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王都へ続く街道は、門が近づくにつれて人で埋まり始めていた。
荷馬車。
馬にまたがる騎士。
徒歩の旅人。
商人の一団。
それぞれの目的を胸に、同じ門を目指して進んでいく。
ラティアはその流れの中を歩きながら、何度も小さく息を整えていた。
呼吸。
姿勢。
立つ位置。
出口。
昨日、ユリスに言われたことを思い出す。
怖い。
でも、ただ飲み込まれるだけじゃない。
人の列の端を意識して、前を向く。
守り紐が頬をかすめた。
その感触が、少しだけ胸を落ち着ける。
「平気か」
低い声に、ラティアは顔を上げた。
ユリスが少しだけ振り返っている。
ラティアは一瞬迷ってから、小さく答えた。
「……たぶん」
カイルが口元をゆるめる。
「十分だな」
ラティアは少しだけ目を瞬いた。
「……そうかな」
「最初から“平気”って言い切るよりはな」
カイルは軽く肩をすくめる。
サラもやわらかく頷いた。
「ええ。その方が、ずっといいです」
ラティアはもう一度、前を見た。
王都の門は、近づくほど大きくなる。
高い石壁。
分厚い門。
見張り台の兵士たち。
壁の向こうに広がる世界を想像すると、胸がひとつ強く鳴った。
そのときだった。
前方でざわめきが起きた。
人の流れが止まる。
馬のいななき。
慌ただしい声。
誰かの悲鳴のような高い音。
カイルが眉をひそめる。
「……なんだ?」
ユリスの目が細まった。
「騒ぎだな」
列の先、門の手前で人だかりができている。
兵士たちが何かを囲み、道を塞いでいた。
ラティアもつられてそちらを見て――息を止めた。
「……あ」
視界の端に、見覚えのある馬車があった。
立派な箱馬車。
手入れの行き届いた車輪。
上質な布の覆い。
街道の途中ですれ違った、あの馬車だった。
「知ってるのか?」
ユリスの声に、ラティアは小さく頷く。
「昨日……見た」
胸の奥が、嫌な感じにざわつく。
あのとき、窓の隙間から誰かがこちらを見ていた。
ただの通りすがりの馬車ではない。
そんな違和感が、今になってはっきりと形を持ち始める。
四人は人波をかき分けて前へ出た。
門兵の一人がユリスに気づき、はっと顔を上げる。
「勇者様!」
「何があった」
ユリスの問いは短い。
兵士は焦った顔のまま、馬車を振り返った。
「門前で急に、馬が暴れ出して……中のお嬢様の様子もおかしいのです。使いは走らせましたが、まだ来ておらず……!」
馬車の前では、二頭の馬がひどく落ち着きを失っていた。
鼻を鳴らし、地面を蹴り、白目を剥いている。
御者は青ざめながら手綱を握り締めていた。
「急にこうなったんです……っ」
その声の向こう、馬車の扉が半ば開いている。
中から、若い女のか細い泣き声が聞こえた。
「お嬢様……! しっかりしてください、お嬢様……!」
サラがすぐに前へ出る。
「失礼します」
馬車の中を覗き込んだサラの表情が、すぐに変わった。
そこには一人の少女が横たわっていた。
年はラティアとそう変わらない。
青白い顔。
額に滲む汗。
苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
一見すれば、高熱にうなされる病人だ。
けれど――
ラティアの背筋を、冷たいものが走った。
少女の身体のまわりに、うっすらと黒い靄がまとわりついている。
熱の揺らぎのように見えるそれは、見覚えのある嫌な気配を孕んでいた。
(……これ)
雪山で感じたもの。
村で現れた残滓。
あの黒い魔物と同じ種類の、不快な魔力。
サラが静かに呟く。
「……普通の熱ではありません」
御者の隣にいた侍女らしい女性が、涙目で縋りついた。
「王都に着きさえすれば、お医者様に診ていただけると……そう思って急いでいたのです……!」
兵士たちは困惑して顔を見合わせる。
「門の中へ入れてよいものか判断がつかず……」
カイルはすでに周囲を見回していた。
人々を下がらせ、逃げ場を作り、馬の動きを見ている。
「人払いしろ」
門兵へ短く告げる。
「馬も限界だ。巻き込まれるぞ」
「は、はい!」
兵たちが慌てて人を遠ざける。
ユリスは馬車を見たまま、低く問うた。
「ラティア」
ラティアはびくりと肩を揺らす。
「分かるか」
責める声ではない。
