第二章77 『穂を置き槍を取った日』
「ヴァルガ……」
ルイスは、その名を小さく繰り返した。
エダの前に広げた紙には、人の姿しか残っていない。
逃げる人々と、後ろへ槍を向ける人々。
その間に何があったのか、いくら灯りを動かしても分からなかった。
「どんな獣だったんだ?」
尋ねると、エダは膝に重ねた手をほどいた。
「四つの脚で歩き、肩は人の背より高かったと聞いているよ。前の脚が太くてね。家の戸を、枝でも払うように壊したそうだ」
ルイスは、さっき通ってきた家の間を思い浮かべた。
子供たちが走っていた道。
その幅を塞ぐような獣が、戸を破って入ってくる。
「身体は、黒い岩のようだった。背には硬いものが幾重にも重なっていて、その間が裂けていたという」
レオンがわずかに顎を上げた。
「傷があったのか?」
「傷なのか、もともとそういう姿だったのかは、分からない。ただ、獣が怒ると、その裂け目に火がともったそうだよ」
「火?」
「青とも、紫ともつかない火だとね」
フィリアの鉛筆が動いた。
ルイスは自分の右手へ目を落とした。
指を軽く握り、また開く。
そんな色の炎を、見たことはなかった。
「燃えてたのか? 背中が」
「そう語り継がれているよ。火の粉が飛んだという話もあれば、裂け目が光ったという話もある」
エダは紙に残る槍を見た。
「けれど、その明かりが見えたら、近づいてはいけない。それだけは、どの話にも同じように残っている」
ルイスは、記録の空白をもう一度見た。
青紫に光る背中を想像する。
紙の上の人々が、小さく見えた。
――――――――――
サナが家の中から盆を持ってきた。
木の杯を一つずつ置くと、湯気と一緒に、草のような香りが届いた。
「口を湿らせてからにしなよ。帰ったばかりで、ずっと話してるんだから」
「そうだったね」
エダが杯へ手を伸ばした。
ルイスたちも礼を言って受け取る。
温かいものが喉を通ると、林を歩いてきた時の渇きを思い出した。
エダは一口飲み、膝の上で杯を支えた。
「獣が来た時、皆が一つの村に住んでいたわけではなかったそうだ。沢のそばや、畑を作れる斜面に、幾つも家があった」
「今の、ここみたいなところ?」
ルイスが尋ねる。
「ああ。だが、同じ場所ではないだろうね。私たちも、幾度も住む場所を変えてきたから」
フィリアは頷き、話の続きを待った。
「最初に、家を失った者が逃げてきた。大きな獣がいると知らせてね。戦える者たちが集まり、追い払おうとしたそうだ」
「倒そうとしたのか」
「畑も家も、捨てたくはなかっただろうからね」
ルイスは杯を持つ指を動かした。
エダの視線の先には、小さな畑が見えた。
揃えて植えられた葉が、風に揺れている。
「あの獣にも、刃は届いたという。矢も刺さり、血も流れた。それでも、止まらなかった」
レオンの目が細くなる。
「傷を負っても、向かってきたのか」
「そうだよ。倒せると思って近づいた者が、振り返った獣の脚に薙ぎ払われた。槍を突き立てたまま、引きずられた者もいたと聞く」
ルイスは、巨大な前脚を想像した。
武器が刺さっていても、それが止まる理由にはならない。
近づかなければ攻撃は届かない。
けれど、近づいたところで倒せなければ、こちらが次の一撃を受ける。
「何度も戦ったのか?」
「ああ。獣を遠ざけようとした者たちが、交代で食い止めた。けれど、傷つく者が増えていった」
エダは杯を置いた。
「それで、人々は石の神殿へ退いたんだよ」
フィリアの鉛筆が止まった。
ルイスも顔を上げる。
「穂を持って集まった、あの神殿?」
「そうだ。厚い壁があり、人が集まれる広間もある。子供や怪我人を守るには、家々へ散らばるよりよいと考えたんだろうね」
ルイスは、回廊の高い天井を思い出した。
大きな柱。
中央に石台のあった広間。
そこへ、怪我をした人や、子供を抱えた人が入っていく。
壁に彫られた穏やかな行列と、今度は違う足音が響いたのかもしれない。
「その時、街の方へは逃げられなかったのか?」
「ラステルかい?」
「うん」
エダは首を横に振った。
「あの街ができるより、ずっと前の話だよ」
ルイスは口を閉じた。
沢山の屋根と、鐘のある塔。
あの賑やかな街が、まだなかった頃。
フィリアが記録帳へ一行を書き足した。
「街の記録を調べるだけでは、届かない時代なんですね」
「私たちにも、何代前のことか、はっきりとは分からない。ただ、人々が何をしたかは、話に残っている」
エダは壁画の写しへ手を向けた。
「槍を持つ者たちは、逃げる人々の後ろを守ったそうだ。獣へ背を向ければ、追いつかれてしまうからね」
レオンが紙を見下ろす。
人々の進む向きとは反対へ、槍先が伸びていた。
