33
祭りの熱気が少しずつ静まっていく頃。
村の広場の端では、焚き火の火が小さく揺れていた。
ラティアはまだ髪に結ばれた守り紐を指先でそっと確かめていた。
結ばれているだけなのに、不思議と胸の奥が落ち着く。
そのとき、広場の向こうからサラが戻ってきた。
隣には、白い髭をたくわえた年配の男がいる。
村長だった。
「皆さん、少しよろしいですかな」
穏やかな声に、カイルが串を置く。
「なんだ?」
村長は四人を見回し、ゆっくり頭を下げた。
「本日は、本当にありがとうございました」
深く、丁寧な礼だった。
「熊の件だけではありません。あの黒い化け物のようなもの……あれが村へ入っていたらと思うと、今でもぞっとします」
サラが静かに頷く。
「完全な魔物ではありませんでしたが、放っておいてよいものでもありませんでした」
村長は難しい顔で息を吐いた。
「最近、この辺りの山はおかしいのです」
ラティアが顔を上げる。
村長は続けた。
「獣が急に荒れたり、夜の森で黒い影を見たという者がいたり……最初は噂だと思っておりましたが、今日のことで、ただ事ではないと分かりました」
カイルが腕を組む。
「やっぱり残滓が流れてるんだろうな」
ユリスは焚き火の向こうで、黙ったまま村長の話を聞いていた。
村長はそのユリスに向かって言った。
「勇者様。もし王都へ戻られるのでしたら、どうかこのこともお伝えください」
「伝える」
ユリスは短く答える。
村長はほっとしたように頷いた。
だが、そのあと少しだけ言いよどんだ。
「それと……もう一つ」
視線が、ラティアへ向く。
ラティアの肩がぴくりと揺れた。
「そのお嬢さんのことも」
ラティアは固まる。
カイルがにやっとする。
「聖女様の話か?」
「違う」
ラティアが即答する。
村長は苦笑した。
「いえ、そう呼ぶつもりはありません。ただ……」
少し言葉を選ぶようにしてから、続ける。
「この村の誰も、あの熊を前に立って止めることなどできません。あの黒い魔物の前で、恐れに飲まれず立っていられる者もおりません」
ラティアは目を伏せる。
村長の声は静かだった。
「その力を、ただ山奥に置いておくのは惜しい。……いや、危ういと言うべきかもしれませんな」
ラティアの胸が少し痛む。
惜しい。
危うい。
どちらも、自分にはしっくりくる気がした。
そのとき、サラが一歩前に出た。
「村長さんのおっしゃる通りです」
穏やかな声。
「ラティアさんの力は特別です。だからこそ、王都で正しく見極めてもらう必要があります」
ラティアはぎゅっと指先を握る。
王都。
その言葉は、まだ胸の奥を少しだけ緊張させた。
村長は懐から一通の封書を取り出した。
厚手の紙に、村の印が押されている。
「これは王都の神殿宛の紹介状です」
サラがそれを受け取った。
村長はラティアを見る。
「あなたがこの村を救ってくださったこと、私どもが証人になります」
ラティアは目を瞬く。
「……証人」
「ええ」
村長は頷いた。
「わたしは怪しい者ではない、と」
カイルが吹き出す。
「怪しい自覚はあったのか」
ラティアはむっとしてそちらを見る。
「……ない」
「今の間が怪しい」
「怪しくない」
サラがくすくす笑った。
少しだけ、空気がやわらぐ。
けれどラティアの胸の中は、まだ静かではなかった。
王都へ行く。
それが、ただの“行ってみたい”ではなくなってきている。
もっと大きな意味を持ち始めていた。
村長が去ったあと、焚き火のそばに小さな沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはカイルだった。
「で、どうする?」
ラティアを見る。
「今さら置いてくって選択肢は、まあないけどな」
サラも静かに続ける。
「村で起きたことだけでも、王都に伝われば必ず調査が入ります」
ラティアは視線を落とした。
もし一人で残れば。
また誰かが来るかもしれない。
黒い残滓も、山に残っている。
自分だけで抱えるには、世界はもう少し広すぎると知ってしまった。
「……わたし」
小さく口を開く。
声は少し震えていた。
「行ったほうが、いいんだよね」
サラは優しく頷く。
「はい」
カイルも肩をすくめる。
「たぶんな」
ラティアは焚き火の火を見つめる。
ぱち、と小さく薪が弾けた。
王都。
物語の中で何度も読んだ場所。
勇者が集い、聖女がいて、王がいる場所。
そこへ、自分が行く。
怖い。
でも。
もう、それだけじゃなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、ユリスがいた。
さっきからずっと黙っている。
だが、その目はまっすぐラティアを見ていた。
逃げ道を塞ぐでもなく、急かすでもなく。
ただ、選ぶのを待っている。
ラティアは小さく息を吸った。
「……行く」
静かな声だった。
けれど、はっきりしていた。
「王都へ」
その言葉が落ちた瞬間、カイルが「よし」と笑う。
サラも穏やかに目を細めた。
そして最後に、ユリスが口を開いた。
「明日の朝、出る」
短い一言。
「村を出れば、次の宿場までは半日だ」
もう、王都への旅は始まっているような声だった。
ラティアはこくりと頷く。
「うん」
返事をしたあとで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
自分で決めた。
怖いけれど、自分で選んだ。
それが不思議と嬉しかった。
カイルが立ち上がる。
「じゃあ決まりだな。今日は寝ろ。明日からは本格的な旅だぞ」
サラも立ち上がった。
「朝の準備がありますから、早めに休みましょう」
二人は先に宿の方へ歩いていく。
ラティアも立ち上がろうとして——
ふと、髪に結ばれた守り紐に触れた。
白。
薄い金。
若草色。
帰るための紐。
その感触に、胸のざわめきが少しだけ落ち着く。
そのとき、低い声がすぐそばで落ちた。
「不安か」
ユリスだった。
ラティアは少し迷ってから、正直に頷く。
「……うん」
「でも」
少しだけ笑う。
「行きたいとも思ってる」
ユリスはそれを聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
「なら、それでいい」
短い答え。
ラティアは顔を上げる。
ユリスはいつもの無表情に近い顔で、焚き火の向こうを見ている。
でも、さっきの言葉はどこかやわらかかった。
ラティアは守り紐にそっと触れる。
「……王都って、どんなところ?」
ぽつりと聞く。
ユリスは少し考えてから答えた。
「人が多い」
ラティアは思わず笑う。
「それはもう聞いた」
ユリスは少しだけ間を置いて、続けた。
「うるさい」
「うん」
「面倒も多い」
「うん」
「だが——」
ラティアが待つ。
焚き火の火が、その横顔を赤く照らしていた。
「お前が見たいと思ったものは、たぶん全部ある」
ラティアは目を瞬いた。
その言葉が、胸に静かに落ちる。
怖い場所じゃなくて、見たいものがある場所。
そう思えたのは、初めてだった。
「……そっか」
小さく呟く。
ユリスはそれ以上何も言わなかった。
だが、その沈黙は不思議と心地よかった。
遠くで祭りの最後の笑い声が響く。
村の夜は、もう終わりに近い。
けれどラティアの中では、ひとつの道がはっきりと形を持ち始めていた。
王都へ。
物語の中心へ。
そして——
自分の知らない世界の、その先へ。




