記憶A-3 -fragments of memories-
「楓はさ、いつから人は大人になると思う?」
「そりゃ、二十歳になってからじゃないの?」
冷蔵庫の中をごそごそと漁りながら、父さんの背中越しに投げかけられた質問に、僕は空っぽのグラスを弄りながら答えた。
「一つの答えではあるかもしれないな」
「なにさ、その玉虫色の返答は……」
お、あったあった、と言いながら戻ってきた父さんの手に握られていたのは、さっきまで飲んでいた発泡酒とは違う種類のビールだった。
僕、まだ高校生なんだけどなぁ……。
そんなことを考える僕にはお構いなく、父さんは喜々としてプルタブを起こし、僕のグラスに琥珀色の液体をとくとくと注いだ。
「父さんはな、こう思うんだ。何か、大切な決断を。自分の人生を決めかねない、大切な大切な決断を……他の誰でもない、自分の意志で行った時。そんな時、人は大人になったって、そう言えるんじゃないかなって」
「……それは」
「楓がそういう決断をした時、一緒に飲もうって決めてたんだ。お前がこんなに早く成長してくれて……間に合ってくれて、嬉しいよ。ありがとう」
「父さん……」
それは未成年がお酒を飲んでいい理由にはなってないじゃないか、なんて野暮なツッコミを入れられる雰囲気ではなかった。なにより、僕自身が言い出す気にならなかった。
全て分かった上で、父さんはこうして僕と酒を酌み交わそうとしてくれているのだと気付いたから。
「じゃ、乾杯」
「乾杯……」
軽やかな音が、部屋の中にぽんと跳ねた。
父さんが美味しそうに飲み干したそれを、僕は恐る恐る口にする。
「……げっ! にが!」
今までに味わったことのない苦みだった。風邪の時に飲んだ粉薬とも、初めて食べたゴーヤとも違う、なんとも言えない風味が、舌をひりひりと焼いた。
「おやおやー? このおいしさが分からないなんて、やっぱり楓はまだ子供だったかなー?」
「び、ビールが飲めたら大人だなんて、それこそおかしな話だろ……」
「そんなことないさ。ビールの苦みは、酸いも甘いも嚙み分けた大人にこそ分かるうまさがあるんだよ」
「なにその独自理論。舌が馬鹿になってるだけなんじゃないの?」
しかし目の前になみなみと注がれたビールを飲み切れないのは何となく癪だ。
ビールは味わう物じゃなく、のど越しを楽しむものだとテレビで聞いたのを思い出して、思い切って一気に飲みこんでみる。苦みを感じる間もなく、強い炭酸の風味が喉を駆け下りた。
「おぉ、一気にいったな! 無理してるのか?」
「まさか。余裕だし」
「そうか、じゃぁもう一杯いけるな」
「ぐ……」
再び増えていくグラスの中身を、なんとも言えない気持ちで眺める。胃の辺りがぽかぽかしていた。
寒い国の人がお酒を飲んで温まる気持ちが今なら分かる気がした。
「楓」
「なに? あ、父さんにも注ごうか?」
「舞花のこと、よろしく頼むな」
「急に真面目な話ぶち込んでくるのやめて」
父さんのグラスにビールを注ぎながら、僕はため息をつく。
明るい気分でいればいいのか、シリアスな気分でいればいいのか、分からなくなる。
「同意書、もう持ってるのか?」
「うん、僕の部屋の机の上に置いてある」
「そうか、後でサインしておくよ」
「ありがと」
コールドスリープに入るには三つの条件のうち、どれかに該当する必要がある。
一つ目は、とんでもない大金持ち、またはその身内であること。莫大なお金を払えば、コールドスリープに入る事はもちろん可能だ。
二つ目は、適性検査に合格すること。数千年後の未来でも生き抜く力を得た選ばれし人間も、コールドスリープに入ることを許される。そして特例として、その近親者も同じ待遇を受けられるらしい。
最後に、三つ目。
人体実験を受けた人間と、その身内。ただし、実験を受ける人間と身内の年齢は、二十五歳より若くなくてはならない。
「父さんも、舞花も、楓も適正検査に合格できなかったって分かった時、一瞬脳裏をよぎったよ。だけど……決断できなかった。お前たちのどちらかを、命の危険に晒すなんて」
人体実験というのはつまるところ、適性検査に合格しなかった人間にも、なんとかして特殊な能力を授けようとする試みのことだ。
実験の内容は知らされていない。怪しい薬を飲まされるという噂もあるし、脳を弄られるという噂もある。黒い噂は耐えることがなく、政府ですらそれを撤回しない。
命の保証など、勿論ない。
