30
黒い残滓が消えたあとも、広場にはしばらく緊張が残っていた。
焚き火の火が、ぱち、と小さく弾ける。
誰もすぐには動けない。
村人たちは少し離れた場所でざわめき合い、けれど近づくこともできずにいた。
そんな空気を破ったのは、さっきの村娘だった。
「……た、助かった……?」
震える声。
誰にともなく漏れたその言葉に、ようやく村人たちが現実を取り戻したように息をつく。
「消えた……」
「今の、なんだったんだ……」
「勇者様が倒したのか……?」
「あの子を狙ってたように見えたけど……」
「聖女様、じゃないのか……?」
「違う」
ラティアが即答した。
声が思ったより大きく出て、自分で少しびっくりする。
村人たちの視線がまた集まり、ラティアは一瞬たじろいだ。
だがその前に、カイルが笑いながら前へ出た。
「はいはい、そこまでな」
片手をひらひら振る。
「細かい話はあとだ。今はまず落ち着け」
軽い口調なのに、不思議と場が和らぐ。
サラも一歩進み、穏やかに微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ」
優しい声。
「残りの魔力も消えました。皆さんに害はありません」
その言葉で、ようやく村人たちの緊張が少し解けた。
あちこちで深い息が漏れる。
村長らしい年配の男が、震える足で前に出る。
「勇者様方……それに、あなたも」
ラティアはぴくっと肩を揺らす。
「村を守ってくださって、本当にありがとうございます」
深く頭を下げた。
それにつられるように、周りの村人たちも次々と頭を下げる。
ラティアはあわあわと手を振った。
「ち、違う、そんな……!」
「いや、今回はそこまで謙遜しなくていいだろ」
カイルが横から言う。
「倒したのは俺とユリスだけど、お前に反応してたのは事実だしな」
「それ、よくない事実じゃない?」
ラティアがすぐに言い返すと、カイルは肩をすくめた。
「まあな」
そのあっさりした返しに、周りの村人たちから小さな笑いが漏れる。
さっきまでの張りつめた空気が、ゆっくりほどけていく。
祭りの灯りが、再びやさしく村を照らし始めた。
そのとき。
広場の隅で、小さな子供が母親の後ろから顔を出した。
おそるおそる、ラティアを見る。
それから、てててっと近づいてきた。
ラティアは目を丸くする。
子供はラティアの前で立ち止まり、少し考えるように首をかしげたあと、ぽつりと言った。
「あれ、お姉ちゃんのこと見てたよね?」
ラティアは少しだけ息を呑む。
けれど、しゃがみこんで目線を合わせた。
「……うん」
小さく答える。
「でも、もう大丈夫だよ」
子供はほっとした顔になって、それからまた聞いた。
「こわくなかったの?」
ラティアは少し困ってから、笑った。
「ちょっとだけ、こわかった」
すると子供は真剣な顔で頷いて、母親のところへ戻っていった。
その背中を見ながら、ラティアは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
怖かった。
でも。
逃げなかった。
それだけでも、前とは違う気がした。
「……ラティア」
低い声。
ユリスだった。
ラティアが振り向くと、彼は広場の少し外れを見ていた。
「少し来い」
短い言葉。
ラティアはこくりと頷く。
二人は焚き火と人の輪から少し離れた、広場の端まで歩いた。
村の灯りが少し遠くなる。
夜風が頬に触れた。
しばらく、二人とも黙っていた。
ラティアは指先を胸の前でぎゅっと握る。
言いたいことが、たくさんある。
でも、まとまらない。
先に口を開いたのはユリスだった。
「さっきの残滓」
ラティアの肩が小さく揺れる。
「お前に反応していた」
責める声音ではない。
ただ事実を確認する声。
ラティアは少し迷ってから、ぽつりと答える。
「……うん」
「理由は分かるか」
ラティアは視線を落とす。
すぐには答えられない。
遺跡。
焦げ跡。
雪山で見た黒い魔物。
全部が頭の中を巡る。
でもまだ、はっきり言葉にはできない。
「……たぶん」
小さな声。
「わたし、あれをどこかで感じたことがある」
ユリスは黙って聞いていた。
ラティアは続ける。
「同じ感じがしたの。雪山で見た黒い魔物と……さっきのやつ」
少し間が空く。
「わたし、たぶん……あの時、何かしちゃったんだと思う」
「それで、ああいうのに見つかるようになったのかも」
ユリスの表情は変わらない。
だが、その目は静かにラティアを見ていた。
逃げずに。
逸らさずに。
ラティアはその視線に、少しだけ息が詰まる。
「……こわくないの?」
気づけば、そう聞いていた。
ユリスは一瞬だけ目を細める。
「何がだ」
「わたし」
自分で言って、少し苦しくなる。
「また、何かに狙われるかもしれない」
「今日みたいに、巻き込むかもしれない」
「それで……」
声が小さくなる。
「一緒にいると、危ないかもしれない」
夜風が吹く。
遠くで祭りの音が揺れる。
ユリスは少しだけ間を置いてから言った。
「怖くない」
短い答えだった。
ラティアは目を瞬く。
ユリスは続ける。
「警戒はする」
はっきりと。
「だが、それと恐れることは違う」
ラティアは黙って聞いていた。
「お前が狙われるなら、守る」
ユリスの声は落ち着いている。
「原因を探る必要があるなら探る」
そこで一度言葉を切る。
「止める必要があるなら止める」
ラティアの呼吸が、少しだけ止まる。
「それが俺の役目だ」
静かな断言だった。
ラティアは、じっとユリスを見つめた。
その言葉は冷たくない。
優しすぎるわけでもない。
ただ、強かった。
揺れない声。
その強さが、胸の奥にすっと染みていく。
「……ずるい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
ユリスの眉がわずかに動く。
「何がだ」
ラティアは俯く。
「そうやって言われると……安心しちゃう」
ユリスは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
ラティアは自分の胸を押さえる。
さっきまで残っていたざわつきが、もうほとんど消えている。
代わりにあるのは、静かな熱だった。
「……ありがとう」
小さな声。
ユリスは短く答える。
「気にするな」
そのとき、広場の方からカイルの声が飛んできた。
「おーい!」
振り向くと、焚き火のそばで手を振っている。
「二人だけでしんみりしてんじゃねえぞ!」
ラティアの顔が一気に熱くなる。
「ち、違う!」
サラが隣でくすくす笑っていた。
「ごはんが冷めてしまいますよ」
ユリスは小さく息を吐く。
「戻るぞ」
ラティアは頷いた。
「うん」
さっきよりも、少しだけ素直に。
二人は並んで広場へ戻る。
村の灯りはまだ温かい。
笑い声も、音楽も、ちゃんとそこにある。
ラティアは歩きながら、ふと思った。
外の世界は怖い。
知らないものばかりだ。
でも――
その中で、ただ怯えているだけじゃなくて。
向き合うことは、できるのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思えた夜だった。




