記憶A-2 -fragments of memories-
夜、舞花が眠りに落ちた頃、父さんが仕事から帰ってきた。
僕たちを起こさないようにと気遣う静かな足音、くたびれたスーツの匂い、安い発泡酒のプルタブをあけた軽い音。母さんが死んでから、毎日のように繰り返されてきた、父さんの夜のルーチンだ。
「おかえり、父さん」
僕が声をかけると、父さんは外していたメガネをかけ直してこちらを向いた。
「なんだ、まだ起きてたのか。夜更かしか?」
「まぁ、そんなとこ。何か作ろうか?」
「気が利くねぇ。じゃぁなんか適当に頼む」
「りょーかい」
冷蔵庫の中をのぞくと、卵とキャベツがあった。豚肉は……ないか。
「とん平焼きでいい? 肉抜きだけど」
「なんでもいいさ。楓の作った料理なら」
「よっぽど社食が美味しくないんだね」
「楓の料理がうまいんだよ」
「じゃぁ社食はおいしいんだ?」
「いや、まずい。筆舌に尽くしがたい」
「だと思った」
軽口を叩き合いながら、キャベツを刻んでレンジに入れる。卵を溶かし、良く熱したフライパンに流し込むと、小気味いい音を立てて卵が固まっていく。
「今日は一段と遅かったね。なにかあったの?」
「あぁ……この雪で、ついに関西の方につながる道が完全に封鎖されちゃってな。運送方法を変えるから品出しの流れが変わっちゃって、てんてこ舞いだったんだよ」
「そうなんだ」
父さんは商社に勤めている。その中でも商品の流通を担当する部署にいるらしく、寒冷化が進んでからは輪をかけて忙しくなったようだ。
この前は東北へのパイプラインが完全に断たれ、緊急避難指示が出ていた。そしてついに今日、日本の東西の輸送網が断たれた。世界はもう、長くはもたない。
こんな状況だ。会社なんて辞めてしまえばいいのに、と思う。実際、父さんにそう告げたこともある。
けど父さんは「みんなそうやって辞めていったら、もっと早く日本が終わっちゃうだろ」なんて、笑って答えた。誰かがやればいい事を、「誰か」に頼まない。父さんらしいと思った。
こういうお人好しの人間が残っているから、まだ日本の経済は辛うじて回っているのだろう。
「はい、できたよ」
「お、待ってました!」
そんな父さんに僕ができることといえば、たまにこうやって、夜の晩酌用の料理を出すことくらいだ。労いになっているかどうかは、分からないけれど。
柔らかくなるまで火を通したキャベツを卵で包んで、ソースとマヨネーズをかけただけのお手軽な料理を、父さんは目元をほころばして美味しそうにほおばった。
「くぅー……うまい! 罪な味だよこれは」
「夜中に食べたら、なんでもそうでしょ」
「楓は本当に料理がうまくなったなぁ……。最初に作った時は、舞花が泣くくらい下手だったのに」
「い、いつの話してるのさ……」
母さんが死んでから、僕が料理当番をやることになった。父さんは仕事で忙しいし、これ以上負担をかけたくなかった。父さんが働き、家事を僕と舞花で分担する。それで家庭はうまく回るはずだったのだが――
『お兄ちゃん、あのね……お弁当、残しちゃった……。せっかく作ってくれたのに……ごめ……うっ……ぇ……ごめんねぇぇえええ』
――僕に料理の才能はなかったらしく、当初は、とてもじゃないが完食できない一品を作ることしかできなかった。舞花の涙を見てから、僕は委員長の勧めで調理部に入部することになるのだが……それはまた、別の話だ。
「舞花のため、家族のためになると、楓はいつもとんでもない力を発揮するよなぁ。いい子に育ってくれて、父さんは幸せだ……」
「なにさ、急に……酔ってるの?」
「で、今回は何をしようとしてるんだ?」
「――っ」
いつもはちょっと抜けてる、くたびれたおっさんの癖に……たまにこうやって鋭い事を言うから困る。先手を打たれた僕は、しどろもどろに答える。
「な、なにが?」
「いくら成長したとはいえ、子供は子供。親の目はごまかせないもんだよ」
「くっ……またそんな漫画に出てくる出来る父親みたいな発言を……」
「ふふ、一回言ってみたかったんだよ」
さ、話しなさい。と父さんは柔らかく微笑んだ。
ゆったりと椅子に腰かけて、僕の言葉を待つ父さんの姿は、とても大きく、頼もしく見えて。僕の三倍長く生きている父さんの、人生の厚みを感じた。
やっぱり、敵わないな……。
観念した僕は、一拍置いて……さらに、深呼吸を数回して、たっぷりと時間をおいて……告げる。
「コールドスリープに入ろうと思う」
父さんはしばらく、何も言わなかった。
僕の言葉だけが、行き場をなくして、静かな部屋の中をゆったりと漂っていた。
コールドスリープに入る。適性検査に落ちた僕がそれを言う意味を、父さんはよく分かっているはずだ。きっと父さんも、一度は考えたはずだから。
やがて、ゆっくりと目をあけて、父さんが口を開いた。
「楓」
「……うん」
「飲むか」
「……うん?」




