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ラング伯爵家の温室は、貴族街の外れにあった。


本邸から少し離れた庭園の奥。

白い石畳の小道を抜けた先に、ガラス張りの大きな建物が見える。


昼の光を受けて、温室はきらきらと明るかった。

けれど近づくほど、ラティアの胸の奥には別のざわめきが広がっていく。


きれいだ。


でも、息が詰まりそうだった。


中に満ちる熱気。

濃い花の香り。

閉じた空気。


生きた植物に囲まれているはずなのに、どこか逃げ道の少ない箱のようにも感じる。


「顔色悪いぞ」


カイルが低く言った。


ラティアははっとして息を吸う。


「……だいじょうぶ」


反射で答えかけて、少しだけ止まる。


無理なら言え。


言葉が胸の奥をかすめる。


「……ちょっと、苦しい」


言い直すと、サラがすぐに周囲を見回した。


「温室の熱と香りですね」


「無理なら外で待つ?」


レオンがやわらかく言う。


問いかける声だった。

押しつける気配はない。


「まだ令嬢の様子を見る前だし、俺たちが先に中を見てもいい」


ラティアは温室の扉を見た。


透明なガラスの向こうで、濃い緑が揺れている。

奥に人影が動いた気もした。


ここで外にいたら、楽かもしれない。


でも——


「……行く」


小さく言う。


「見る」


レオンは少しだけ目を細めたが、止めなかった。


「分かった」


代わりにユリスが前へ出る。


扉を開く役を取るように、自然に一歩前へ。


中からむわっと熱気が流れ出す。


花の香りが一気に濃くなる。


ラティアは思わず眉を寄せた。


そのとき、低い声が落ちる。


「息」


ユリスだった。


ラティアははっとする。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吸って、吐く。


それだけで、ほんの少しだけ足元が戻る。


「……うん」


扉の向こうへ、一行は足を踏み入れた。


温室の中は、外よりさらに異様だった。


色とりどりの花が咲いている。

蔓植物が支柱に絡みつき、南方のものらしい大きな葉が広がっている。

床には水が撒かれたばかりなのか、しっとりと湿っていた。


けれど、その華やかさの中にひどく不穏なものが混じっている。


ラティアの肩が小さく揺れた。


花のいくつかが、根元から黒ずんでいた。


枯れているわけではない。

でも、生気だけを吸われたみたいに、艶がない。


サラも気づいたように目を細める。


「……嫌な気配がありますね」


「伯爵家の人間は?」


ユリスが短く問う。


温室の入口で待っていた執事が、すぐに頭を下げた。


「奥にご令嬢が。医師も呼んではおりますが、熱が下がらず……神殿から診ていただけると聞いて」


「人払いは?」


カイルが確認する。


「侍女が一人ついております。他の者は外へ」


「そのままで」


レオンが口を挟む。


「出入りは制限して。誰も勝手に入れないで」


執事は緊張した顔で頷いた。


温室の奥、白い長椅子にひとりの少女が横たわっていた。


年はラティアより少し下だろうか。

淡い金髪が汗で頬に張りつき、苦しそうに息をしている。


傍らには侍女が膝をついていた。


「お嬢様……」


か細い声。


ラティアが近づいた瞬間、その胸の奥が嫌なふうにざわついた。


いた。


少女の身体の周りに、薄く黒い揺れがまとわりついている。


門前の令嬢よりは弱い。

けれど確かに、残滓だ。


しかも完全に取り憑いているというより、じわじわ染み込んでいる感じが強かった。


「まだ浅い」


ラティアは思わず口にしていた。


全員の視線が向く。


でも今は、それを気にしている余裕がない。


「……たぶん、まだ浅い」


サラが静かに頷いた。


「なら、間に合います」


レオンが息を吐く。


「先回り、成功か」


「油断はするな」


カイルが周囲を見回す。


「こういう時に限って、他にも何かある」


「分かってる」


軽く返しながらも、レオンの目はすでに真面目だった。


ユリスはラティアを見る。


「できるか」


また、その問い。


門前でも聞いた。

神殿でも聞いた。


今度は、少しだけ違う。


前よりも、自分で答えを探せる気がした。


怖い。


人に触れるのは、まだ怖い。


失敗したらどうしようと思う。

壊したらどうしようとも、やっぱり思う。


