29
黒い魔物が跳んだ。
一直線に——ラティアへ。
「下がれ」
低い声。
次の瞬間、銀の閃光が走った。
ユリスの剣だった。
踏み込み。
一閃。
空気を裂く音とともに、黒い影が真っ二つに断ち切られる。
「グァァァ——!!」
悲鳴のような唸り声。
裂かれた体が空中で崩れ、黒い霧となって広場に散った。
だが——
消えない。
地面に落ちた黒い霧が、ぬるりと蠢く。
ぐにゃり、と形を変える。
腕。
爪。
歪んだ顔。
カイルが素早く前へ出た。
弓を構える。
番えた矢に、青白い火花が散った。
ばちっ、と小さな雷音が鳴る。
弦を引く指先から、雷の魔力がするすると矢へ流れ込んでいく。
矢尻が淡く発光した。
「……気味の悪い相手だな」
低く呟き、放つ。
「——雷穿」
ヒュンッ——!
矢は夜気を裂き、一直線に黒い霧の中心へ飛ぶ。
その軌跡に、青白い雷光が尾を引いた。
着弾——同時に、雷が弾ける。
バチィッ!!
「グァァッ!」
黒い霧が激しく痙攣した。
闇の表面を這うように稲妻が走り、霧の奥に隠れていた核めいた揺らぎを一瞬だけ浮かび上がらせる。
だが——
やはり消えない。
散った霧が、またぬるりと集まり始める。
カイルが眉をひそめた。
「まともな魔物じゃねえ!」
サラが祈祷書を開いた。
「完全な魔物ではありません!」
冷静な声。
「魔力そのものです!」
黒い霧が再び集まる。
ゆらゆらと揺れながら、また“形”を作る。
赤い目が光った。
その視線は——
ラティア。
ラティアの背筋が凍る。
(……なんで)
魔物が低く唸る。
「……ァ……」
壊れた声。
次の瞬間。
影が弾けた。
黒い残滓が、四方から一斉にラティアへ襲いかかる。
「来るぞ!」
カイルが立て続けに矢を放つ。
一射。
二射。
三射。
「——雷穿」
「——雷穿」
「——雷穿」
放たれるたび、矢にまとわりついた雷光が鋭く唸る。
ヒュン、ヒュン、ヒュン——!
青白い閃きが夜を走った。
矢が残滓に突き刺さるたび、ばちばちと雷が弾け、黒い霧を引き裂く。
闇の輪郭が揺らぐ。
隠れていた核がちらつく。
「散れよ……!」
カイルの声とともに、さらに雷が走る。
矢から迸った稲妻が霧の内部を駆け巡り、形を保とうとする魔力を無理やり暴いていく。
だが、散った先からまた集まる。
止まらない。
ユリスが前へ出る。
踏み込み。
回転。
剣が唸る。
二閃。
三閃。
銀の軌跡が夜を裂き、カイルの雷が暴いた核を正確に断ち切っていく。
「グアァァ!!」
だが、それでも消えない。
斬られた黒い霧が空中で震え、
次の瞬間、一斉に——
ラティアへ向かった。
「……っ!」
ラティアの胸が強く脈打つ。
怖い。
でも、それだけじゃない。
胸の奥がざわつく。
呼ばれている。
吸い寄せられる。
(……だめ)
ラティアの手に光が滲む。
無意識に魔力が溢れかける。
空気が震えた。
広場の灯りがびり、と揺らぐ。
村人たちが悲鳴を上げる。
サラが息を呑む。
「ラティアさん——!」
その瞬間。
手首を、強く掴まれた。
「落ち着け」
低い声。
ユリスだった。
ラティアの呼吸が止まる。
ユリスの手は温かく、しっかりしている。
逃げ場を塞ぐようでいて、
暴れないように支える強さだった。
「深呼吸」
短い命令。
ラティアの胸が上下する。
言われるまま、息を吸う。
ゆっくり。
吐く。
胸の奥のざわつきが、少しずつ静まっていく。
溢れかけた光が弱まる。
ユリスの声がもう一度落ちる。
「大丈夫だ」
静かな断言。
「俺がいる」
その言葉が落ちた瞬間、
ラティアの力は、すっと収まった。
ラティアの魔力は心と繋がっている。
だから——
安心すると、落ち着く。
ラティアは小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間。
残った黒い霧が最後の形を作る。
歪んだ影。
壊れかけた顔。
だが——
弱い。
カイルがすっと息を整えた。
弓を引く。
今度の矢に宿る雷は、先ほどよりも濃かった。
矢尻に集まった青白い光が、ばち、ばち、と鋭く爆ぜる。
弓弦にまで雷光が走り、周囲の空気がひりついた。
「——見えた」
狙うのは、残滓の中心。
幾度散っても消えない、核の一点。
カイルが低く告げる。
「——紫電一矢」
指が離れる。
ヒュンッ——!
放たれた矢は、まるで稲妻そのものだった。
一直線に闇を裂き、黒い核を射抜く。
着弾と同時に、激しい雷光が弾けた。
バギィッ!!
「グァァァッ!」
残滓が大きくのけぞる。
黒い霧が悲鳴のように震えた。
核が露わになる。
そこへ、ユリスが踏み込む。
一歩。
二歩。
剣が振り上がる。
「——消えろ」
低い声。
次の瞬間、銀の斬撃が夜を裂いた。
黒い残滓が真っ二つに断たれる。
霧が弾ける。
ばらばらになった闇が、今度こそ光の粒となって空へ散っていった。
完全な沈黙。
広場の空気が、ゆっくり戻る。
カイルが弓を下ろし、息を吐く。
「……終わりか」
サラは小さく祈りを捧げた。
「消えました」
遠くで村人たちがざわめいている。
誰も近づいてこない。
ラティアは、さっき掴まれていた手首を見た。
まだ温かい。
胸の奥が、不思議と落ち着いている。
カイルがにやっと笑った。
「勇者様、かっこよすぎだろ」
ユリスは剣を収める。
「残滓だ」
短く言う。
「完全な魔物じゃない」
サラが頷いた。
「魔王の魔力の残り香ですね」
ラティアの背中に冷たいものが走る。
(……残り香)
あの遺跡。
あの焦げ跡。
やっぱり——
あのとき消し飛ばしたものは、ただの魔物じゃなかった。
ユリスがラティアを見る。
「もう大丈夫か」
ラティアは小さく頷いた。
「……うん」
少し間が空く。
カイルが笑う。
「祭りで魔物退治とか、派手すぎる歓迎だな」
サラもくすくす笑う。
「忘れられない夜になりそうです」
広場の灯りが揺れる。
ざわめきが少しずつ戻ってくる。
ラティアは空を見上げた。
胸の奥は、まだ少しだけざわついている。
でも。
さっきほどじゃない。
ユリスが近くにいるだけで、少し落ち着く。
ラティアは小さく息を吐いた。
(……外の世界)
やっぱり。
簡単じゃない。
でも——
怖いだけじゃなかった。
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