「やはり、下がりながら戦っていたんだな」
ルイスは頷いた。
あの壁の前で、レオンが見せた構えを覚えていた。
石に残っていた姿と、人の口に残っていた話。
別々だったものが、紙の上で近づいていた。
――――――――――
エダが話す間に、軒先の影が少し動いていた。
サナは祖母の隣に腰を下ろし、選り分けかけの葉を籠へ移している。
「神殿へ入って、それで助かったのかい?」
サナが尋ねた。
エダはすぐには頷かなかった。
「その場では、息をつけた者もいただろう。だが、獣は人々を追ってきた。入口で戦う者が倒れれば、奥にいる者たちも逃げられなくなる」
ルイスは遺跡の入口を思い浮かべた。
人が何人も並べる、あの大きさ。
背の高い獣でも、通れるだろう。
「戸を閉めても、駄目だった?」
「外の守りだけでは、いつまでも持たなかったようだね」
フィリアが図面を開いた。
広間と回廊、その脇の小部屋。
そこから下層へ続く階段が描いてある。
「中にいる人たちは、どちらへ逃げたと伝わっていますか?」
「空を仰ぐ庭から、山へ抜けたという話があるよ」
ルイスは身を乗り出した。
「庭から?」
「ああ。小さな子は背負い、歩けない者は支え合って、石段を上ったとね」
フィリアが図面の端へ指を置いた。
中庭の向こうに、点線が延びていた。
昨日、上から調査した男が見つけた階段。
林へ続く、古い道。
ルイスは彼女と顔を見合わせた。
「あるぞ。庭の先に、上へ行く階段」
「……はい」
フィリアはエダへ向き直った。
「まだ通り抜けられませんが、外の調査隊が確認しています。崖沿いに進んで、林へ出るそうです」
エダは図面を覗き込んだ。
庭から延びる線を見つめ、静かに息を吐く。
「そうかい」
それ以上は、すぐには言わなかった。
サナも手を止め、紙を見ていた。
ルイスは、あの道を知った時のことを思い出した。
どこへ続くのだろう。
何があるのだろう。
そればかり考えていた。
けれど、あの階段を、誰かに背負われて上った子供がいたのかもしれない。
その子が大きくなり、自分の子供へ話したのかもしれない。
目の前のエダへ届くまでに、何人もの声を通って。
「……話が残ったのは、逃げられた人がいたからなんだな」
ルイスが言うと、エダは彼を見た。
「ああ」
小さな頷きだった。
「帰ってこなかった者のことも、忘れずにいようとしたんだろうね」
ルイスは、図面の点線へ目を落とした。
その先は、まだ描かれていない。
けれど、誰もいなかった場所ではなかった。
――――――――――
フィリアは、しばらく記録を読み返していた。
途中で二つほど言葉を確かめ、エダの答えを脇へ書き添える。
ルイスは待ちながら、壁画の別の人物を見た。
器を持った人。
逃げる人々とは逆へ、顔を向けている。
その隣には、武器を持つ者がいた。
「なあ」
ルイスが呼ぶと、エダが顔を上げた。
「庭から逃げられたなら、みんなで山へ行けばよかったんじゃないのか?」
エダは、紙の上の人物へ目を向けた。
「獣を、その後にどうしたかという話だね」
「うん。追いかけてきたら、また戦わないといけないだろ?」
「そうだよ。逃げた先にも、人が暮らしていた。全員が神殿を出てしまえば、獣も外へ戻ってくる」
レオンが膝へ手を置いた。
「誰かが、残ったのか」
エダが頷いた。
「戦える者たちと、神殿を守っていた者たちがね」
フィリアは器の人物を描いた紙を、そっと前へ出した。
「この人物は、魔力を入れた器を運んでいる可能性があります。壁に、そう読める文字が残っていました」
エダは紙へ顔を寄せた。
長い衣服と、両手に支えた浅い器。
視線が、その腕のところで止まる。
「私が聞いた話にも、器を運ぶ者が出てくるよ」
ルイスは背筋を伸ばした。
「何のために?」
エダは、脇へ置いた空の杯を見た。
それから、ルイスたちへ目を戻す。
「獣を、石の奥へ留めるためだ」
風が軒下を抜けた。
フィリアが紙の端を押さえる。
「倒したのでは、ないんですか?」
「ああ」
エダの声は、静かなままだった。
「倒せなかった。だから、人を外へ逃がした後で、残った者たちは獣を神殿の奥へ誘ったという」
ルイスは器を持つ人物を見た。
逃げる人々と逆を向いていた理由が、少しだけ分かった気がした。
誰もいなくなった奥へ、何かを運んでいたのではない。
そこにはまだ、獣を迎え撃つ人たちがいたのだ。
エダは紙の手前へ指を置いた。
「そして、二度と外へ出さぬように、扉を閉じたそうだよ」
ルイスの頭に、灯りの届かない通路が浮かんだ。
図面に、まだ描かれていない先。
そのどこかに、今も閉じた扉があるのだろうか。




