36
街道をしばらく進むと、遠くに屋根の群れが見え始めた。
最初は小さな影だったそれが、近づくにつれてはっきり形を持っていく。
石造りの門。
背の低い柵。
煙を上げる家々。
道沿いに並ぶ荷車。
「……あれ?」
ラティアが目を細める。
カイルが答えた。
「宿場町だ」
ラティアは思わず立ち止まりそうになる。
村より大きい。
人の気配も、建物の数も、ずっと多い。
胸の奥が、少しだけざわついた。
「人、多そう」
「多いぞ」
カイルがあっさり言う。
「村よりずっとな」
ラティアは小さく息を吸った。
怖い。
でも、見たい。
その二つの気持ちが同時に胸の中で揺れていた。
ユリスが少しだけ歩みを緩める。
「無理なら、俺の後ろにいろ」
いつも通りの、短い声。
でも、その一言でラティアの呼吸が少しだけ整う。
「……うん」
小さく頷く。
街道の先では、旅人や商人が出入りしていた。
荷馬車を引く馬のいななき。
人の話し声。
木箱を運ぶ音。
外の世界は、止まらない。
結界の中では聞いたことのない音が次々に耳へ入ってくる。
ラティアはそのひとつひとつに反応するみたいに、きょろきょろと辺りを見ていた。
「落ち着け」
カイルが笑う。
「全部見る気か」
「……だって」
ラティアは門の脇に積まれた荷物を見る。
麻袋。
樽。
干し草。
見たことのない道具。
「全部ちがう」
サラがやわらかく微笑む。
「それが外の世界です」
門をくぐると、空気がまた少し変わった。
村よりも濃い匂い。
焼けたパンの香り。
煮込みの匂い。
馬と土と、人の暮らしの匂い。
ラティアは目を丸くした。
「……すごい」
またその言葉が漏れる。
カイルが吹き出した。
「本日何回目だ」
「だって、ほんとにすごい」
真面目に返されて、カイルは肩をすくめる。
宿場町の中央通りは、それなりに賑わっていた。
商人が声を張り上げ、旅人が行き交い、店先には布や食べ物が並んでいる。
ラティアは思わず一歩、ユリスの近くへ寄った。
人が多い。
知らない顔ばかりだ。
誰も自分を知らない。
そう思うと、不思議と少し心細い。
前世では、人の中にいることはもっと当たり前だったはずなのに。
学校でも、店の中でも、町を歩くときでも。
人の気配が近くにあることは、きっと特別なことじゃなかった。
けれど今は、どうやって人と関わっていたのか、一瞬わからなくなる。
この世界で目を覚ましてからずっと、魔力のことばかり考えていた。
暴走しないように。
誰も巻き込まないように。
傷つけないように。
そうやって人から距離を取っているうちに、
“人の輪の中で自然に立つ”ことさえ、少し曖昧になっていたらしい。
(……どうやって、人と関わってたっけ)
そのとき。
「おっと」
前から来た男とぶつかりそうになったラティアの腕を、ユリスが軽く引いた。
一歩、後ろへ。
肩が触れそうなくらい近い距離になる。
「前を見ろ」
低い声。
ラティアはどきりとして、慌てて頷いた。
「……ごめん」
男はそのまま通り過ぎていく。
ユリスは何もなかったように手を離した。
けれどラティアの胸の奥は、しばらく落ち着かなかった。
サラがそんな二人を見て、小さく笑う。
「宿を取りましょうか」
カイルが周囲を見回す。
「この時間なら、まだ空いてるだろ」
ユリスが頷いた。
「奥の宿だ」
どうやら目星があるらしい。
四人は通りを少し外れ、木造の大きな宿の前で足を止めた。
看板には、羽根を広げた鳥の絵が描かれている。
「飛び鳥亭」
ラティアが小さく読み上げる。
「読めるのか」
カイルが少し意外そうに言う。
ラティアはむっとした。
「読める」
「いや、別に馬鹿にしてない」
「した」
「してない」
サラがくすくす笑う。
ユリスは扉を開けた。
中は外よりも少し暗く、あたたかかった。
木の机と椅子。
壁に吊るされたランプ。
奥から漂ってくるスープの匂い。
ラティアはまた小さく目を見開く。
「……中もすごい」
「全部すごいな」
カイルが笑う。
宿の女将が顔を上げる。
「いらっしゃい——……って」
一瞬、目が丸くなる。
勇者一行に気づいたらしい。
「あらまあ」
「部屋は空いているか」
ユリスが短く聞く。
女将は慌てて頷いた。
「ええ、ありますとも! ちょうど二部屋空いてますよ」
カイルが言う。
「じゃあ男二人、女二人で」
ラティアはその言葉にほっとする。
知らない場所で一人部屋だったら、少し不安だった。
女将は鍵を取りに奥へ引っ込んだ。
その間、ラティアはそっと窓際の席に近づく。
外の通りが見える。
人が歩いている。
馬車が通る。
夕暮れの光が、石畳を赤く染め始めていた。
「どうだ」
ユリスの声が横から落ちた。
ラティアは少し考える。
「……まだ、こわい」
正直に言う。
「でも」
窓の外を見る。
「来てよかった、って思う」
ユリスは少しだけ黙った。
それから短く言う。
「そうか」
それだけなのに、ラティアは少しだけ嬉しくなる。
女将が鍵を持って戻ってきた。
「お待たせしましたよ」
サラが受け取り、ラティアを振り返る。
「行きましょうか」
ラティアは頷いた。
二階へ上がる木の階段を見上げる。
宿。
部屋。
知らない町の夜。
またひとつ、初めてが増える。
でも、その全部を前より少しだけ受け入れられそうな気がした。
髪の守り紐に触れる。
胸元の花束の香りが、まだかすかに残っている。
ラティアは小さく息を吸った。
王都へ向かう旅は、まだ始まったばかりだ。
それでも今夜、自分はもう——
春の結界の外で、ちゃんと眠ることができるのかもしれなかった。