でも、その恐怖の奥で、別の景色がふっと胸に浮かんだ。


春の結界。


やわらかな光。

芽吹く草。

風に揺れる花。

小さな獣たちが、何の警戒もなく眠っていた場所。


自分が十年かけて積み上げた、閉じた春。


怯えたまま作ったはずなのに、あの中ではたしかに命が息づいていた。


草木はよく育っていた。

精霊も穏やかだった。

生き物は、あの中でのびのびと暮らしていた。


――お前は壊すだけの魔力じゃない。


ユリスに言われた言葉が、静かに胸の奥へ落ちる。


怖いのは消えない。


でも、怖いままでも、手を伸ばせるかもしれない。


ラティアは小さく頷いた。


「……やる」


ユリスはそれ以上何も言わない。


ただ、一歩だけ横へずれた。


いつでも前に出られる位置。

でもラティアの邪魔はしない位置。


それだけで、呼吸が少ししやすくなる。


侍女が不安げに見上げる。


「お嬢様は助かるのでしょうか……」


その問いに、ラティアはやっぱり大丈夫とは言えなかった。


言い切れない。


まだ、自分の力をそこまで信じきれない。


だから代わりに、小さく言った。


「……やってみる」


それだけだった。


でも侍女は、それでも縋るように頷いた。


ラティアは少女のそばに膝をつく。


手首に触れる。


熱い。


けれど、門前の時より少しだけ落ち着いて見られた。


熱の下にあるもの。

呼吸を乱しているもの。

身体の奥に絡みついた黒いざらつき。


ある。


けれど、前より少しだけ分かる。


これは“少女そのもの”じゃない。


外から入り込んで、流れを乱しているものだ。


(……こわい)


心の中で、まず認める。


(でも、見る)


目を逸らさない。


怖さをごまかさない。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


深呼吸。


少女の呼吸に意識を合わせる。


浅い。

速い。

苦しそうだ。


そこへ自分の力を押し込まない。


まず乱れを探す。


ほどく。


絡まった糸をひとつずつ外すみたいに。


そのときだった。


ラティアの肩口に、ふわりとやわらかな光が寄る。


小さな光の精霊――リュミだった。


春の朝のひかりをそのまま掬ったみたいな、淡くやさしい輝き。

心配するように、励ますように、ラティアの頬の近くをくるりと回る。


「……リュミ」


小さく名前を呼ぶと、光の精霊は嬉しそうにまたたいた。


それだけで、胸の奥の強張りがほんの少しほどける。


大丈夫、と言われたわけじゃない。


でも、ひとりではないと思えた。


ラティアの指先に、淡い金色の光が灯った。


ふわり、とやさしい光。


門前の時より少しだけぶれが少ない。


その光には、寄り添うようにリュミの輝きも重なっていた。


サラがすぐそばで祈りを重ねる。


白い光が、ラティアの金色を支えるように広がった。


温室の熱気が、ほんの少しだけ静まる。


少女の眉がぴくりと動く。


黒い靄がわずかに震えた。


「来るかも」


カイルが低く言う。


すでに弓を構えている。


その矢尻には、青白い雷光が小さく走っていた。


レオンも一歩、位置を変える。


ラティアとサラを巻き込まない角度。

残滓が浮いた時に、すぐ術を打てる位置。


その動きは無駄がなく、王都で場数を踏んできた人間のそれだった。


「続けて」


レオンが静かに言う。


軽さを抜いた声。


仕事の顔だった。


ラティアは頷く。


「……うん」


光を少し強める。


押し返すんじゃない。


ほどく。

乱れだけを浮かせる。


少女の熱の奥に沈んでいた黒いものが、じわりと浮き始めた。


嫌がるように震える。


少女の喉が小さく鳴る。


ラティアの心臓も跳ねた。


(こわい)


でも、ここで止めたら戻ってしまう。


息を吸う。


吐く。


自分を戻す。


少女の呼吸に合わせる。


リュミが指先の近くで小さくまたたき、やわらかな光を揺らした。


春の結界で見た、穏やかな光と同じだった。


「あと少しです」


サラの声が静かに支える。


その瞬間だった。


少女の胸元から、ぶわっと黒い靄が浮き上がる。


花の香りを押しのけるように、嫌な気配が広がった。


侍女が悲鳴を呑み込む。


「雷穿」


カイルの声と同時に、矢が走る。


ヒュンッ――!


青白い雷光をまとった矢が、靄の端を正確に裂いた。


バチィッ!!


