46
白い扉の向こうは、外の空気よりさらに静かだった。
高い天井。
磨かれた床。
白い柱。
壁に刻まれた古い祈りの文様。
足音がひどくよく響く。
外の王都が華やかな場所なら、ここは音まで整えられた場所だった。
ラティアは中へ入った瞬間、思わず息を浅くする。
広い。
静かすぎる。
少しでも大きな音を立てたら、すぐに振り向かれそうだった。
けれど、足は止めない。
前。
呼吸。
立つ位置。
守り紐に触れたい気持ちをこらえて、ラティアはユリスの背を追った。
案内の神官は、回廊を二度曲がり、奥の応接室らしい扉の前で立ち止まった。
「こちらへ」
扉が開かれる。
中にはすでに数人の人影があった。
年配の神官。
神殿騎士らしい男。
見覚えのある侍女。
そして、門前でも見たベネディクト子爵家の御者。
侍女はラティアたちの姿を見るなり、ぱっと顔を上げた。
「……!」
目元が赤い。
もう泣き疲れたのか、それともまだ気を張っているのか、表情が固い。
「お嬢様は?」
サラが静かに問う。
侍女は慌てて一礼した。
「先ほど神殿の奥へお運びいただきました。まだお眠りですが、熱は下がってきたと……」
その声には、たしかな安堵が混じっていた。
サラもわずかに頷く。
「それはよかった」
部屋の中央にいた年配の神官が、一歩前へ出る。
灰色の髪をきっちりと撫でつけ、白と金の法衣を隙なく着込んでいる。
やわらかく微笑んではいるが、その目はよく人を見ていた。
「お待ちしておりました、勇者ユリス殿。そして皆様」
落ち着いた声だった。
「私は神殿長補佐、エドガルドと申します」
サラが一礼し、カイルが軽く手を上げる。
レオンも慣れた調子で会釈した。
ユリスは短く答える。
「話を聞く」
「ええ」
エドガルド補佐は頷いた。
「門前で起きた異変の件、すでにベネディクト子爵家、神殿、そして魔導院の間で共有が始まっています。表向きは急病として処理しておりますが……」
そこで少しだけ言葉を切る。
「単なる病ではない、という認識でほぼ一致しております」
レオンが壁際に寄りかかりそうな気安さで立ちながら、しかし目だけは真面目に向けた。
「魔導院にも、似た報告がいくつか来てる」
「やはり」
エドガルド補佐が目を細める。
「神殿にも、ここひと月ほどで類似の相談が三件ありました」
カイルが眉を上げた。
「三件?」
「高熱、悪夢、突然の衰弱、魔力の乱れ。いずれも表向きは別の病として扱われております」
「黒い靄は?」
サラが問う。
「見たという証言はあります」
神官補佐の答えは静かだった。
「ただし、誰もが見たわけではありません。見えた者と見えぬ者がいる」
その言葉に、ラティアの指先がわずかに強張る。
見える人と、見えない人。
やっぱり、あれは誰にでも分かるものではないのだ。
「門前の件では、侍女と御者は見ていませんでした」
エドガルド補佐が続ける。
「ですが、令嬢の異常な熱と、馬の興奮、そして……」
そこで、初めてラティアへ視線が向いた。
やわらかい。
でも、探るようでもある。
「あなたが触れた直後に異変が浮き上がったと聞いております」
ラティアの胸が小さく鳴る。
見られている。
部屋に入ってからずっと感じていたそれが、少しだけ形を持った。
「……はい」
声は少し小さくなった。
補佐は責めなかった。
ただ、落ち着いて頷く。
「恐れずにお話しください。責任を問うための場ではありません」
その言い方が逆に緊張を呼ぶ。
責任を問わない、とわざわざ言われると、今はまだそこに線引きがあるのだと分かってしまう。
ラティアは無意識に、部屋の出口の位置を確かめた。
右手後方。
遠くはない。
でも簡単にも出られない。
「ラティア」
低い声。
ユリスだった。
名前を呼ばれて、ラティアははっとする。
振り向くと、ユリスはいつもと同じ顔で立っていた。
