十五:ハント・ザ・クリケット(後編)
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
パチパチと火花が散る音がいやに大きく響く。
既に日は暮れ、とっぷりと広がる闇夜の中で、橙色に燃える焚火の炎だけがあたりを照らしていた。
あの後、雫は手早くテントの設営を、僕は夕飯の準備をした。
会話はほとんどなかった。アイも何故かあまり喋ってくれず、気まずい沈黙が流れる。
雫の口数が少ないのはまぁ分かるとして……アイはどうしたんだろう。どこか変なところにぶつけちゃったかな。
「おいしい?」
「……スープが豆々しいです」
「鉄分とタンパク多めの食材選んだらそうなったんだよ、ちゃんと食べてね」
傷口がすぐに塞がる「無血」の能力は、決して血を作り出す能力ではない。失う血の量が少なくなるとはいえ、貧血予防をしておくに越したことはないだろう。
「……貧血予防のお薬は飲んでます」
「薬だけで全部カバーできる訳ないだろ。食べ物からの吸収が一番効率いいに決まってる」
そんなこと言い始めたら、サプリメントだけで生きていける世の中になってしまう。
あれはあくまで補助剤。メインは食事だ。
「……お酒――――」
「だからダメだって」
まだ言ってるのか、この子は……。
「……楓さんは飲んだ事ないんですか? お酒」
「僕は……まぁ、あるけど」
「うわぁ……」
「い、一回だけ! 一回だけだよ!」
明らかに「うわぁ、こいつにだけは言われたくないわー」みたいな目線を送ってきたけど、違うからね⁈ 一応、保護者の観察下だったからね⁈
「いやらしー顔してました……どうせ高校卒業と同時に同級生とはっちゃけて宅飲みして、そのまま酔った勢いでくんずほぐれつしたんでしょう……不潔です」
「僕はその発想がすぐに出てくる君の方が問題あると思う」
年下……なんだよね? なんだかイマイチ納得いかないんだけど……。
会話に区切りがつき、また静寂の帳が下りる。
薪の爆ぜる音以外は、たまにずずっとスープをすする音が聞こえるくらいだ。
やがて雫は小さく「ごちそうさま」と手を合わせ、器を僕に寄越した。
結局二杯くらいお替りしてたし、お気には召したんだと思っておこう。
手拭いでさっと器の中を拭き、ザックに戻して行く。
外での調理は、昔キャンプや野外実習で料理した時のノウハウがあったから思っていたよりもスムーズに行えた。次来るときはもう少し荷物も減らせるかもしれない。
「……楓さん」
「ん? 何?」
鍋の中に雪を詰め、焚火で沸騰させて簡単な消毒をする。
流石に家に帰ってからもう一度洗うけど、食べ物の匂いとか残りかすが消えるから、ザックが汚れなくて済む。
「……ってますよね」
「……ごめん、なんて?」
倒木に腰掛けた雫は、珍しく偉そうじゃなかった。
なんなら委縮している様にすら見える。
「……怒ってますよね」
「……?」
言葉の意味が分からず、僕は小首をかしげる。
怒ってるのは雫の方じゃなかったっけ……?
「………………ご」
「いや、怒ってないよ?」
あ、セリフかぶっちゃった。何言おうとしたかは分からないけど……まぁ、いいよね。誤解は解いておかなくちゃ、後々面倒くさいし。
「雫の言う通り、今日僕が乱入したのは完全に判断ミスだし。今後も邪魔しない方がいいっていうのは、うなずける話だし。まぁ、平手打ちは痛かったけど……」
「……」
あれ? 僕なんか変な事言った?
