35
村を離れてしばらくすると、道はゆるやかに森を抜け、ひらけた街道へと変わっていった。
朝の光はすっかり高くなり、空は澄んだ青に染まっている。
道の両脇には低い草原が広がり、その先にまばらな林が続いていた。
遠くには、まだ白く雪をかぶった山並みが見える。
ラティアは歩きながら、何度も後ろを振り返りそうになるのをこらえていた。
村はもう見えない。
でも、胸元の花束と髪の守り紐が、そこにあったものをちゃんと残してくれている気がした。
「疲れてないか」
前を歩いていたユリスが、少しだけ振り返って言った。
ラティアははっとする。
「だ、大丈夫」
そう答えたものの、視線はついあちこちへ向いてしまう。
道。
草。
空。
遠くを飛ぶ鳥。
全部が気になる。
全部が初めてに近い。
カイルがそんなラティアを見て笑った。
「ほんと忙しそうだな」
「だって……」
ラティアは少しだけ頬を膨らませる。
「外って、ずっと変わる」
サラがやわらかく微笑んだ。
「結界の中とは、時間の流れ方も違いますからね」
ラティアは足元の草を見た。
風が吹くたびに、ざあっと揺れる。
踏めばしなる。
同じ緑でも、春の結界の草とは少し違う。
「……落ち着かないけど」
ぽつりと呟く。
「おもしろい」
カイルが肩をすくめる。
「順応早いな」
ラティアは少し考えてから、首を振った。
「ううん。まだ、こわい」
正直に言う。
「でも、見たい」
その言葉に、ユリスがほんのわずかに目を細めた。
サラは嬉しそうに頷く。
「それでいいと思います」
街道はしばらく穏やかに続いた。
途中、荷馬車とすれ違う。
商人らしい男たちが、勇者一行だと気づいて慌てて頭を下げていった。
そのたびラティアは少し肩を揺らす。
「……見られた」
「見られるだろ」
カイルが当然のように言う。
「勇者様がいるんだからな」
ラティアはちらっとユリスを見る。
ユリスは前を向いたままだ。
何も気にしていないように見える。
「ユリスって、いつもああなの?」
「いつもだな」
カイルが即答する。
「見られても騒がれても、だいたい同じ顔してる」
「便利ですね」
サラがくすりと笑う。
ユリスは小さく息を吐いただけだった。
ラティアは少しだけ感心したように、その横顔を見る。
同時に、少しだけ不思議に思う。
(……どうしたらあんなに落ち着いていられるんだろ)
自分は、まだ胸の中がずっと忙しいのに。
しばらく歩いたころ、道端に大きな石があった。
平らで、腰を下ろすのにちょうどいい形をしている。
カイルが足を止めた。
「少し休むか」
サラも頷く。
「次の宿場までもう少しありますしね」
ラティアはほっと小さく息をついた。
正直、少しだけ足が重くなっていた。
座ると、草の匂いが近くなる。
風は涼しく、空は高い。
こんなふうに外で休むのも初めてだった。
ラティアは胸元の花束をそっと膝に置く。
少しだけ花びらが揺れた。
そのとき、ユリスが水筒を差し出した。
「飲め」
ラティアは目を瞬く。
「……いいの?」
「お前に出している」
いつもの調子だった。
ラティアはおそるおそる受け取る。
口をつけると、ひんやりした水が喉を落ちていった。
「……おいしい」
「水だぞ」
カイルが笑う。
ラティアは真面目に頷いた。
「外で飲むと、なんか違う」
サラが楽しそうに目を細める。
「それは少し分かります」
ラティアは水筒を返しながら、小さく言った。
「ありがとう」
ユリスは短く頷くだけだった。
でも、ラティアの胸の奥はその一言で少しだけあたたかくなる。
休憩のあいだ、カイルは弓の弦を確かめ、サラは地図を広げていた。
ユリスは道の先を見ている。
ラティアだけが、空を見上げていた。
白い雲が、ゆっくり流れていく。
春の結界の空より、ずっと広い。
ずっと高い。
「……王都も、こんな空?」
ぽつりと聞く。
サラが地図から顔を上げた。
「空は同じでも、見え方は違うかもしれませんね」
少し笑う。
「人が多いからか」
カイルが言う。
「建物も多いしな」
ラティアは想像してみる。
たくさんの人。
家々が並んで、音も絶えない町。
胸が少しだけざわついた。
けれど、そのざわつきは前よりも少しやわらかい。
怖さだけじゃなくなっている。
そのとき、不意に風が強く吹いた。
ラティアの髪が揺れ、守り紐が頬をかすめる。
それと同時に、膝の上の花束がふわりと傾いた。
「あ」
落ちる、と思った瞬間。
隣から伸びた手が、それを先に支えた。
ユリスだった。
花束を受け止め、そのままラティアへ返す。
「気をつけろ」
低い声。
ラティアは花束を受け取りながら、小さく息を呑んだ。
「……うん」
ほんの一瞬のことなのに、胸の奥が落ち着かない。
さっきまで穏やかだったのに、急に熱くなる。
カイルがその様子を見て、にやにやした。
「大事そうだな、それ」
ラティアは反射的に花束を抱き寄せる。
「だって、もらったから」
「へえ」
「なに」
「別に」
絶対何か思っている顔だった。
サラが苦笑する。
「カイルは放っておきましょう」
ラティアは小さく頷いた。
でも、花束を抱える腕の力は少しだけ強くなる。
しばらくして、ユリスが立ち上がった。
「行くぞ」
短い一言。
それだけで、休憩は終わる。
ラティアも立ち上がる。
さっきより足は軽い。
街道はまだ続いている。
王都は遠い。
でも、その道のりはもう、ただ怖いだけのものではなかった。
一歩進むたびに、新しい景色がある。
新しい匂いがある。
知らなかった世界がある。
そして、その隣には――
振り返ればちゃんと三人がいる。
ラティアは小さく息を吸った。
「……がんばる」
誰に向けたわけでもない、小さな声。
けれど、その声を聞いたのか、ユリスがわずかに振り返った。
「無茶はするな」
短く落ちる言葉。
ラティアは少しだけ笑う。
「うん」
その返事は、昨日より少しだけ自然だった。
四人はまた歩き出す。
王都へ続く道を。
その先に見えるのは、まだ遠い宿場町の屋根。
ラティアの旅は、少しずつ形になり始めていた。




