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白い扉の向こうは、外の空気よりさらに静かだった。


高い天井。

磨かれた床。

白い柱。

壁に刻まれた古い祈りの文様。


足音がひどくよく響く。


外の王都が華やかな場所なら、ここは音まで整えられた場所だった。


ラティアは中へ入った瞬間、思わず息を浅くする。


広い。


静かすぎる。


少しでも大きな音を立てたら、すぐに振り向かれそうだった。


けれど、足は止めない。


前。

呼吸。

立つ位置。


守り紐に触れたい気持ちをこらえて、ラティアはユリスの背を追った。


案内の神官は、回廊を二度曲がり、奥の応接室らしい扉の前で立ち止まった。


「こちらへ」


扉が開かれる。


中にはすでに数人の人影があった。


年配の神官。

神殿騎士らしい男。

見覚えのある侍女。

そして、門前でも見たベネディクト子爵家の御者。


侍女はラティアたちの姿を見るなり、ぱっと顔を上げた。


「……!」


目元が赤い。


もう泣き疲れたのか、それともまだ気を張っているのか、表情が固い。


「お嬢様は?」


サラが静かに問う。


侍女は慌てて一礼した。


「先ほど神殿の奥へお運びいただきました。まだお眠りですが、熱は下がってきたと……」


その声には、たしかな安堵が混じっていた。


サラもわずかに頷く。


「それはよかった」


部屋の中央にいた年配の神官が、一歩前へ出る。


灰色の髪をきっちりと撫でつけ、白と金の法衣を隙なく着込んでいる。

やわらかく微笑んではいるが、その目はよく人を見ていた。


「お待ちしておりました、勇者ユリス殿。そして皆様」


落ち着いた声だった。


「私は神殿長補佐、エドガルドと申します」


サラが一礼し、カイルが軽く手を上げる。

レオンも慣れた調子で会釈した。


ユリスは短く答える。


「話を聞く」


「ええ」


エドガルド補佐は頷いた。


「門前で起きた異変の件、すでにベネディクト子爵家、神殿、そして魔導院の間で共有が始まっています。表向きは急病として処理しておりますが……」


そこで少しだけ言葉を切る。


「単なる病ではない、という認識でほぼ一致しております」


レオンが壁際に寄りかかりそうな気安さで立ちながら、しかし目だけは真面目に向けた。


「魔導院にも、似た報告がいくつか来てる」


「やはり」


エドガルド補佐が目を細める。


「神殿にも、ここひと月ほどで類似の相談が三件ありました」


カイルが眉を上げた。


「三件?」


「高熱、悪夢、突然の衰弱、魔力の乱れ。いずれも表向きは別の病として扱われております」


「黒い靄は?」


サラが問う。


「見たという証言はあります」


神官補佐の答えは静かだった。


「ただし、誰もが見たわけではありません。見えた者と見えぬ者がいる」


その言葉に、ラティアの指先がわずかに強張る。


見える人と、見えない人。


やっぱり、あれは誰にでも分かるものではないのだ。


「門前の件では、侍女と御者は見ていませんでした」


エドガルド補佐が続ける。


「ですが、令嬢の異常な熱と、馬の興奮、そして……」


そこで、初めてラティアへ視線が向いた。


やわらかい。

でも、探るようでもある。


「あなたが触れた直後に異変が浮き上がったと聞いております」


ラティアの胸が小さく鳴る。


見られている。


部屋に入ってからずっと感じていたそれが、少しだけ形を持った。


「……はい」


声は少し小さくなった。


補佐は責めなかった。


ただ、落ち着いて頷く。


「恐れずにお話しください。責任を問うための場ではありません」


その言い方が逆に緊張を呼ぶ。


責任を問わない、とわざわざ言われると、今はまだそこに線引きがあるのだと分かってしまう。


ラティアは無意識に、部屋の出口の位置を確かめた。


右手後方。

遠くはない。


でも簡単にも出られない。


「ラティア」


低い声。


ユリスだった。


名前を呼ばれて、ラティアははっとする。


