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王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
人の声。
馬の蹄の音。
荷車の車輪が石を鳴らす音。
それらが幾重にも重なって、ひとつの大きなうねりのようにラティアの耳へ流れ込んでくる。
高い建物。
ずらりと並ぶ店。
石畳の広い通り。
見上げるほどの外壁。
どこを見ても、人がいた。
ラティアは思わず立ち止まりそうになる。
「……っ」
息が少し浅くなる。
守り紐に触れる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
出口。
立つ位置。
呼吸。
ユリスに教わったことを、胸の中で繰り返す。
「ラティア」
サラのやわらかい声がした。
ラティアははっと顔を上げる。
サラはすぐ隣にいた。
「大丈夫です。ゆっくりで」
「……うん」
小さく頷く。
前を見ると、ユリスとカイルは少し先で足を止めていた。
置いていかない程度の距離。
ちゃんと待ってくれている距離。
それだけで、少しだけ胸が落ち着く。
「すげえだろ」
カイルが振り返りながら言う。
「これが王都だ」
ラティアは目を丸くしたまま、小さく答えた。
「……大きい」
カイルが吹き出す。
「そこかよ」
「だって、すごく大きい」
真面目な返しに、サラがくすりと笑った。
そのとき、門前で助けた侍女が、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「勇者様!」
その後ろには門兵が二人、そして立派な外套を羽織った年配の男がいる。
御者ではない。
もっと家の中で仕える、立場のある者らしい。
男は四人の前まで来ると、深く頭を下げた。
「ベネディクト子爵家の執事、グランと申します」
声は落ち着いていたが、目元にはまだ動揺の色が残っていた。
「このたびは、我が家の令嬢エリシア様をお救いいただき、心より感謝申し上げます」
深い礼だった。
ラティアは少し身を固くする。
王都に入ったばかりで、いきなりこんなふうに頭を下げられるのは落ち着かない。
「本来であれば子爵自らお礼を申し上げるべきところですが、まずはお嬢様を屋敷へお運びせねばならず……」
「構わない」
ユリスが短く言った。
グランは再び頭を下げ、それから視線をラティアへ向けた。
ラティアの肩がぴくりと揺れる。
「そちらのお嬢様にも、特にお礼を申し上げたく」
グランの表情は真剣だった。
「あなた様が手を伸ばしてくださらなければ、お嬢様は今も苦しんでおられたでしょう」
ラティアは答えに詰まる。
助けた。
そう言われると、まだ少し現実味がない。
怖かった。
壊すかもしれないと思った。
それでも手を伸ばした。
その結果が、いま目の前の礼になっている。
「……たまたま、分かっただけだから」
やっとそれだけ言うと、グランはかすかに目を細めた。
「それでも、です」
静かな声だった。
カイルが横で小さく笑う。
「だってさ」
ラティアは少しだけ唇を尖らせる。
「カイル、うるさい」
「はいはい」
サラがやわらかく間をつないだ。
「ご令嬢のご容態は、しばらく安静にしていただければ落ち着くと思います」
グランは頷いた。
「すでに神殿と魔導院にも使いを出しております」
その言葉に、ラティアの胸が少しだけざわついた。
魔導院。
またその名が出る。
王都へ来たのだと、改めて思う。
「もしよろしければ」
グランが慎重に言葉を選ぶ。
「後日、あらためて子爵家へお越しいただければと。正式にお礼をお伝えしたいとのことです」
カイルが眉を上げた。
「貴族の屋敷にか?」
「はい」
グランは深く頷く。
その場に、短い沈黙が落ちた。
ユリスはすぐには答えず、ラティアの様子を見た。
王都の通りは、絶えず人と音で流れている。
人。
店。
声。
石畳。
ここは、結界の中の静かな春とも、村のやわらかな賑わいとも違う。
人の意思が、絶えずぶつかり合って動いている場所だ。
「……ラティア」
低い声。
ユリスだった。
視線が向く。
「どうする」
ラティアは少しだけ目を瞬く。
自分に聞くんだ、と思った。
前なら、すぐに周りに任せていたかもしれない。
でも今は違う。
少しだけ考える。
怖い。
知らない貴族。
知らない屋敷。
でも――
「……行く」
小さく、でもはっきり言う。
「ちゃんと、様子も知りたい」
グランの表情がわずかにやわらいだ。
「ありがとうございます」
ユリスはそれを聞いて短く頷いた。
「では後日だ」
話はそれでまとまる。
グランは再び深く礼をして、門兵とともに去っていった。
その後ろ姿を見送ってから、ラティアは小さく息を吐く。
「……王都、入ったばっかりなのに、もうすごい」
「だろ?」
カイルが笑う。
「これからもっとすごいぞ」
「脅さないでください」
サラが苦笑する。
ラティアは守り紐に触れた。
少しざわつく。
でも、さっき門前でやれた。
今もちゃんと立っていられる。
その事実が、少しずつ自分を支えてくれていた。
「まずは宿を取る」
ユリスが言う。
「それから神殿へ行く」
王都の空気の中で、その声だけは変わらない。
ラティアはそのことに、少しだけ安心する。
「……うん」
四人は王都の中央通りへ足を向ける。
道の両側には店が並び、色鮮やかな布や果物、焼き菓子や装飾品が目に飛び込んでくる。
ラティアは見たいものが多すぎて、視線が落ち着かない。
「前を見ろ」
ユリスの低い声。
ラティアははっとして顔を上げる。
その直後、横を大きな荷車が通り過ぎた。
もしそのまま一歩出ていたら、ぶつかっていたかもしれない。
「……ごめん」
「だから言った」
呆れたような、でも本気ではない声だった。
カイルが吹き出す。
「王都初日から轢かれるなよ」
「轢かれない」
「怪しいな」
サラがくすくす笑う。
そんなやり取りの中で、ラティアは少しだけ肩の力を抜いた。
怖いだけじゃない。
落ち着かないだけでもない。
王都は大きくて、目が回りそうで、知らないものばかりだけど。
その中を、自分はちゃんと歩いている。
ふと、通りの向こうに人だかりが見えた。
何かの店先らしい。
そこに立っている男が、一瞬こちらへ顔を向ける。
黒髪。
陽の光を受けて、やわらかく揺れる髪。
遠くて、まだ表情までは見えない。
けれど、なぜかその視線だけが妙に引っかかった。
ラティアは思わず足を止めかける。
次の瞬間には、人波に紛れて見えなくなっていた。
「ラティア?」
サラの声に、はっとする。
「……ううん」
首を振る。
「なんでもない」
けれど、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。
王都は広い。
知らないものばかりだ。
それなのに今の一瞬だけは、まるで何かがこちらを見つけたような気がした。
四人はそのまま王都の奥へ歩いていく。
賑わいの中へ。
新しい出会いと、まだ見えない波の中へ。
ラティアは守り紐をそっと握った。
胸の奥で、何かが静かに動き出している気がした。




