第二章76 『風の先の語り部』
翌朝、商店の前へ着くと、サナはもう荷車の取っ手を握っていた。
昨日積み直した荷物の上に、丸めた外套が載っている。
「おはよう!」
ルイスが声を掛けると、サナが振り返った。
「おはよう。三人とも、ちゃんと起きられたんだね」
「俺が遅れると思ってた?」
「楽しみにしてる顔だったから、早く来るとは思ってたよ」
ルイスは少し笑い、肩の袋を持ち上げた。
食料と水に、夜を越すための道具。今日は遺跡へ行く時より、中身が多い。
フィリアも鞄とは別に、背負い袋を用意していた。
「お待たせしました」
「いや、私も今出るところさ」
サナは荷車の縄を確かめ、三人を見た。
「向こうで話が聞けるかは、まだ分からないからね。会えなくても無理に頼まないでおくれよ」
「はい」
フィリアが頷く。
「まず、ご挨拶させていただければ」
「帰りが遅くなったら、寝場所くらいは私も一緒に探すよ」
店先から、オリバーが出てきた。
主人と話していたらしく、手には伝票を持っている。
「忘れ物はねぇな?」
「ない!」
「フィリア、こいつが何か置いていったら教えてやってくれ」
「どうして俺に聞いたのに、フィリアに頼むんだよ!」
「返事が早すぎるからだ」
サナが声を立てて笑った。
レオンは自分の袋を背負い直し、荷車の後ろへ回る。
「坂では、俺が押そう」
「助かるよ。街を出てしばらくは平らだから、まずは歩こうか」
四人で通りを進む。
ルイスが振り返ると、オリバーは店の前に立っていた。
「行ってくる!」
「ああ。帰ったら、今度の話も聞かせろよ」
ルイスは大きく手を振った。
それから前へ向き直り、荷車の車輪に歩幅を合わせた。
――――――――――
遺跡へ向かう分かれ道を通り過ぎると、冒険者の姿が少なくなった。
畑の間を進み、小さな橋を渡る。
やがて道は林へ入り、緩やかに上り始めた。
サナが取っ手を引き、レオンが後ろから荷車を押す。
昨日は油を差していた車輪も、今日は静かに回っていた。
「鳴かなくなったな」
ルイスが言うと、サナは荷車へ目を落とした。
「今のところはね。帰ったら、車軸も見てもらうよ」
「この荷車、自分たちで作ったのか?」
「木のところはね。金具は街で買うこともある」
「全部、街で買うんじゃないんだ」
「運んで帰るのも大変だろう?」
サナは振り返り、荷台へ顎を向けた。
「鍋や針は買うけど、籠なら編める。山で採れるものを売って、足りないものを持って帰るのさ」
ルイスは積まれた布袋を見た。
昨日まで入っていた薬草や油の代わりに、今は別の品物が載っている。
「行きと帰りで、中身が変わるんだな」
「そういうこと」
道の脇で、サナが足を止めた。
前方に、雨水が流れた跡があった。土が深く削れ、細い溝になっている。
「左から回すよ」
「分かった」
レオンが荷車を支える。
ルイスも横へ回り、車輪が溝へ落ちないよう見ていた。
「もうちょい左……そこ!」
車輪が固い土の上を通る。
サナが引き、レオンが押すと、荷車は傾くことなく段差を越えた。
「よし!」
「ありがとう。雨の後は、毎回ここが変わるんだよ」
ルイスは道を振り返った。
踏み固められた土の脇に、古い轍が途中まで残っていた。
前に通った人も、同じところを避けたのかもしれない。
フィリアがその跡を見て、サナへ尋ねた。
「こちらの道も、昔から使われているんですか?」
「私が生まれた頃にはあったよ。ただ、お婆ちゃんが若い時は、沢の向こうを通ってたらしいね。大雨で崩れて、今の方へ変えたんだって」
ルイスは顔を上げた。
「道って、引っ越すんだな」
サナが目を丸くする。
それから、笑った。
「確かに。歩く人が引っ越させたんだね」
フィリアも口元を緩めた。
けれど、その目はもう一度、林の向こうへ向いていた。
「前の道は、まだ残っていますか?」
「一部なら。草に埋もれて、気づかないところもあると思うよ」
ルイスは、遺跡の外で見つかった敷石を思い出した。
今、誰も歩かなくなった道。
昨日までは、途切れた先へ進めば何か見つかると思っていた。
けれど、途中で別の道に変わっていたら。
昔の人が通った先を探すのは、思っていたより難しいのかもしれなかった。
――――――――――
沢のそばで一度休み、さらに林を抜けると、木々の間に屋根が見えた。
ルイスは足を止めた。
山の斜面に沿って、家が幾つも並んでいる。
下の方には小さな畑があり、石を積んだ境目の向こうで、誰かが土を掘り返していた。
軒下には、束ねた草が吊るされている。
家と家の間を、浅い水路が通っていた。
「あれが?」
「ああ。着いたよ」
サナが答えた。
道の先から、子供が二人走ってくる。
サナへ何かを呼び掛け、こちらを見て足を緩めた。
返した言葉は、ルイスには分からなかった。
短い会話の後、サナが三人へ手を向ける。
「街で会った冒険者だよ。うちのお婆ちゃんに、見せたいものがあるんだって」
子供たちは、今度はルイスたちをじっと見た。
片方が、レオンの腰を指さす。
「剣?」
「ああ」
レオンが頷く。
「剣士なの?」
「そうだ」
ルイスは口を開きかけた。
レオンと目が合う。
「……何も言ってないぞ」
「俺も、何も言っていない」
