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宿の部屋は、思っていたよりずっとあたたかかった。


木の床。

白い壁。

小さな窓。

二つ並んだ簡素なベッド。


春の結界の小屋よりも整っていて、でもどこか知らない匂いがする。


乾いた木の匂い。

洗いたての布の匂い。

かすかに残るスープの香り。


ラティアは部屋に入ってしばらく、きょろきょろと見回していた。


「……ちゃんと部屋だ」


サラが荷物を置きながら、くすりと笑う。


「部屋ですよ」


ラティアは少し照れたように口をつぐむ。


「だって……」


宿、というもの自体が、まだ現実味を持たない。


人が行き交う宿場町。

知らない人たちが泊まる宿。

その一室に、自分もいる。


それが不思議だった。


サラは窓辺に寄って、そっと外を見る。


「今日はよく歩きましたね」


ラティアも小さく頷く。


「……うん」


疲れているはずなのに、心はまだ少しだけ落ち着かない。


ベッドの端に腰を下ろす。


沈む。


その柔らかさに、ラティアは少し驚いた。


「……すごい」


「また言いましたね」


サラが楽しそうに振り返る。


ラティアは少しむっとする。


「だって、すごいんだもん」


素直な返事に、サラはまた笑った。


ラティアは胸元に抱えていた花束をそっと机の上に置いた。


崩れないように向きを整えて、それから髪に結ばれた守り紐に触れる。


外の世界に来てから、少しずつ物が増えている。


村でもらった花束。

ユリスが買ってくれた守り紐。


どちらも小さいのに、持っていると不思議と心が軽くなる。


サラが近くの椅子に腰を下ろした。


「少しは落ち着きましたか?」


ラティアは考える。


「……半分くらい」


「半分」


「うん」


ラティアは自分の手を見た。


「まだ、なんか……胸の中が落ち着かない」


サラは急かさずに待ってくれる。


その静けさに背を押されるように、ラティアはぽつりと続けた。


「人が多い場所にいると……少しだけ、浮いてるみたいな気がするの」


「浮いている、ですか」


「……うまく言えないけど」


ラティアは視線を落とす。


「みんなは普通に話して、笑って、同じ場所にいるのに……わたしだけ、そこに入るやり方が分からないみたいな感じ」


小さく息を吐く。


「…だいぶ…前は、こんなふうじゃなかった気がするのに」


その言葉のあとに、少しだけ沈黙が落ちた。


きっと昔は、人の中にいることをこんなに意識したりしなかった。

誰かの近くに立つことも、声を交わすことも、もっと自然だったはずだ。


でも今は違う。


この世界で目を覚ましてからずっと、気をつけることばかりだった。


そうしているうちに、いつの間にか

“人と一緒にいること”そのものに、少し身構える癖がついていたらしい。


「変ではありませんよ」


サラがやさしく言う。


ラティアが顔を上げる。


「長くひとりで頑張ってきた人は、ときどきそうなります」


「……そうかな」


「ええ」


サラは頷いた。


「でも、ラティアさんはちゃんと人のあたたかさを受け取れています」


ラティアは少し目を瞬いた。


村の人の笑顔。

花束。

見送りの声。


どれも、ちゃんと嬉しかった。


「……うん」


小さく答える。


サラはやわらかく微笑んだ。


「なら大丈夫です。入れなくなったわけじゃありません」


静かな声。


「少しずつ、慣れていけばいいんです」


少しずつ。


その言葉は、今のラティアにとてもやさしく響いた。


ラティアは守り紐にそっと触れる。


「……少しずつ」


「はい」


しばらく、静かな沈黙が落ちた。


宿の下の階から、かすかに人の声が聞こえる。

食器の触れ合う音。

遠くで笑う声。


知らない人たちの気配。


でも、さっきよりは怖くない。


ラティアは少しだけ肩の力を抜いた。


そのとき、サラが何気ない調子で言った。


「それに」


ラティアが顔を上げる。


サラは穏やかに微笑んでいる。


「今日はずいぶん落ち着いていたように見えましたよ」


「え?」


「人の多い場所でも、思っていたより平気そうでした」


ラティアは少し考える。


たしかに、怖かったけれど、立っていられた。


宿場町でも、祭りでも。


完全に逃げたくなるほどではなかった。


「……たぶん」


言いかけて、少し迷う。


「たぶん?」


サラが静かに促す。


ラティアは視線を逸らした。


「……ユリスがいたから」


言ったあとで、自分の頬が少し熱くなる。


「近くにいると、ちょっと落ち着くの」


小さな声。


「変かな」


サラは一瞬だけ黙って、それからふっと笑った。


「変ではありません」


「ほんと?」


「ええ」


サラの目が少しだけ楽しそうになる。


「安心できる相手がいるのは、とても自然なことです」


ラティアは胸を押さえた。


安心。


その言葉は、しっくりきた。


たしかにそうだ。


ユリスがいると、胸のざわつきが少し静まる。


声を聞くと落ち着く。

触れられると、呼吸が整う。

近くにいると、世界が少しだけ怖くなくなる。


「……そっか」


ラティアは小さく呟く。


でも、その“安心”の中には、少しだけ落ち着かない熱も混ざっている気がした。


村娘がユリスに近づいたときのざわつき。

目が合ったときのどきりとした感じ。

守り紐を似合うと言われたときの熱。


全部、安心だけじゃない気もする。


けれど、それが何なのかはまだ分からなかった。


サラが立ち上がる。


「そろそろ休みましょうか」


ランプの明かりを少し落とす。


部屋の中が、やわらかな暗さに包まれた。


ラティアもベッドに横になる。


布団は結界の小屋のものより少し重くて、でも温かい。


天井を見る。


知らない部屋の、知らない夜。


なのに、思ったより苦しくない。


「……サラ」


「はい?」


暗い中で、サラの声が返る。


ラティアは少し迷ってから言った。


「ありがとう」


サラはすぐに答えた。


「どういたしまして」


それから少しだけ笑って、やわらかく続ける。


「おやすみなさい、ラティアさん」


「……おやすみ」


目を閉じる。


下の階の音が少しずつ遠くなる。


胸元にはもう花束はないけれど、香りがまだ少し残っている気がした。


髪には守り紐。


外には王都へ続く道。


知らない世界はまだ広くて、少し怖い。


でも——


今日はちゃんと、人の近くで眠れそうだった。


そのことに気づきながら、ラティアは静かに眠りへ落ちていった。

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