確かめる声だった。
ラティアは少女を見る。
黒い靄は薄い。
けれど確かにある。
じわじわと、内側へ染み込むような嫌な揺れ。
「……うん」
小さく答える。
「残滓だと思う」
ユリスは迷わなかった。
「サラ」
「はい」
「命は持つか」
サラは少女の額に手を当て、呼吸を確かめる。
「今すぐどうこうという状態ではありません。でも、このままでは悪化します」
ユリスはカイルを見る。
「周囲の警戒を」
「了解」
カイルはすぐに弓を構え直し、門兵たちへ短く指示を飛ばし始めた。
ユリスはもう一度、ラティアへ視線を戻す。
「できるか」
その一言に、ラティアの胸が強く鳴った。
周囲には人がいる。
王都の門前。
兵士たちも、侍女も、旅人も見ている。
怖い。
失敗したらどうしよう。
ここで何か壊したら。
喉が少し乾く。
それでも、少女の顔を見る。
苦しそうに眉を寄せ、うなされている。
あのままではまずい。
けれど、足がすぐには動かなかった。
人を治すのは、初めてだった。
精霊や動物に触れて落ち着かせたことはある。
壊れたものを直したこともある。
けれど、人は違う。
その瞬間、不意に胸の奥が冷えた。
助けた記憶じゃない。
傷つけた記憶が、先に浮かぶ。
自分の魔力が暴れたときのこと。
止められなかった熱。
抑えきれずに溢れた光。
触れたものを守るどころか、壊してしまった感覚。
“治す”より先に、“壊す”記憶が喉元までせり上がってくる。
胃の奥がきりきりと痛んだ。
息が浅くなる。
気持ち悪い。
吐き気がこみ上げて、思わず片手で口元を押さえる。
この手で、人に触れるのかと思った瞬間、指先がすっと冷えた。
もしまた傷つけたら。
もし、この子の中をめちゃくちゃにしてしまったら。
もし助けるどころか、自分のせいで取り返しがつかなくなったら。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
足元がわずかに揺れた。
怖い。
怖くて、気持ちが悪い。
助けたいのに、身体の方が拒んでいるみたいだった。
そのとき。
「ラティア」
低い声が落ちる。
はっとして顔を上げると、ユリスがまっすぐこちらを見ていた。
責める目ではない。
急かす目でもない。
ただ、揺らがない目だった。
「お前が十年積み上げてきた春結界は、生気に満ちていた」
ラティアが目を見開く。
ユリスの声は低く、静かだった。
「草木はよく育ち、精霊も穏やかだった。生き物はあの中で、怯えることなく息をしていた」
胸の奥が、かすかに揺れた。
春の結界。
閉じた世界。
誰も来ない、誰にも見つからない場所。
けれどそこには、たしかに命があった。
花が咲いていた。
草はやわらかく揺れていた。
小さな獣が安心しきった顔で眠っていた。
精霊たちは、あたたかな光の中で遊ぶように舞っていた。
あの場所は、壊すためのものじゃなかった。
怯えた心のまま、それでも守ろうとして作った場所だった。
ユリスが一歩、近づく。
「お前は壊すだけの魔力じゃない」
低く、はっきりと言う。
「お前ならできる」
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
ぐらついていた足元が、ほんの少しだけ戻る。
吐き気は、まだ少しある。
胃の奥の痛みも、消えてはいない。
それでも。
壊してしまった記憶の隣に、別の景色が並ぶ。
芽吹いた草。
眠る小獣。
やわらかな春の匂い。
自分の結界の中で息づいていた、たくさんの命。
ラティアはそっと守り紐に触れた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
息を吸う。
吐く。
深呼吸。
出口。
立つ位置。
呼吸。
(まず、自分を戻す)
怖い。
でも、怖いままでいい。
逃げない。
ラティアは小さく頷いた。
「……やる」
ユリスは一歩だけ横にずれた。
いつでも前に出られる位置。
けれど、ラティアの邪魔はしない位置。
その立ち方が、かえってラティアを落ち着かせた。
侍女が不安げに見上げる。
「お嬢様を……助けられるのですか……?」
ラティアは答えられなかった。
大丈夫、と軽く言えるほど、自分を信じきれていなかったからだ。
それでも、逃げるとは言わない。
ラティアは唇を引き結び、そっと馬車へ手を伸ばした。