なんだか不穏な雰囲気を纏い始めた雫に、僕は慌てて言葉を重ねる。
「そ、それにほら。怒ってたとしても、そんな感情すぐに消せちゃうし? 気にすることないよ」
「……………………………………………………………………………………そうですか」
「あの……雫……さん?」
「……判断ミス、かどうかは分かりませんよ。少なくとも、貴方はあの時引き金を引いた。……言ったでしょう。引くべき時にトリガーを引ける人が強いんです。……強いんですよ」
「ありが、とう……?」
長い沈黙の後、それだけ言って雫は立ち上がった。
「……今日はもう寝ましょうか」
「……そうだね。疲れちゃったし」
「火を消しますよ」
「え?」
てっきり火の番をするものだとばかり思っていた僕は面食らった。
雫は雪を適当にかき集めると、それを焚火にかけた。
じゅっ、という音と共に、炎が消える。
一瞬にして、視界が暗闇に包まれた。少し、心もとない。
「消しちゃってよかったの?」
「オーガ・インセクトは火を恐れません。むしろ好む種類が居ます。一晩中つけておくのはお勧めできませんね」
電灯にバシバシとぶつかりまくっていた蛾を思い出し、僕は納得した。確か走光性……だっけ?
「さぁ、冷えないうちにテントに入って寝ましょう」
「おっけー」
目が暗闇に慣れてきたところで、ザックを持ってテントに向かう。
テントの大きさは、そんなに大きくない。僕と雫、二人がギリギリ寝られるくらいの広さだ。
当然、肩とか腕とかは触れてしまうと思うけど……できる限り隅っこに縮こまっていよう。
「虫除けはここに掛けておけばいいんだっけ?」
人類保護機関が開発したこの機械は、オーガ・インセクトの嫌う音波や臭いを発していて、蚊取り線香みたいな役割を担っているらしい。
絶対安全になるわけではないが、それなりに効力はあるから安心して寝られるという話だった。
「そうですね。縁のボタンを押して吊るしといてください。まぁ襲ってきたところで、特に問題はないんですが」
「はは……」
それを言えるのは雫だけだろう。他の狩人にとって、野営は恐ろしいはずだ。
火は消すしかなく、黒に塗りつぶされた空間で、巨大な生物が雪を踏みしめる音を聞き逃してはなるまいと神経を尖らせながら寝る。
仮に戦闘になれば、それこそ恐怖だ。
目を頼りに情報を得る僕らにとって、暗闇での戦闘はビハインドがありすぎる。
つくづく雫という存在が特異的なのだと実感した。
「じゃぁ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ごそごそと寝袋の中に入る音がした。
暗闇の中、自分のすぐそばで女性が寝ようとしている、という状況は、なんというか少し――――エロいなと思った。
そもそも、眠るという行為はとても無防備だ。そんな無防備な姿が、今自分の真横にある。
きっとその内安らかな寝息が聞こえてきて、それで寝苦しい時は、少し悩まし気な声を上げたりして、ごそごそと寝袋の中を動き回るのだろう。
うん、落ち着こうか僕。
思考がおかしい。
どうした? 雫なんてもうかれこれ一週間以上一つ屋根の下で暮らしてるんだぞ? それが一つテントの下になったからなんだって言うんだ。
お互い軽くアルコールで体を拭いただけのはずなのに、なんだかいい匂いがするだとか、腕の上を這うほっそりとした指先が艶めかしいだとか、そんな事はどうでも………………ん?
「ちょっ⁈ 何して――――んぐっ」
「大きな声出さないでください。オーガ・インセクトは、結構音に敏感なんですから」
手のひらで口をふさがれ、僕はこくこくと頷いて、理解の意を示す。
「わ、分かったけどとりあえず離れて……ち、近いって」
「寒いんです」
「この寝袋は耐寒マイナス三十度までいけるとか言ってなかったっけ……って、ほんとに何してんの⁈」
雫は僕の右腕の袖をまくり上げ、腕の上を執拗に撫でていた。
細くて滑らかな指先が、静かに手首から肘の間を行ったり来たりする。
暗闇の中、視覚が通常よりもうまく機能していないからか、やけに感覚が鋭くなっている。
それはさながら、性行為の前に行う愛撫のようだった。……もちろん想像だけど。
「……………………そう」
「なに? なんなの?」
訳が分からず混乱している僕に追い打ちをかけるように、雫は次の行動に出た。
腕の一部が、とても温かくなった。
