44
王都の中央通りをしばらく進むと、通りの幅はさらに広くなった。
石畳はよく磨かれ、両脇の建物も宿場町のものとは比べものにならないほど大きい。
高い窓。
白い壁。
王都の紋章を掲げた建物。
行き交う人々の服も、どこか洗練されて見えた。
ラティアはきょろきょろしそうになるたびに、ぐっと正面を見る。
前。
呼吸。
立つ位置。
昨日、今日と繰り返してきたことを、頭の中でなぞる。
「慣れたか?」
カイルが横から言う。
ラティアは少し考えてから答えた。
「……全然」
カイルが吹き出す。
「正直だな」
「でも」
ラティアは小さく続ける。
「最初よりは、ちゃんと歩けてる」
サラがやわらかく微笑んだ。
「十分です」
ユリスはその少し前を歩いている。
人波を割るようにではなく、ただ自然に道が空いていくような歩き方だった。
その背中を見ていると、不思議と自分も歩ける気がする。
やがて一行は、神殿へ続くらしい白い石畳の道へ入った。
中央通りの喧騒から少し離れたその一角は、空気まで違っていた。
静かで、ひんやりしていて、どこか張りつめている。
ラティアが足元を見て歩いていた、そのときだった。
「――ユリス?」
明るい声が飛んだ。
ラティアは思わず顔を上げる。
前方の石段の上に、一人の男が立っていた。
黒髪だった。
陽の光を受けて、やわらかく揺れる髪。
すらりとした立ち姿。
けれど細すぎず、しなやかな強さを感じさせる体つき。
長衣の上に、魔導院らしい濃紺の外套を羽織っている。
その胸元には、金糸で魔法陣を模した紋章が刺繍されていた。
男は一瞬、ユリスを見ていた。
けれど次の瞬間、その視線がラティアへ移る。
止まる。
空気が、ほんのわずかに変わった気がした。
男の目が見開かれる。
明るい琥珀色の瞳が、信じられないものを見たように揺れた。
その顔を見た瞬間、ラティアの胸の奥が強く痛んだ。
懐かしい、と思うより先に浮かんだのは、あの日のことだった。
暴走した魔力が、レオンを弾いた。
苦しそうに息を呑んだ顔。
腕に滲んだ血。
傷つけた。
触れたかったわけじゃない。
傷つけたかったわけでもない。
でも、傷つけたのは事実だった。
ちゃんと謝れなかった。
ちゃんと別れも言えなかった。
怖くなって、何も言わずに離れてしまった。
そして――それが、山に籠ると決めたきっかけだった。
もう誰も傷つけたくないと、そう思った。
それなのに。
目の前のレオンは、そんなことを責めるより先に、会えたことに息を止めているように見える。
そのことが、少しだけ苦しかった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
同時に、空気がほんのわずかに揺れた。
ラティアの指先に、淡い光がにじみかける。
ほんの一瞬。
けれど確かに、魔力が心の揺れに引かれていた。
「……っ」
ラティアは咄嗟に守り紐を握る。
呼吸。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吸って、吐く。
揺れはすぐに小さくなった。
でも、胸の奥の痛みまでは消えない。
ユリスの視線が、ほんの一瞬だけラティアの指先へ落ちた。
何も言わない。
けれど、その沈黙が「気づいている」と告げている気がした。
「……え」
その声は、さっきまでの軽さを失っていた。
ラティアの胸が、どくんと鳴る。
男は石段を一段、二段と下りてくる。
ためらいがない。
けれど途中で、ユリスの隣まで来たところでぴたりと止まった。
近い。
でも、いきなり踏み込みすぎない。
その距離感だけで、相手が人に慣れていることが分かった。
「……ラティア?」
低くなった声。
けれど、やわらかい。
名前を確かめるみたいに呼ばれて、ラティアは目を瞬いた。
「え……」
男は少しだけ笑った。
笑ったのに、その目はまだ信じきれていないみたいに揺れている。
