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朝。
村はまだ薄い霧の中にあった。
屋根の上には白く朝露が残り、空気はひんやりとしている。
それでも東の空は少しずつ明るくなり、村のあちこちから煙が細く立ち上っていた。
ラティアは宿の前に立ち、ぎゅっと荷物を抱えていた。
といっても、小さな袋ひとつだけだ。
中には着替えと、少しの食べ物。
髪には、昨夜サラが結んでくれた守り紐が揺れている。
ラティアはそれにそっと触れた。
ちゃんと、ここにある。
その感触だけで、少しだけ落ち着いた。
「眠れましたか?」
後ろからサラの声がした。
振り向くと、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
ラティアはこくりと頷く。
「……うん。少しだけ」
本当は何度か目が覚めた。
王都のことを考えて。
春の結界のことを考えて。
でも、不思議と嫌な不安だけではなかった。
サラは優しく目を細める。
「それならよかったです」
「勇者様は?」
カイルの声が割り込んだ。
宿の壁にもたれながら、大きく伸びをしている。
「いつも通り、先に準備終わってる」
ラティアがそちらを見ると、少し離れた場所にユリスがいた。
剣の位置を確かめ、外套を整えている。
朝の淡い光の中でも、その姿はいつもと同じように静かで、揺るがなかった。
ラティアは少しだけ、その背中を見つめる。
気づけば、ユリスがこちらを向いた。
目が合う。
ラティアは慌てて視線を逸らしかけて——やめた。
代わりに、小さく会釈する。
ユリスは短く言った。
「準備はいいか」
「う、うん」
ラティアはこくりと頷く。
そのとき、村の奥から声が聞こえた。
「おーい!」
昨日の村娘だった。
その後ろから、村長や村人たちがぞろぞろとやってくる。
ラティアは目を丸くした。
「……いっぱい来た」
カイルが笑う。
「見送りだろ」
村長が一番前まで来ると、深く頭を下げた。
「昨夜は本当にありがとうございました」
その後ろの村人たちも、次々と頭を下げる。
村長は顔を上げ、四人をゆっくり見回した。
「熊の件も、昨夜の黒い化け物の件も……皆さんがいてくださらなければ、この村はどうなっていたか分かりません」
静かな、けれど心からの声だった。
「勇者様。弓使い殿。神官様。そして、お嬢さん」
一人ひとりに向けて、丁寧に言う。
「この村を守ってくださり、本当にありがとうございました」
ラティアは何も言えなくなる。
まっすぐに礼を言われると、まだ少し困ってしまう。
けれど昨日みたいに否定の言葉がすぐには出てこなかった。
代わりに、胸の奥がじんわり温かくなる。
そのとき、村人たちの後ろから、少しためらうような声がした。
「……あの」
顔を上げると、あの熊に追われていた若い男が立っていた。
昨日と同じように薪を背負っているが、今日はその表情に余裕がある。
ラティアは目を瞬く。
男はラティアと目が合うと、少しだけ照れたように視線を逸らした。
それから、片手を差し出す。
そこには、野の花を束ねた小さな花束があった。
白や薄紫の花に、若い緑の葉が添えられている。
派手ではないけれど、朝の光にやさしく揺れていた。
「昨日は、本当にありがとうございました」
男はそう言って、もう一度ラティアを見る。
少し緊張しているのか、耳のあたりがわずかに赤い。
「大したものじゃないんですけど……その……」
言葉を探すように一度口ごもってから、花束を少し持ち上げた。
「よかったら、旅のお守りに」
ラティアはそっとそれを受け取る。
小さな花束。
急いで摘んだだけではなく、ちゃんと選んで束ねたのが分かる。
「……いいの?」
思わずそう聞くと、男は慌てたように頷いた。
「もちろんです!」
それから少しだけ笑って、頭をかいた。
