……こわい)
心の中で、まず認める。
(でも、見る)
目を逸らさない。
怖さをごまかさない。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
深呼吸。
少女の呼吸に意識を合わせる。
浅い。
速い。
苦しそうだ。
そこへ自分の力を押し込まない。
まず乱れを探す。
ほどく。
絡まった糸をひとつずつ外すみたいに。
そのときだった。
ラティアの肩口に、ふわりとやわらかな光が寄る。
小さな光の精霊――リュミだった。
春の朝のひかりをそのまま掬ったみたいな、淡くやさしい輝き。
心配するように、励ますように、ラティアの頬の近くをくるりと回る。
「……リュミ」
小さく名前を呼ぶと、光の精霊は嬉しそうにまたたいた。
それだけで、胸の奥の強張りがほんの少しほどける。
大丈夫、と言われたわけじゃない。
でも、ひとりではないと思えた。
ラティアの指先に、淡い金色の光が灯った。
ふわり、とやさしい光。
門前の時より少しだけぶれが少ない。
その光には、寄り添うようにリュミの輝きも重なっていた。
サラがすぐそばで祈りを重ねる。
白い光が、ラティアの金色を支えるように広がった。
温室の熱気が、ほんの少しだけ静まる。
少女の眉がぴくりと動く。
黒い靄がわずかに震えた。
「来るかも」
カイルが低く言う。
すでに弓を構えている。
その矢尻には、青白い雷光が小さく走っていた。
レオンも一歩、位置を変える。
ラティアとサラを巻き込まない角度。
残滓が浮いた時に、すぐ術を打てる位置。
その動きは無駄がなく、王都で場数を踏んできた人間のそれだった。
「続けて」
レオンが静かに言う。
軽さを抜いた声。
仕事の顔だった。
ラティアは頷く。
「……うん」
光を少し強める。
押し返すんじゃない。
ほどく。
乱れだけを浮かせる。
少女の熱の奥に沈んでいた黒いものが、じわりと浮き始めた。
嫌がるように震える。
少女の喉が小さく鳴る。
ラティアの心臓も跳ねた。
(こわい)
でも、ここで止めたら戻ってしまう。
息を吸う。
吐く。
自分を戻す。
少女の呼吸に合わせる。
リュミが指先の近くで小さくまたたき、やわらかな光を揺らした。
春の結界で見た、穏やかな光と同じだった。
「あと少しです」
サラの声が静かに支える。
その瞬間だった。
少女の胸元から、ぶわっと黒い靄が浮き上がる。
花の香りを押しのけるように、嫌な気配が広がった。
侍女が悲鳴を呑み込む。
「雷穿」
カイルの声と同時に、矢が走る。
ヒュンッ――!
青白い雷光をまとった矢が、靄の端を正確に裂いた。
バチィッ!!
黒い塊が震え、輪郭が乱れる。
だが完全には消えない。
散った靄が、また少女へ戻ろうと蠢く。
「散れよ」
二射目。
また雷が弾ける。
今度は残滓の動きが大きく鈍った。
そこへレオンの指先から、鋭い光の陣が走る。
「留まれ」
短い詠唱。
空中に浮かんだ薄い魔法陣が、黒い靄の動きを一瞬だけ縛る。
完全な拘束ではない。
でも、その一瞬が大きい。
「ユリス!」
レオンの声。
ユリスはすでに踏み込んでいた。
一閃。
銀の軌跡が、黒い靄を横から断ち切る。
残滓がぎゃっと歪んだ声を上げる。
けれど、まだ消えない。
「ラティア」
ユリスの低い声が飛ぶ。
「続けろ」
ラティアは少女から手を離さない。
うん、とも言えなかった。
でも、光は止めない。
少女の中に残っている黒い澱みを、最後まで外へ押し上げる。
怖い。
でも、前みたいに手がすくまない。
少女の呼吸が、少しずつ整っていく。
熱の流れが変わる。
黒い靄が、完全に身体の外へ弾き出された。
「今」
レオンが短く告げる。
「――紫電一矢」
カイルが引き絞った矢を放つ。
一直線に走った雷の一撃が、靄の中心を撃ち抜いた。
バギィッ!!
核が露わになる。
そこへユリスの剣が、迷いなく落ちた。
「消えろ」
低い声。
次の瞬間、黒い残滓は細く裂け、霧のようにほどけていく。
今度こそ、完全に。
温室の中に、静寂が落ちた。
花の香りだけが残る。
ラティアは少女の額にそっと手を添えた。
まだ熱はある。
でも、さっきまでの刺すような異常な熱ではない。
呼吸も、少しずつ穏やかになっている。
「……落ち着いた」
小さく言うと、サラが脈を確かめて頷いた。
「大丈夫です。峠は越えています」
侍女がその場に崩れ落ちる。
「よかった……っ」
執事も深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます」
ラティアはその言葉に、うまく返せなかった。
ただ少女の顔を見る。
苦しそうに寄っていた眉が、もうほどけている。
壊さなかった。
ちゃんと、助けられた。
その実感が、じわじわと胸の奥へ広がる。
怖かった。
今もまだ、少し手は震えている。
でも――門前の時より、少しだけ前に進めた気がした。
立ち上がろうとした瞬間、ふらりと身体が揺れた。
その腕を、すぐに誰かが支える。
「……あ」
ユリスだった。
一言もなく、倒れない程度に支えて、立て直す。
強すぎない。
でも迷いのない手。
ラティアの胸が小さく鳴る。
「だいじょうぶ」
言うと、ユリスは短く返した。
「顔色はよくない」
「……少しだけ、熱いだけ」
「外出ろ」
命令みたいな短さだった。
けれど、その声に逆らう気にはなれない。
「うん……」
その様子を、レオンが少し離れたところから見ていた。
何か言いかけるように目を細めて、でも結局は軽く笑う。
「頑張りすぎ」
やわらかい声。
責めるでもなく、茶化すでもない。
「今日はちゃんと休んだ方がいいよ」
ラティアは小さく頷く。
「……うん」
リュミがふわりと肩口へ戻ってきて、安心したように小さくまたたいた。
ラティアはそっと目を細める。
そのやわらかな光が、まだ指先に残る熱を少しだけ和らげてくれる気がした。
カイルが弓を下ろして息を吐く。
「先回り成功、ってとこか」
「ええ」
サラも微笑んだ。
「今回は間に合いました」
けれどレオンは、消えた残滓のあたりをまだ見ていた。
「……でも、気になるな」
「何がだ」
ユリスが問う。
レオンは温室の奥、黒ずんだ花々を見やる。
「弱かった。浅かった。だから助かったとも言えるけど……」
そこで一度言葉を切る。
「試し打ちみたいにも見える」
空気が少し変わる。
ラティアもその言葉に、胸の奥がひやりとした。
試し打ち。
つまり、これで終わりじゃないかもしれないということ。
「戻って話そう」
サラが静かに言う。
「神殿にも報告が必要です」
レオンが頷く。
「そうだね」
ユリスは短く言った。
「行くぞ」
その声で、一行は動き出す。
温室の外へ向かう途中、ラティアは一度だけ振り返った。
さっきまで苦しんでいた少女は、今は静かに眠っている。
花々の間を抜ける風も、少しだけやわらかくなった気がした。
怖かった。
でも、助けられた。
その小さな実感を胸に抱えながら、ラティアは温室の扉をくぐった。
外の空気は、少しだけ冷たくて、ひどくおいしかった。