振り向くと、ユリスはいつもと同じ顔で立っていた。


特別やさしいわけでもない。

励ますように笑うわけでもない。


ただ、ここにいると言うみたいに。


「見たままを言え」


短い言葉。


でも、その一言で少し息が戻る。


全部を説明しなくていい。

上手く話そうとしなくていい。

見たままでいい。


ラティアは小さく頷いた。


「……黒い靄が、ありました」


部屋の視線が集まる。


それでも、さっきよりは話せる。


「熱みたいに見えたけど、普通じゃなくて……中に、残る感じがして」


言葉を探す。


うまく説明できない。


けれど黙るよりはましだと思った。


「雪山で感じたのと似てました。村で出た残滓とも……」


「残滓、か」


エドガルド補佐がゆっくり繰り返す。


「その表現は、レオン殿からも聞いております」


レオンが肩をすくめる。


「魔物っていうには形が曖昧で、でもただの魔力の濁りとも違う。今のところそれが一番近いかなって」


神殿騎士の男が腕を組んだ。


「それが、王都で複数……」


「断定はまだできません」


補佐はすぐに制した。


「ですが、無関係とも言い切れない」


サラが静かに口を開く。


「神殿で確認された三件は、どのような方々ですか?」


「一人は下級貴族の少年。二人目は神殿に奉仕する見習いの娘。三人目は商家の妻」


「身分も立場もばらばらですね」


「ええ。共通点は薄い」


カイルが壁に肩を預け、鋭い目で言う。


「本当に薄いか?」


全員の視線が向く。


カイルは指で机を軽く叩いた。


「年齢も立場も違う。住んでる場所も違う。そういう時に逆に怪しいのは、“人”じゃなく“場所”の方だ」


レオンの目が細まる。


「……結界線か」


「かもな」


カイルが頷く。


「王都の中で変なもんが流れてるなら、どっか筋がある」


エドガルド補佐は少し黙り、それから神殿騎士へ視線を向けた。


「地図を」


騎士がすぐに丸めた羊皮紙を机に広げる。


王都の見取り図だった。


中央区画、貴族街、下町、神殿区、魔導院区画。

細い線と記号がいくつも走っている。


ラティアには一目では分からない。

でも、見た瞬間に胸の奥が少しざわついた。


「神殿管理の結界線はこちら」


補佐が白い線を指す。


「魔導院管理が青。王城側の封鎖区画は赤で記されています」


レオンも近づいて地図を見る。


「神殿の三件と門前のベネディクト子爵家の位置、重ねられる?」


神官が別の印を置いていく。


赤。

青。

白。


四つの点が置かれた瞬間、カイルが舌打ちした。


「やっぱ近い」


「近いですね」


サラも眉を寄せる。


「古い結界の継ぎ目に沿っているように見えます」


レオンが地図の一角を指先でなぞる。


「この線、魔導院でも補修予定が出てた。劣化がどうとかで」


「申請だけは来ていました」


エドガルド補佐が答える。


「ただ、優先度は高くなかったはずです」


「今は高いかもね」


レオンの声から、軽さが少し薄れる。


ラティアは地図を見つめたまま、小さく息を呑んだ。


線そのものが見えるわけではない。


でも、印の置かれた場所を追っていくと、嫌な感じが点ではなく流れになっている気がした。


じわじわと広がる黒いもの。

見えない川みたいに、王都の下を這っている感じ。


「……いやな感じがする」


ぽつりと零れた声に、部屋が静まる。


ラティアははっとした。


また勝手に口に出していた。


でも、エドガルド補佐は眉ひとつ動かさない。


「どのように?」


問われて、ラティアは困る。


説明が難しい。


「……つながってる、みたいな」


「つながってる?」


「点じゃなくて……流れてる、感じ」


言いながら、自分でも曖昧だと思う。


けれどレオンはすぐに地図へ目を戻した。


「それ、たぶん当たり」


「レオン殿?」


「王都の結界って、独立して見えても地下の魔力路で繋がってる部分があるんだよ。全部じゃないけど」


カイルが小さく口角を上げる。