ぎょっとして視線を下げると、僕の腕に雫が口をつけていた。
「ちょっ――――!」
「静かにしてください」
再び、今度はさっきよりも無理やり口元を押さえつけられ、僕は声を飲み込んだ。
密着した雫の体温が生々しい。
腕にかかった、絹のような髪がくすぐる感覚がじれったい。
そして何より、今まで経験したことのない女性の唇の感触が、どうしようもなく情欲を掻き立てる。
「……怖いですか?」
「っ……ん……?」
胸の奥から沸き上がる、動物的な荒々しい欲望を、僕は全力でコントロールして抑えつけ、雫の言葉に耳を傾けた。
「なに……?」
「私の唾液はアポトーシスを引き起こします。つまり、もし私がこのまま腕を噛めば、貴方はここで死んでしまうんです」
「……そうだね」
なるほど、だから腕に指をあててたのか……。でも、そもそもなんでこんな事……。
「怖いですか? 恐ろしいですか? 叫びたいほどの恐怖に駆られませんか?」
「……」
「泣きたくなりますか? 逃げ出したくなりますか? なんでこんなことするんだよって、やめろよ離せって、怒りたくなりませんか?」
「……」
「負の感情を……ぶつけたくなりますか?」
「…………………………ならない」
僕は、今度はそっと、雫の顔を左手で押して、その行為をやめさせた。
「ならないよ。それ以前に、なんで? どうして? って疑問の方が、先に出てきちゃうし」
素直な気持ちだった。
腕の傷口がない事を確認していた時点で、例え唾液をつけられたとしても、壊死が働くことはない。
そもそも、恐怖とか怒りとか、そう言う感情は制御できる。
無縁、とまではいかないけど、縁遠い話だ。
「そうですか……」
「雫、一体何でこんなこと……冷たっ」
ひんやりとした布があてがわれた。
濡れた布地が当たった部分は、すーっと心地よい感覚と共にすぐさま揮発していく。
アルコールだ。
「……いきなりこんなことされて、気持ち悪かったですよね……、消毒します」
「いや、その……」
「……めん……さい」
腕に当てがった布をゆっくり、優しく、上下させながら、彼女は細い声で言った。
「……ごめんな……い」
「……」
「……ごめんなさい……ごめんなさい」
「……」
僕は。
ただ何も言わず、その謝罪の言葉を聞いていた。
何に対する謝罪の言葉なのか、誰に対する懺悔なのか。
それすらも分からなかったけれど。
彼女の中のじゅくじゅくとした生傷が露出している気がして。
僕はそっと彼女の背中をさすった。
傷つけないように。
傷口がこれ以上広がらないように。そっと、触れた。
◆◆◆
目が覚めると、横には誰もいなかった。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。雫が寝たのが先か、僕が寝たのが先か……それすらも曖昧だ。
外に気配を感じ、コートを着てテントの幕を上げる。
「おっそいです。このまま置いて行こうかと思いました」
焚火の前で仏頂面を貼り付けて座っているのは、いつもの雫だった。僕は少しほっとして、言い返す。
「いつもはそっちの方が起きるの遅いくせに……」
「旅先と家でのことを混同しないでください。いいんですよ? 私だけお馬さんに乗ってぱっからぱっからと帰っちゃっても」
「それはやめてくださいお願いします」
ここからコロニーまで歩いて帰るとか、想像しただけでもぞっとする。
「じゃぁちゃちゃっと片づけて、帰りましょう? 夕方にはお家の暖炉の前でゆっくりしたいですし」
そして僕は夕飯を作るんですね、分かります。
苦笑いしながらテントから這い出ようとして……僕は苦悶の声を上げた。
「~~~~っ」
「……うふふ、やっぱりなりましたか」
「いってぇ……」
動こうとすると、ふくらはぎから内太腿にかけて、強烈な痛みが走る。
筋肉が悲鳴をあげている……俗にいう、筋肉痛だ。
「初めて乗馬した人はぜーったいなるんですよねー。ふふ、いい感じに無様な恰好じゃないですか」
「いや、ほんと……なんにも言い返せない位きつい……」
「えー? そうなんですかー? ちょっとだけー、触ってもいいですかー?」
「え、ちょ、いや、それはやめて――――いてぇえええええええええええええ!」
僕の悲痛な叫びと、雫の悪魔みたいな笑い声が林の中に響き渡った。
昨晩の雫は幻だったのだろうと、僕は勝手にそう思う事にした。