「やっぱり」
息を吐くみたいに言う。
「うそだろ。ほんとに?」
ラティアの喉がわずかに鳴る。
その声音が、ひどく懐かしい気がした。
でも、懐かしさだけでは受け止めきれない。
「……レオン?」
ぽつりと零れた声は、自分で思っていたよりずっと弱かった。
名前を呼べたことに少しだけ安堵して、同時に胸が痛んだ。
男――レオンの顔が、ぱっと明るくなる。
その表情があまりにもまっすぐで、ラティアは思わず目を見開いた。
「覚えてた」
嬉しそうに言う。
「うわ、よかった。忘れられてたらちょっと立ち直れないとこだった」
そう言って、レオンは石段を降りる足を少しだけ速めた。
一段。
二段。
三段。
ためらいなく近づいてくる。
けれどラティアの目の前まで来たところで、ふいに足が止まった。
近い。
明るい琥珀色の瞳が、信じるように、確かめるようにラティアを見る。
「ほんとに……ラティアだ」
掠れたような声だった。
その手が、ゆっくりと持ち上がる。
抱きしめるように、肩へ伸びかけて――止まった。
指先が、行き場をなくしたみたいにわずかに揺れる。
触れたいのに、触れていいのか分からない。
そんなためらいが、その一瞬に滲んでいた。
ラティアの胸が、どくんと鳴る。
レオンは小さく息を吐いて、困ったように笑った。
「……急に近すぎたか」
そう言って、伸ばしかけた手を引く。
けれどその目はやわらかいままで、会えたことをまだ信じきれていないみたいに揺れていた。
その様子に、カイルがにやっとする。
「知り合いか?」
レオンはラティアから目を離さないまま答える。
「知り合い、っていうか……」
少しだけ言葉を探して、それから笑う。
「昔から知ってる」
ラティアの胸が、また小さく揺れた。
昔。
その言葉に、幼い頃のぼやけた記憶がかすかに触れた気がする。
春の結界に閉じこもる前。
まだ、誰かと繋がっていた頃。
黒髪の、よく笑う男の子。
サラが穏やかに一礼した。
「はじめまして。私たちは――」
「ああ、ごめん」
レオンがそこでようやくちゃんと全員を見る。
「名乗るの遅れた」
軽く肩をすくめて、でもどこか余裕のある仕草で言った。
「レオン・アルヴェル。王国付きの魔導士やってる」
カイルが眉を上げる。
「お抱えかよ」
「そうそう。意外と偉いんだよ、俺」
そう言って笑う。
その軽さは人懐っこいのに、不思議と安っぽくない。
ちゃんと実力がある人間の余裕、みたいなものがあった。
ラティアはまだ少し呆然としていた。
レオン。
名前を呼んだ瞬間、記憶の奥に薄く霞んでいたものが少しだけ輪郭を持った。
幼い頃。
自分より少し年上の少年。
よく喋って、よく笑って、近くにいた人。
そして、自分が傷つけた人。
でも、目の前のレオンはもう“少年”ではなかった。
背が高い。
声も低い。
笑う口元には昔の面影があるのに、ふとした瞬間の目が妙に男っぽい。
その違いに、ラティアは少しだけ戸惑う。
レオンはそんなラティアをじっと見ていた。
長い。
見られている時間が、少し長い。
「……大きくなったね」
やわらかく言う。
「びっくりするくらい」
ラティアの頬が少し熱くなる。
どう返せばいいか分からず、口を開きかけて閉じた。
その様子に、レオンがふっと笑う。
「その顔は変わってない」
懐かしそうな声だった。
「困るとちょっと固まるやつ」
ラティアはますます言葉に詰まる。
あの日、自分を傷つけた相手に、どうしてそんなふうにやさしく笑えるんだろうと思ってしまう。
「……レオンも」
やっと絞り出す。
「変わった」
「うん?」
レオンが首を傾げる。
ラティアは少しだけ視線を逸らした。
「なんか……大きい」
カイルが吹き出した。
サラも肩を揺らす。
レオンは一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
「なにそれ」
楽しそうだった。
