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少女の手首に触れる。
熱い。
普通の熱ではなかった。
もっと内側から焼けつくような、息苦しさを伴う熱だ。
触れた瞬間、ラティアの呼吸がわずかに乱れた。
指先が、びくりと強張る。
ただ熱いだけではない。
少女の内側に、ざらついたものがある。
流れを塞ぎ、絡みつき、呼吸ごと押し込めているような、嫌な感触。
人の中に、こんなふうに“触れる”のは初めてだった。
外から見ていた時より、ずっと恐ろしい。
指先ひとつで、壊してしまえそうだった。
ほんの少し向きを間違えただけで、ほどくはずのものまで引きちぎってしまいそうで、ぞっとする。
(……こわい)
胸の奥が、きゅっと縮む。
一瞬だけ、手を離したくなった。
けれど。
少女の指先は冷えていた。
こんなに熱いのに。
こんなに苦しいのに。
この小さな身体で、ひとりで耐えていたのだと分かる。
その事実が、ラティアの迷いを少しだけ押し返した。
(……だいじょうぶ)
そう思い込もうとして、すぐにやめる。
本当は、まだ大丈夫じゃない。
失敗するかもしれない。
それでも。
(……こわいままで、やる)
喉の奥で、そっと言い直す。
黒い靄が、ぴくりと揺れた。
ラティアの喉が鳴る。
それでも、目は逸らさない。
まず、少女の呼吸に意識を合わせた。
速すぎる。
浅すぎる。
うまく巡っていない。
そこへ自分の力を無理に流し込むのは違う気がした。
押し返すのではなく、ほどく。
乱暴に剥がすのではなく、絡まった糸をひとつずつ外すように。
苦しさの原因だけを探し、そこだけを静かに解いていく。
ラティアの指先に、淡い金色の光が灯った。
ふわり、と。
春の朝のようにやさしい光だった。
その光が、少女の手首からじんわりと広がっていく。
熱に浮かされた呼吸の乱れを追い越さないように。
怯えた身体を脅かさないように。
そっと。
そっと。
自分の光なのに、まだ少し怖かった。
この光が本当に人を助けるのか。
それとも、傷つけるのか。
ラティアには、まだ分からない。
黒い靄が、一瞬だけ強く波打つ。
「っ……!」
侍女が悲鳴を呑み込んだ。
少女の身体がびくりと跳ねる。
ラティアの心臓も、大きく跳ねた。
(だめだった……!?)
そう思いかけて、すぐに首の奥が熱くなる。
違う。
ここで怯えて力を乱したら、本当にだめになる。
息を吸う。
吐く。
乱れた意識を、自分の内側へ引き戻す。
少女の呼吸に合わせる。
ほどく。
整える。
金色の光が、もう一度やわらかく揺れた。
次の瞬間、黒い靄が少女の胸元からぶわっと浮き上がった。
小さな悲鳴のような音が漏れる。
「下がれ!」
カイルの声が飛ぶ。
矢が放たれた。
ヒュンッ——!
黒い靄の塊を、正確に射抜く。
雷をまとった矢が着弾し、青白い火花が弾けた。
靄がばちばちと震え、散る。
だが、完全には消えない。
散った靄が、なおも少女の方へ戻ろうと蠢いた。
ユリスが前に出る。
剣はまだ抜かない。
斬れば、ラティアごと巻き込む。
その代わり、黒い靄が彼女へ向かわないよう、割って入るように前へ立った。
「続けろ」
短い声。
ラティアは小さく頷く。
「……うん」
その一言だけで、少しだけ手の震えが消えた。
見られている。
支えられている。
ひとりで全部を背負っているわけじゃない。
それが分かるだけで、息がしやすくなる。
光を少し強める。
追い払うのではない。
異物だけを浮かせて、少女の中から静かに切り離していく。
少女自身を傷つけずに。
黒い気配だけを外へ追いやる。
むずかしい。
ほんの少しでも乱れれば、少女の内側に触れすぎてしまいそうだった。
だからこそ、丁寧に。
自分の都合で急がず、少女の呼吸に合わせて。
少女の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
胸の上下が、さっきよりゆるやかになる。
眉間の皺が、ほんの少し薄くなった。
黒い靄が、嫌がるように震えた。
サラが祈りを重ねる。
淡い白い光が、ラティアの金色の光を支えるように広がった。
「あと少しです」
サラの声は静かで、落ち着いていた。