特別やさしいわけでもない。
励ますように笑うわけでもない。
ただ、ここにいると言うみたいに。
「見たままを言え」
短い言葉。
でも、その一言で少し息が戻る。
全部を説明しなくていい。
上手く話そうとしなくていい。
見たままでいい。
ラティアは小さく頷いた。
「……黒い靄が、ありました」
部屋の視線が集まる。
それでも、さっきよりは話せる。
「熱みたいに見えたけど、普通じゃなくて……中に、残る感じがして」
言葉を探す。
うまく説明できない。
けれど黙るよりはましだと思った。
「雪山で感じたのと似てました。村で出た残滓とも……」
「残滓、か」
エドガルド補佐がゆっくり繰り返す。
「その表現は、レオン殿からも聞いております」
レオンが肩をすくめる。
「魔物っていうには形が曖昧で、でもただの魔力の濁りとも違う。今のところそれが一番近いかなって」
神殿騎士の男が腕を組んだ。
「それが、王都で複数……」
「断定はまだできません」
補佐はすぐに制した。
「ですが、無関係とも言い切れない」
サラが静かに口を開く。
「神殿で確認された三件は、どのような方々ですか?」
「一人は下級貴族の少年。二人目は神殿に奉仕する見習いの娘。三人目は商家の妻」
「身分も立場もばらばらですね」
「ええ。共通点は薄い」
カイルが壁に肩を預け、鋭い目で言う。
「本当に薄いか?」
全員の視線が向く。
カイルは指で机を軽く叩いた。
「年齢も立場も違う。住んでる場所も違う。そういう時に逆に怪しいのは、“人”じゃなく“場所”の方だ」
レオンの目が細まる。
「……結界線か」
「かもな」
カイルが頷く。
「王都の中で変なもんが流れてるなら、どっか筋がある」
エドガルド補佐は少し黙り、それから神殿騎士へ視線を向けた。
「地図を」
騎士がすぐに丸めた羊皮紙を机に広げる。
王都の見取り図だった。
中央区画、貴族街、下町、神殿区、魔導院区画。
細い線と記号がいくつも走っている。
ラティアには一目では分からない。
でも、見た瞬間に胸の奥が少しざわついた。
「神殿管理の結界線はこちら」
補佐が白い線を指す。
「魔導院管理が青。王城側の封鎖区画は赤で記されています」
レオンも近づいて地図を見る。
「神殿の三件と門前のベネディクト子爵家の位置、重ねられる?」
神官が別の印を置いていく。
赤。
青。
白。
四つの点が置かれた瞬間、カイルが舌打ちした。
「やっぱ近い」
「近いですね」
サラも眉を寄せる。
「古い結界の継ぎ目に沿っているように見えます」
レオンが地図の一角を指先でなぞる。
「この線、魔導院でも補修予定が出てた。劣化がどうとかで」
「申請だけは来ていました」
エドガルド補佐が答える。
「ただ、優先度は高くなかったはずです」
「今は高いかもね」
レオンの声から、軽さが少し薄れる。
ラティアは地図を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
線そのものが見えるわけではない。
でも、印の置かれた場所を追っていくと、嫌な感じが点ではなく流れになっている気がした。
じわじわと広がる黒いもの。
見えない川みたいに、王都の下を這っている感じ。
「……いやな感じがする」
ぽつりと零れた声に、部屋が静まる。
ラティアははっとした。
また勝手に口に出していた。
でも、エドガルド補佐は眉ひとつ動かさない。
「どのように?」
問われて、ラティアは困る。
説明が難しい。
「……つながってる、みたいな」
「つながってる?」
「点じゃなくて……流れてる、感じ」
言いながら、自分でも曖昧だと思う。
けれどレオンはすぐに地図へ目を戻した。
「それ、たぶん当たり」
「レオン殿?」
「王都の結界って、独立して見えても地下の魔力路で繋がってる部分があるんだよ。全部じゃないけど」