その笑い方が、昔の記憶の中の輪郭と重なる。
ラティアの胸のざわつきが、少しだけやわらいだ。
けれど同時に、あの時の痛みを自分だけがまだ引きずっているような気もして、少し苦い。
レオンは笑いながらも、ラティアの髪に結ばれた守り紐へふと視線を落とした。
その目が、ほんの一瞬だけ細まる。
「……へえ」
小さく、でもちゃんと聞こえる声。
ラティアがきょとんとする。
レオンは何でもないように笑って戻した。
「いや、似合ってるなと思って」
その言葉に、ラティアは少しだけ耳が熱くなる。
ユリスはそのやり取りを黙って見ていた。
何も言わない。
ただ、レオンの視線がラティアに落ちるたび、その横顔が少しだけ硬い気がした。
レオンはそんな空気に気づいているのかいないのか、あっさりとユリスへ向き直る。
「で、なんでラティアと一緒にいるの?」
軽い口調。
でも、言葉の芯は意外なほどまっすぐだった。
ユリスは短く答える。
「成り行きだ」
「雑だなあ」
レオンが笑う。
「もっとこう、いろいろあるだろ」
「あるが、今話す必要はない」
「冷たい」
そう言いつつ、レオンはまったく気を悪くした様子がない。
むしろ慣れている感じだった。
カイルが小さく呟く。
「この二人、知り合いか」
サラが静かに答える。
「そんな感じですね」
レオンはふっとラティアを見る。
「とにかく、会えてよかった」
その声は、さっきより少しだけやわらかかった。
「ほんとに」
ラティアはその言葉をまともに受け止めきれず、少しだけ視線を揺らす。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
懐かしい。
でも、近い。
優しい。
でも、少しだけ苦い。
自分はこの人を傷つけたのに、どうしてこんなふうに会えてよかったと言ってくれるんだろう。
そのことが、嬉しいのに少し痛かった。
ラティアはそっと守り紐に触れた。
すると、その動きを見たレオンの目がまた一瞬だけ細くなった。
けれど今度も何も言わない。
代わりに、明るい声で言った。
「ちょうどよかった。俺も神殿に呼ばれてたとこなんだ」
「呼ばれてた?」
サラが首を傾げる。
レオンは頷いた。
「門前の件」
その一言に、場の空気が少し締まる。
「ベネディクト子爵家の令嬢だろ? 魔導院にも連絡きてる」
レオンの表情から笑みは消えていない。
けれど、声には仕事の顔が混ざっていた。
「詳しい話、たぶん俺も聞くことになる」
そう言ってから、ラティアを見る。
「君にも」
ラティアの胸が小さく鳴った。
王都へ着いたばかりなのに、もう新しい出来事が動き始めている。
そして、その中心に自分もいるらしい。
ユリスが短く言う。
「なら話は早い」
「だね」
レオンはあっさり頷く。
それから少しだけ笑って、ラティアへ向かって言った。
「久しぶりの再会が門前の異変つきって、相変わらずだなあ」
ラティアは目を瞬く。
「……相変わらず?」
「昔から、放っておくといろいろ起きてた」
「起こしてない」
「起きてた、かな」
言い直しながら笑う。
その言い方があまりに自然で、ラティアは少しだけむっとしながらも、どこか安心してしまう。
ユリスが一歩前へ出た。
「行くぞ」
短い声。
その言葉で、空気が少し引き締まる。
レオンは肩をすくめた。
「はいはい。じゃあ案内するよ」
そう言って、ためらいなくラティアの少し前へ立つ。
けれど次の瞬間、ほんの一拍だけ止まって、振り返った。
「……あ」
明るく笑う。
「無理してなければ、だけど」
その言い方がやさしくて、ラティアは少しだけ目を見開いた。
それから、小さく頷く。
「……うん」
王都の石畳の上を、六人分の足音が重なる。
知らない街の真ん中で、昔を知る存在が隣にいる。
そのことが、ラティアの胸をまた少しだけざわつかせた。
でも――
そのざわつきは、懐かしさだけでも、怖さだけでもなかった。