ラティアは息を整える。
焦らない。
押し込まない。
自分を戻して、相手を戻す。
ユリスに教わったばかりのことが、そのまま指先に通っていく気がした。
怖さは消えていない。
それでも、もう飲まれてはいなかった。
それごと抱えたまま、手を伸ばせている。
最後のひと呼吸。
ラティアが、そっと少女の額に手を添える。
熱い額。
けれど、さっきより少しだけ穏やかだ。
「……だいじょうぶ」
小さく、言葉が零れた。
誰に向けた言葉だったのか、ラティア自身にも分からなかった。
少女へだったのか、それとも震えそうな自分へだったのか。
ただ、その瞬間。
黒い靄が少女の身体から完全に剥がれた。
空中でひとつの塊になり、ぎゃっと歪んだ声を上げる。
「今だ!」
カイルの矢がもう一本、まっすぐ飛ぶ。
「——雷穿」
青白い閃きが、靄の中心を射抜いた。
ばちっ、と雷が弾け、残滓の輪郭が大きく揺らぐ。
そこへユリスの剣が閃いた。
一閃。
黒い残滓は細く裂け、霧のように散っていく。
風に溶けるように、今度こそ完全に消えた。
静寂が落ちる。
馬の荒い呼吸だけが、しばらくその場に残った。
やがてサラが少女の脈を確かめ、ほっと息をつく。
「大丈夫です。眠っていますが、呼吸は落ち着きました」
侍女がその場に崩れ落ちた。
「よ、よかった……」
御者も顔を覆うようにして息を吐く。
門兵たちの間にも、安堵が広がった。
「助かった……」
「本当に残滓だったのか……」
ラティアは馬車の縁に手をついたまま、小さく息を吐いた。
力を使いすぎたわけではない。
けれど、全身がかすかに震えている。
できた、という安堵より先に、
本当に壊さずに済んだ、という気持ちの方が強かった。
人に触れるのは、こんなにも怖いのだと初めて知った。
でも同時に、
怖いままでも、できることはあるのだとも知った。
そのとき、ユリスの手がそっと肩に触れた。
「離れろ」
短い声。
ラティアははっとして、馬車から一歩下がる。
その一歩で、ようやく自分の呼吸が少し乱れていたことに気づいた。
深呼吸。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
吐く。
守り紐に触れる。
少しずつ、胸のざわめきが静まっていった。
侍女が涙をこぼしながら、何度も頭を下げる。
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございました……!」
門兵も姿勢を正した。
「勇者様、神官様、弓使い殿、そして……」
視線がラティアへ向く。
ラティアは少し肩を揺らした。
兵士はどこか戸惑いを含んだ顔で、それでも深く礼をした。
「王都へようこそ。あなた方がいてくださらなければ、門前で大事になっていたでしょう」
カイルがふっと笑う。
「歓迎が派手すぎるな」
サラも小さく息をついた。
「でも、間に合ってよかった」
ラティアは少女を見る。
顔色はまだ白いけれど、さっきの苦しそうな歪みは消えていた。
あの馬車の違和感は、やはり間違っていなかった。
ユリスが御者に向かって問う。
「どこの家の者だ」
御者は慌てて答える。
「ベネディクト子爵家でございます。こちらはご令嬢のエリシア様で……王都へ戻る途中で急に……」
サラとカイルが、わずかに視線を交わす。
貴族家。
王都の中でも、決して無関係ではない家だ。
門兵の一人が急いで別の兵へ声をかけた。
「子爵家へ連絡を! それと神殿と……魔導院にも報せろ!」
ラティアはその言葉に、わずかに目を瞬く。
魔導院。
その響きは、これから出会うものの気配を、まだ知らないまま胸に落とした。
ユリスは剣を収める。
「行くぞ」
いつもの短い声だった。
だがその前に、ラティアを一度だけ見た。
「よくやった」
たったそれだけ。
でも、ラティアの胸は小さく揺れた。
「……うん」
小さく返す。
王都の門は、もう目の前にあった。
大きな石の影。
人の流れ。
知らない空気。
その中へ、自分たちは今から入っていく。
そして王都は、ただ広いだけの場所ではないのだと、ラティアはもう感じていた。
この門をくぐる前から、何かが確かに動き始めている。