「父さんがもっと若ければなぁ……」
「父さんが二十五歳の頃、僕たちまだ生まれてないじゃん」
「ふふ、それもそうか。二十五歳といえば、父さんがまだ母さんにアプローチをかけられてない頃だなぁ……。あの頃の母さんはそう、まるで白百合のように美しく――」
「はいはーい。その話はもう何回も聞いて耳タコですー」
「楓」
「んー?」
「父さんは親として、本当はお前の事、止めるべきなのかな?」
「ねぇ、まじめな話との落差、どうにかなんない?」
もしかしたら少し酔っぱらっているのかもしれない。
かくいう僕も、すこし頭がぼーっとしている。いい気分だ。
「……分かんないよ、そんなの。正解なんてないんじゃない?」
「なんだよ、ちゃんと考えろよー」
「そんなこと言われても――」
「俺は止めたいよ……止めたいんだよっ……!」
「……っ」
父さんが「俺」って言うの、初めて聞いたな……。生まれてからずっと一緒にいたのに、知らない一面が、まだあるんだな。
何もしなくても、このままいけば人類は数年で滅ぶ。
ならば、なんとしてでもコールドスリープに入れて、未来で生きる可能性を与えたい。
僕が舞花にそう思っているように、父さんだって、僕たちに対して同じ想いを抱いていたはずだ。
だけど、適性検査に落ちてしまった父さんには、もうどうすることもできなくて。
二十五歳に満たない僕には、選択肢があった。
自分の命を危険に晒せば、少なくとも舞花だけは生き残らせることができた。
だけどその選択は同時に――
「僕も、悩んだよ。父さん、寂しがるだろうなって」
――人類が滅びるまでの時間、父さんを一人にすることにもなる。
人体実験を受けることになれば、もうこの家に帰って来ることはない。
実験を受けた後、もし生きていれば、少し講習を受けた後、僕たちはコールドスリープに入る。
舞花は、僕より早くコールドスリープに入るのかもしれない。どちらにせよ、父さんにはもう会えない。
心から愛した母さんは既になく。
必死に育て上げた僕たちの姿すら傍らにはなく。
そうして、冷え切っていく世界の中を、たった一人で生きていく。
そんな未来を、父さんに押し付けることになる。
父さんがこの家に一人で居る未来を想像すると、僕の心はずきずきと痛んだ。
僕たちを起こさないようにと気遣う静かな足音も。
くたびれたスーツの匂いも。
安い発泡酒のプルタブをあけた軽い音も。
母さんが死んでから、毎日のように繰り返されてきた父さんの夜のルーチンは、それでもきっと繰り返されるのだろう。
僕たちがいなくなっても、繰り返されてしまうのだろう。
僕はそれが嫌で、そんな未来を父さんに押し付けたくなくて……それでも、舞花を助けたいと願ったから。
だから――
「ばかやろう!」
父さんはがらになく怒鳴って、僕のグラスにビールを勢いよく注いだ。
そこは殴るとこじゃないのか? いや、別に殴って欲しい訳ではなかったんだけど……。
「父さんはなぁ! 俺が不幸になってでも、お前たちに幸せになって欲しいんだよ! お前たちが幸せなら、俺は幸せなんだよ! 分かったか!」
「……やめてよ」
親の前で泣く年齢は、とうに過ぎてるんだ。
僕は注がれたビールを一気に飲み干した。
やっぱり、これまでに味わったことのないような苦い味がした。
ふざけるな。絶対に旨いって思ってやる。
若干歪む視界の中で、僕は缶ビールのプルタブを起こす。
「分かったよ! じゃぁ僕と舞花は、未来に生きる!」
「おぉ! そうしろ!」
「人体実験なんて知ったことか! 絶対に耐え抜いてみせる!」
「そのいきだ!」
「だから父さん!」
「なんだ!」
「今までありがとう!」
そして僕は、思いっきりビールを流し込んだ。
苦い。苦い。苦いよ、父さん。
でもそうだな。少し、ほんの少しだけ。
「こちらこそ」
温かい味がしたかもしれない。
その後のことは、よく覚えていない。
翌朝起きると、父さんは既に出勤していた。
僕の目の前には、人体実験の同意書があった。保護者の欄に、父さんのサインとハンコが押してあった。
横には一枚、メモがあった。
『飲み比べは父さんの勝ちだな。一生越せない壁が、一つくらいあってもいいだろ』
「くっそ……」
それは暗に、もう一生、父さんと杯を交わせないことを示していたから。
僕は泣いた。
ひっそりと、誰にも見られないように。
それが父さんと僕だけの、思い出になるように。
静かに、静かに、泣いたんだ。