「へえ。便利な案内役」


「褒めてる?」


「半分な」


少しだけ空気が緩む。


その隙に、ラティアはようやく小さく息を吐いた。


けれど、その直後だった。


エドガルド補佐が静かに告げる。


「実は、本日もう一件、似た相談が入っております」


空気がまた張る。


「どこだ」


ユリスの問いは短い。


「貴族街の外れにある温室です。ラング伯爵家のご息女が、原因不明の熱を出していると」


レオンが眉をひそめる。


「温室……」


「まだ表向きは体調不良です」


補佐は続ける。


「ですが、門前の件を受けて、念のため神殿でも様子を見ることになりました」


「念のためじゃ遅いかもしれん」


カイルが言う。


「さっきの令嬢みたいに、悪化前ならまだ軽い可能性もある」


サラがラティアを見る。


その視線は、押しつけるものではなかった。

けれど問いかけではある。


ラティアの胸がぎゅっと鳴る。


また、人。


しかも今度は、門前みたいに偶然居合わせたわけじゃない。

自分から行くかどうかを選ぶ形になる。


怖い。


まだ、怖い。


でも——地図の上の印を思い出す。


つながっている。

広がっている。


見過ごしたら、また誰かが苦しむかもしれない。


ラティアが口を開くより先に、レオンが言った。


「俺も行く」


補佐が頷く。


「もちろんです。魔導院側の立ち会いも必要でしょう」


「人払いと出入りの制限は?」


カイルが確認する。


「こちらで手配します」


「なら早い方がいい」


ユリスが結論だけを置く。


その声に迷いはない。


行くと決まった空気が、もう部屋の中にできていた。


ラティアは小さく喉を鳴らす。


逃げたいわけじゃない。

でも、まだ平気にはなれない。


そのとき、椅子の背に置いていた自分の手が、わずかに震えているのに気づいた。


すぐ近くで、衣擦れの音がした。


ユリスが一歩、横にずれる。


それだけ。


でも、ラティアと部屋の中央の視線の間に、ほんの少しだけ壁ができた気がした。


「ラティア」


低い声。


名前を呼ばれる。


「無理なら言え」


昨日も聞いた言葉。


今日、何度も支えられた言葉。


ラティアは息を吸う。


ひとつ。

ふたつ。

みっつ。


吐く。


「……行く」


小さい。

けれど、ちゃんと出た。


ユリスはそれ以上何も言わない。


ただ、否定も止めもしなかった。


レオンがそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。


けれどすぐに笑う。


「じゃあ決まりだね」


軽い調子に戻した声。


「今度は発症前に止めたい」


「ええ」


サラが頷く。


「間に合えば、門前よりは負担も軽いはずです」


エドガルド補佐が神官へ指示を飛ばす。


「ラング伯爵家へ使いを。神殿からも人員を出します。表向きは高熱の診察という形で」


「はっ」


神官が部屋を出ていく。


地図はまだ机の上に広げられたままだった。


王都の白い線。

赤い印。

静かに広がる違和感。


ラティアはその地図を見つめながら、胸の奥でひとつだけはっきりしたことを感じていた。


門前の件は、あれで終わりではない。


これは偶然でも、単発でもない。


王都のきれいな石の下で、何かがもう動いている。


そして自分たちは、その流れのすぐそばに立ってしまったのだ。


エドガルド補佐が一同を見渡す。


「皆様、どうかご助力を。王都の中でこのような異変が広がることは、神殿としても看過できません」


ユリスは短く頷いた。


レオンは軽く片手を上げる。


カイルは口元だけで笑い、サラは静かに一礼した。


ラティアも、小さく頷く。


怖さは消えない。


それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


次の異変は、もう待ってくれない

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