カイルが小さく口角を上げる。
「へえ。便利な案内役」
「褒めてる?」
「半分な」
少しだけ空気が緩む。
その隙に、ラティアはようやく小さく息を吐いた。
けれど、その直後だった。
エドガルド補佐が静かに告げる。
「実は、本日もう一件、似た相談が入っております」
空気がまた張る。
「どこだ」
ユリスの問いは短い。
「貴族街の外れにある温室です。ラング伯爵家のご息女が、原因不明の熱を出していると」
レオンが眉をひそめる。
「温室……」
「まだ表向きは体調不良です」
補佐は続ける。
「ですが、門前の件を受けて、念のため神殿でも様子を見ることになりました」
「念のためじゃ遅いかもしれん」
カイルが言う。
「さっきの令嬢みたいに、悪化前ならまだ軽い可能性もある」
サラがラティアを見る。
その視線は、押しつけるものではなかった。
けれど問いかけではある。
ラティアの胸がぎゅっと鳴る。
また、人。
しかも今度は、門前みたいに偶然居合わせたわけじゃない。
自分から行くかどうかを選ぶ形になる。
怖い。
まだ、怖い。
でも——地図の上の印を思い出す。
つながっている。
広がっている。
見過ごしたら、また誰かが苦しむかもしれない。
ラティアが口を開くより先に、レオンが言った。
「俺も行く」
補佐が頷く。
「もちろんです。魔導院側の立ち会いも必要でしょう」
「人払いと出入りの制限は?」
カイルが確認する。
「こちらで手配します」
「なら早い方がいい」
ユリスが結論だけを置く。
その声に迷いはない。
行くと決まった空気が、もう部屋の中にできていた。
ラティアは小さく喉を鳴らす。
逃げたいわけじゃない。
でも、まだ平気にはなれない。
そのとき、椅子の背に置いていた自分の手が、わずかに震えているのに気づいた。
すぐ近くで、衣擦れの音がした。
ユリスが一歩、横にずれる。
それだけ。
でも、ラティアと部屋の中央の視線の間に、ほんの少しだけ壁ができた気がした。
「ラティア」
低い声。
名前を呼ばれる。
「無理なら言え」
昨日も聞いた言葉。
今日、何度も支えられた言葉。
ラティアは息を吸う。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
「……行く」
小さい。
けれど、ちゃんと出た。
ユリスはそれ以上何も言わない。
ただ、否定も止めもしなかった。
レオンがそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
けれどすぐに笑う。
「じゃあ決まりだね」
軽い調子に戻した声。
「今度は発症前に止めたい」
「ええ」
サラが頷く。
「間に合えば、門前よりは負担も軽いはずです」
エドガルド補佐が神官へ指示を飛ばす。
「ラング伯爵家へ使いを。神殿からも人員を出します。表向きは高熱の診察という形で」
「はっ」
神官が部屋を出ていく。
地図はまだ机の上に広げられたままだった。
王都の白い線。
赤い印。
静かに広がる違和感。
ラティアはその地図を見つめながら、胸の奥でひとつだけはっきりしたことを感じていた。
門前の件は、あれで終わりではない。
これは偶然でも、単発でもない。
王都のきれいな石の下で、何かがもう動いている。
そして自分たちは、その流れのすぐそばに立ってしまったのだ。
エドガルド補佐が一同を見渡す。
「皆様、どうかご助力を。王都の中でこのような異変が広がることは、神殿としても看過できません」
ユリスは短く頷いた。
レオンは軽く片手を上げる。
カイルは口元だけで笑い、サラは静かに一礼した。
ラティアも、小さく頷く。
怖さは消えない。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
次の異変は、もう待ってくれない