黒い塊が震え、輪郭が乱れる。


だが完全には消えない。


散った靄が、また少女へ戻ろうと蠢く。


「散れよ」


二射目。


また雷が弾ける。


今度は残滓の動きが大きく鈍った。


そこへレオンの指先から、鋭い光の陣が走る。


「留まれ」


短い詠唱。


空中に浮かんだ薄い魔法陣が、黒い靄の動きを一瞬だけ縛る。


完全な拘束ではない。

でも、その一瞬が大きい。


「ユリス!」


レオンの声。


ユリスはすでに踏み込んでいた。


一閃。


銀の軌跡が、黒い靄を横から断ち切る。


残滓がぎゃっと歪んだ声を上げる。


けれど、まだ消えない。


「ラティア」


ユリスの低い声が飛ぶ。


「続けろ」


ラティアは少女から手を離さない。


うん、とも言えなかった。

でも、光は止めない。


少女の中に残っている黒い澱みを、最後まで外へ押し上げる。

怖い。

でも、前みたいに手がすくまない。


少女の呼吸が、少しずつ整っていく。


熱の流れが変わる。


黒い靄が、完全に身体の外へ弾き出された。


「今」


レオンが短く告げる。


「――紫電一矢」


カイルが引き絞った矢を放つ。


一直線に走った雷の一撃が、靄の中心を撃ち抜いた。


バギィッ!!


核が露わになる。


そこへユリスの剣が、迷いなく落ちた。


「消えろ」


低い声。


次の瞬間、黒い残滓は細く裂け、霧のようにほどけていく。


今度こそ、完全に。


温室の中に、静寂が落ちた。


花の香りだけが残る。


ラティアは少女の額にそっと手を添えた。


まだ熱はある。


でも、さっきまでの刺すような異常な熱ではない。


呼吸も、少しずつ穏やかになっている。


「……落ち着いた」


小さく言うと、サラが脈を確かめて頷いた。


「大丈夫です。峠は越えています」


侍女がその場に崩れ落ちる。


「よかった……っ」


執事も深く頭を下げた。


「本当に……ありがとうございます」


ラティアはその言葉に、うまく返せなかった。


ただ少女の顔を見る。


苦しそうに寄っていた眉が、もうほどけている。


壊さなかった。


ちゃんと、助けられた。


その実感が、じわじわと胸の奥へ広がる。


怖かった。


今もまだ、少し手は震えている。


でも――門前の時より、少しだけ前に進めた気がした。


立ち上がろうとした瞬間、ふらりと身体が揺れた。


その腕を、すぐに誰かが支える。


「……あ」


ユリスだった。


一言もなく、倒れない程度に支えて、立て直す。


強すぎない。

でも迷いのない手。


ラティアの胸が小さく鳴る。


「だいじょうぶ」


言うと、ユリスは短く返した。


「顔色はよくない」


「……少しだけ、熱いだけ」


「外出ろ」


命令みたいな短さだった。


けれど、その声に逆らう気にはなれない。


「うん……」


その様子を、レオンが少し離れたところから見ていた。


何か言いかけるように目を細めて、でも結局は軽く笑う。


「頑張りすぎ」


やわらかい声。


責めるでもなく、茶化すでもない。


「今日はちゃんと休んだ方がいいよ」


ラティアは小さく頷く。


「……うん」


リュミがふわりと肩口へ戻ってきて、安心したように小さくまたたいた。


ラティアはそっと目を細める。


そのやわらかな光が、まだ指先に残る熱を少しだけ和らげてくれる気がした。


カイルが弓を下ろして息を吐く。


「先回り成功、ってとこか」


「ええ」


サラも微笑んだ。


「今回は間に合いました」


けれどレオンは、消えた残滓のあたりをまだ見ていた。


「……でも、気になるな」


「何がだ」


ユリスが問う。


レオンは温室の奥、黒ずんだ花々を見やる。


「弱かった。浅かった。だから助かったとも言えるけど……」


そこで一度言葉を切る。


「試し打ちみたいにも見える」


空気が少し変わる。


ラティアもその言葉に、胸の奥がひやりとした。


試し打ち。


つまり、これで終わりじゃないかもしれないということ。


「戻って話そう」


サラが静かに言う。


「神殿にも報告が必要です」


レオンが頷く。


「そうだね」


ユリスは短く言った。


「行くぞ」


その声で、一行は動き出す。


温室の外へ向かう途中、ラティアは一度だけ振り返った。


さっきまで苦しんでいた少女は、今は静かに眠っている。


花々の間を抜ける風も、少しだけやわらかくなった気がした。


怖かった。


でも、助けられた。


その小さな実感を胸に抱えながら、ラティアは温室の扉をくぐった。


外の空気は、少しだけ冷たくて、ひどくおいしかった。

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