38
朝。
目を開けると、知らない天井があった。
木の板が規則正しく並び、窓の隙間から淡い光が差し込んでいる。
ラティアはしばらく瞬きをした。
どこだっけ、とぼんやり考えて——
(……あ)
思い出す。
宿場町。
宿。
王都への旅の途中。
ゆっくり息を吐く。
春の結界の小屋ではない。
けれど、思っていたよりも胸は苦しくなかった。
隣のベッドを見ると、サラはもう起きていた。
身支度を整え、静かに髪をまとめている。
ラティアが起きたことに気づくと、やわらかく微笑んだ。
「おはようございます」
「……おはよう」
ラティアは上体を起こしながら答える。
髪の守り紐が、肩のあたりで小さく揺れた。
それに触れると、昨夜のことが少しだけよみがえる。
知らない町。
知らない宿。
でも、ちゃんと眠れた夜。
「少しは眠れましたか?」
サラが聞く。
ラティアはこくりと頷く。
「……うん。昨日より、ちゃんと」
「よかったです」
サラはそう言って、窓の外を見た。
「下はもう賑やかですよ。旅人の朝は早いですから」
ラティアもつられて窓を見る。
外の通りには、もう人が動いていた。
荷車を押す音。
馬の鼻を鳴らす声。
遠くから聞こえる、人の話し声。
宿の中にも、階下から食器の触れ合う音や、誰かの笑い声がかすかに届いてくる。
ラティアは少しだけ肩をすくめた。
「……朝から、いっぱいいる」
サラがくすりと笑う。
「はい。ですから、ゆっくり降りましょう」
身支度を終えて部屋を出る。
廊下はまだ少し薄暗く、木の床が歩くたびに小さく鳴った。
階段を下りるにつれて、食堂の音がはっきりしてくる。
人の声。
皿の音。
焼いたパンの香り。
スープの匂い。
ラティアは最後の一段の前で、少しだけ止まった。
サラが振り返る。
「大丈夫ですか?」
ラティアは小さく息を吸う。
「……うん」
そう答えたものの、胸の奥は少しだけそわそわしていた。
食堂には、思っていたより多くの人がいた。
商人らしい男たち。
旅人。
荷物を置いて朝食をとる者たち。
皆それぞれ勝手に話し、食べ、笑っている。
そこへ足を踏み入れた瞬間、ラティアはほんの少しだけ、自分の居場所が分からなくなった。
人の輪の中へ入る、その感覚がまだ曖昧だ。
どう立てばいいのか。
どこに視線を置けばいいのか。
何を自然と呼ぶのか。
そんなことを一瞬考えてしまう。
そのとき。
奥の席から、低い声がした。
「こっちだ」
ユリスだった。
ラティアが顔を上げる。
窓際の四人席に、ユリスとカイルが先に座っている。
ユリスは短く視線を向けただけだったが、その一言で、ラティアの胸のざわつきが少し静まった。
「行きましょう」
サラに促され、ラティアはそちらへ向かう。
席に着く。
サラが隣に。
向かいにカイル。
そして斜め前にユリス。
その配置が、思った以上に落ち着いた。
カイルがパンをちぎりながら笑う。
「おはよう、寝坊助」
「寝坊じゃない」
ラティアはむっとする。
「普通」
「旅では遅い方だ」
「う……」
言い返せない。
サラが間に入る。
「今日は初めての宿でしたから」
「サラ甘いなあ」
「カイルが厳しすぎるんです」
そんなやり取りを聞いているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
宿の女将が朝食を運んでくる。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
薄く切った燻製肉。
小さな果物。
ラティアはそれを見て、また少し目を丸くした。
「朝から、こんなに」
「旅人向けだろ」
カイルがスープを口に運ぶ。
「食えるときに食っとけ」
ラティアはおそるおそるスープをひと口飲んだ。
あたたかい。
塩気と、野菜のやさしい味が広がる。
「……おいしい」
ぽつりと呟く。
カイルが笑う。
「昨日からそればっかだな」
「だって、おいしい」
真面目に返されて、カイルは肩をすくめた。
ラティアはパンをちぎる。
ふと視線を上げると、食堂の人たちが時々こちらを見ているのに気づいた。
勇者一行だからだろう。
少しだけ居心地が悪くなる。
けれど、前みたいに息が詰まるほどではない。
ユリスがいる。
サラがいる。
カイルもいる。
その事実だけで、知らない場所の輪郭が少し柔らかくなる。
「今日のうちに、次の宿場まで行く」
ユリスがパンを置いて言った。
ラティアは顔を上げる。
「次も、町?」
「宿場だ」
「このくらい人いる?」
カイルが吹き出した。
「基準そこかよ」
ユリスは少し考えるようにしてから答える。
「ここよりは少ない」
ラティアは小さくほっとした。
その反応を見て、カイルがにやっとする。
「王都なんか行ったら倒れるんじゃねえか?」
「倒れない」
即答したものの、自信はあまりなかった。
王都。
その言葉を思うだけで、まだ胸は少しだけざわつく。
サラがやわらかく言う。
「すぐに慣れなくても大丈夫ですよ」
ラティアはうなずいた。
「……うん」
すると、ユリスが短く続けた。
「無理なら言え」
ラティアは少しだけ目を瞬く。
ユリスはいつも通り、淡々とスープを飲んでいる。
だが、その言葉はちゃんとラティアに向いていた。
「無理はさせない」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥があたたかくなる。
ラティアはパンを握りしめたまま、小さく頷く。
「……うん」
窓の外では、朝の光が石畳を照らしていた。
人が行き交う。
馬車が通る。
道はずっと先へ伸びている。
自分は本当に、その先へ行くのだ。
王都へ。
物語の中心へ。
怖い。
でも、昨日より少しだけ、ちゃんと実感できる。
ラティアは守り紐にそっと触れた。
軽い糸の感触。
それから、テーブルの上の手を見た。
震えていない。
完全に平気ではないけれど、逃げ出したくなるほどでもない。
それだけで、少し進めた気がした。
朝食を食べ終えるころには、食堂のざわめきにも少しだけ耳が慣れていた。
まだ全部は遠い。
でも、もう何もかもが怖いわけじゃない。
ラティアは窓の外を見た。
空は高く、道は続いている。
「……ほんとに行くんだ」
小さく、誰にともなく呟く。
その声に、ユリスが視線を向けた。
ラティアは少しだけ笑う。
「王都」
ユリスは短く答えた。
「ああ」
その一言が、背中を押すみたいに静かに落ちた。
ラティアはもう一度だけ窓の外を見た。
怖さの奥に、少しだけ期待がある。
そのことを、自分でもやっと認められた気がした。