フィリアが横を向いた。
サナは二人を不思議そうに見てから、荷車を止めた。
「悪いけど、ここで少し待ってて。先に話してくるよ」
「分かった!」
三人は道の脇へ寄った。
サナが荷車を引いて家々の間へ入っていく。
子供の一人も後を追ったが、もう一人はその場に残った。
ルイスの顔と、赤い髪を交互に見ている。
「何?」
尋ねると、子供は少し迷ってから口を開いた。
「街の人?」
「俺は違うぞ。旅してるんだ」
「どこから来たの?」
「ここに来る前は、グランベル!」
子供が首を傾げる。
ルイスはしゃがみ、道端の小石を一つ拾った。
土の上に、短い線を引く。
「ここがラステルだろ。その前に、こっちから来て……」
「そっちは山だよ」
「いや、そういう地図じゃなくて!」
ルイスが慌てて線を描き直すと、子供は笑った。
フィリアも隣へしゃがむ。
「遠くから来た、ということですよ」
「最初からそう言えばいいのに」
「……そうだな!」
ルイスも笑い、小石を道の端へ戻した。
顔を上げると、軒下の束を外していた女性が、こちらへ軽く会釈した。
ルイスも頭を下げる。
知らない言葉の会話が、家の向こうから聞こえてきた。
水路の水が、小さな木の板の下をくぐっていく。
遺跡のことを聞きに来たのに、目を向けたいものは、それ以外にもたくさんあった。
――――――――――
サナが戻ってきたのは、しばらくしてからだった。
「会うってさ」
フィリアが背筋を伸ばす。
「ありがとうございます」
「ただ、今は手を動かしてるから、そのままでもいいかって」
「もちろんです」
サナの後について、三人は家の間を歩いた。
案内された家の戸は開いていた。
軒先に、一人の老女が座っている。
白くなった髪を後ろでまとめ、膝の上に置いた浅い籠へ、乾いた葉を選り分けていた。
「この子たちだよ」
サナが声を掛ける。
老女は手を止め、三人を見た。
「遠いところを、よく来たね」
穏やかな声だった。
ルイスたちにも分かる言葉だった。
「俺、ルイス!」
「フィリアと申します」
「レオンだ。時間を取っていただいて、感謝する」
三人が名乗ると、老女は目元を緩めた。
「私はエダ。サナから、石の建物の絵があると聞いたよ」
「はい」
フィリアは鞄から記録帳を取り出した。
けれど、すぐには開かなかった。
「サナさんから、昔の神殿のお話をご存じだと伺いました。私たちが調べた場所と関係があるかもしれないと思って……見ていただけますか?」
「見せておくれ」
エダは葉の入った籠を脇へ置いた。
サナが布を敷き、三人へ座る場所を空ける。
フィリアはその前へ膝をつき、中庭のページを開いた。
ルイスとレオンも隣へ座る。
エダの指が、紙の手前で止まった。
絵には触れず、庭の囲いと柱を、ゆっくり目で辿っている。
「これは、あんたが描いたのかい」
「はい。見えた範囲を、その場で記録しました」
「上には、何があった?」
「空が見えました。壁の上は岩になっていて、その縁に木が生えていました」
エダはしばらく黙っていた。
軒下で、葉が擦れる音がする。
やがて彼女は、サナへ顔を向けた。
「お前に、庭の歌を教えたことがあったね」
「うん。昨日、この絵を見て思い出したんだよ」
「そうかい」
エダはもう一度、紙へ目を戻した。
「私が聞いた庭も、石に囲まれていた。人々が穂を持って集まり、空の下で祈ったそうだよ」
フィリアが小さく息を吸った。
ルイスは庭の中央の囲いを見た。
あそこへ人が集まっていたのだろうか。
「ここなのか?」
尋ねると、エダは首を横に振った。
「まだ、分からないよ。私も、そこへ行ったことはないんだ」
彼女は山の方へ目を向けた。
「私の祖母も、場所は知らなかった。ただ、そのまた前から聞いてきた話を、私にしてくれた」
フィリアが頷いた。
「お話を、書き留めてもよろしいでしょうか」
「ああ。だが、石に残っていることとは、違うところもあるかもしれないね」
「違うところも、そのまま残したいです」
エダは彼女の顔を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「なら、話そうか」
フィリアが新しいページを開く。
その下から、別の紙が少し覗いた。
壁画を写した記録だった。
エダの視線が、そこで止まった。
「その絵も、同じ建物に?」
「はい。下の部屋に描かれていました」
フィリアが紙を取り出す。
子供を抱える人。
袋を担いで進む人。
後ろへ槍を向ける人。
エダは先ほどよりも長く、その絵を見つめた。
膝に置いた手が、ゆっくり重なる。
「……庭の話には、続きがあるんだよ」
ルイスは顔を上げた。
サナも、祖母へ目を向けていた。
エダは壁画の人々から視線を離さず、言った。
「実りを運んだ道を、子供を抱えて逃げた日があったとね」
フィリアの鉛筆が止まった。
ルイスは紙の上の小さな腕を見た。
抱かれた子供の腕だった。
エダは、三人へ顔を向けた。
「その日の話に出てくる獣には、名がある」
風が軒下を通り、籠の葉を一枚揺らした。
「《禍牙》ヴァルガ」
聞いたことのない名だった。
ルイスは、壁画の大きく剥がれた場所へ目を落とした。