「俺、昨日ほんとに死ぬかと思ってたんで」
ラティアは黙って聞く。
「でも、お嬢さんがいてくれたから助かりました」
男はまっすぐ言った。
「だから……その、お礼です」
ラティアは花束を胸元に抱えた。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「……ありがとう」
自然に笑みがこぼれた。
その様子を見ていた村長が、穏やかに目を細める。
「王都へ行くなら、どうかこのことも神殿へ伝えてください」
サラが頷きながら、懐から一通の封書を取り出した。
村の印が押された紹介状だ。
「はい。必ず」
村長はラティアを見た。
「あなたがこの村を救ってくださったこと、私どもが証人になります」
ラティアは目を瞬く。
「……証人」
「ええ」
村長は頷いた。
「わたしは怪しい者じゃではない。」
カイルが吹き出す。
「怪しい、怪しい」
ラティアはむっとしてそちらを見る。
「怪しくない」
サラがくすくす笑った。
少しだけ、空気がやわらぐ。
けれどラティアの胸の中は、まだ静かではなかった。
王都へ行く。
それが、ただの“行ってみたい”ではなくなってきている。
もっと大きな意味を持ち始めていた。
やがて、出発の空気が整っていく。
村人たちが道の端へ下がる。
小さな見送りの列みたいだった。
ラティアはその光景を見て、胸の奥がまた少しだけ揺れた。
春の結界を出たときとは、また少し違う。
ここは帰る場所ではない。
でも、たしかに自分を送り出してくれる人たちがいる。
それが不思議で、少しだけ嬉しかった。
「行くぞ」
ユリスの声が落ちる。
ラティアは顔を上げた。
ユリスはすでに村の出口の方へ向かっている。
その背中は、やっぱり迷いがない。
ラティアは慌てて一歩踏み出した。
だがその前に、村長が静かに言った。
「ラティアさん」
呼ばれて振り返る。
村長は優しく笑っていた。
「あなたにも、どうか祝福がありますように」
ラティアは息を呑む。
それはサラの祈りの言葉にも少し似ていて、
でももっと素朴で、あたたかかった。
ラティアは胸の前で花束を抱きしめる。
「……ありがとう」
今度は、ちゃんと言えた。
小さくても、はっきりと。
そして前を向く。
村の出口まで歩いていくと、後ろからたくさんの声が飛んできた。
「いってらっしゃい!」
「また来てください!」
「勇者様ー!」
「聖女様も!」
「違う!」
ラティアが反射的に叫ぶ。
カイルが吹き出した。
「最後までそれか」
サラがくすくす笑う。
ユリスは何も言わない。
だが、口元がほんのわずかに緩んだ気がした。
村を出る。
朝の道は静かで、空はよく晴れていた。
村の音が少しずつ遠ざかる。
ラティアは一度だけ振り返る。
家々。
畑。
小さな広場。
提灯はもう片づけられていたけれど、昨夜の灯りの名残がそこにある気がした。
そして、村人たちがまだ手を振っている。
ラティアもそっと手を振り返した。
そのまま歩き出す。
王都へ続く道を。
しばらくして、ラティアは胸元の花束を見下ろした。
髪の守り紐。
手の中の花束。
帰る場所の約束と、送り出してくれる人たちの気持ち。
その両方を持って、今、自分は進んでいる。
「……ラティア」
低い声が隣から落ちた。
ユリスだった。
「なんだ」
ラティアは少しびっくりしてから答える。
「え?」
ユリスはまっすぐ前を見たまま言う。
「顔」
ラティアは瞬く。
「顔?」
「笑ってる」
ラティアははっとした。
自分の頬に触れる。
たしかに、少しだけ口元が上がっていた。
「……だめ?」
小さく聞く。
ユリスは短く言った。
「いや」
それだけ。
でも。
その一言で、ラティアの胸の奥がまた少しあたたかくなった。
旅は始まったばかりだ。
王都はまだ遠い。
それでも——
ラティアの足取りは、昨日より少しだけ軽くなっていた。




