第二章75 『石の記憶、人の言葉』
商店の前には、荷を積み終えた小さな荷車があった。
縄で留められた布袋の間から、箒の穂先が覗いている。取っ手の脇では、一人の女性が車輪へ油を差していた。
「まだ開いてるか?」
オリバーが声を掛ける。
店の奥から、主人の返事が聞こえた。
「おう。どうした、忘れ物か?」
「渡しそびれた伝票があってな。それと、ちょいと聞きてぇことがある」
オリバーは懐から紙を出し、店先へ歩み寄った。
ルイスたちも後へ続く。
主人は伝票を受け取ると、三人へ目を向けた。
「この前の坊主か。遺跡はどうだった?」
「庭があった!」
「庭?」
「中で空が見えるんだ。周りは高い壁で、草も生えててさ!」
両手を広げかけたルイスは、隣の荷車を見て腕を引っ込めた。
フィリアが鞄へ手を添える。
「その庭の近くで、外へ続く古い道も見つかったそうなんです。北の林へ延びていると聞いて、近くにお住まいの方なら、何かご存じかと思いまして」
「ああ。それで俺のところへ?」
主人がオリバーを見る。
「お前の方が、付き合いが長ぇだろ」
「まあな」
主人は頷き、荷車のそばへ顔を向けた。
「サナ。北の古い道だとさ。何か聞いたことあるか?」
車輪を調べていた女性が立ち上がった。
濃い茶色の髪を、後ろで一つに編んでいる。日焼けした頬に、作業で付いたらしい油の跡があった。
彼女は布で指を拭きながら、こちらへ来た。
「北って、どのあたり?」
「崖の、遺跡が見つかったところからです」
フィリアが答える。
サナの視線が、三人の腰の登録証を順番に通った。
「ああ、あの遺跡ね。今朝も、街へ入る道で随分すれ違ったよ」
「遺跡には行った?」
ルイスが尋ねた。
「私は行ってない。荷を運んで、買い物をしてたからね」
サナは荷車を指さした。
箒の横には、布で包んだ鍋も載っている。
レオンがその膨らみを見た。
「車輪は、大丈夫そうか?」
「油を差せば、もう少し静かになると思うんだけど。帰り道でずっと鳴かれちゃ、かなわないからさ」
「分かる。気になり始めると、ずっと聞こえる」
真剣な返事に、サナが笑った。
「そうなんだよ。で、道の話だったね」
フィリアが主人へ顔を向けた。
「こちらで、図面を広げてもよろしいですか?」
「ああ。そこの台を使いな」
主人が空の籠を退ける。
フィリアは礼を言い、紙を取り出した。
――――――――――
サナは、図面を覗き込んで眉を寄せた。
「建物の中か。これだと、私には分からないね」
「すみません。周りの地形は、まだ描けていなくて」
フィリアは庭の外に足した線を示した。
「調査隊の報告では、こちらから階段を上がって、崖沿いに北へ進むそうです。その先で、沢を越えると」
「沢なら、あの辺にも幾つかあるよ。雨の後だけ水が流れるところもね」
サナは紙の端へ指を置きかけ、止めた。
「ここに印を付けてもいい?」
「はい。お願いします」
「うちから街へ来る時に渡るのは、この辺りだと思う。ただ、崖を回る道じゃないんだ。もっと東から来る」
フィリアが鉛筆を差し出す。
サナは少し考えてから、紙の余白へ線を引いた。
古い道とは、離れたところだった。
「今通ってる道とは、違うんだな」
ルイスが言うと、サナは頷いた。
「崖の下は、ずっと藪だったからね。近道にもならないし、わざわざ入ることはなかったよ」
「石の階段も、知らなかった?」
「うん。入口が見つかったって聞いて、あそこにそんなものがあったのかって、驚いたくらいさ」
ルイスは図面を見た。
近くに住んでいても、知らない道がある。
あの大きな入口も、見えるようになる前は、木や土の向こうに隠れていたのだ。
サナが鉛筆を返す。
「ごめんね。道の役には立てそうにない」
「いえ。今使われている道が分かっただけでも、助かります」
フィリアは二本の線が混ざらないよう、脇へ言葉を書き添えた。
それから、記録帳を開く。
「もう少し、お聞きしてもよろしいですか?」
「何?」
「あの辺りに昔、神殿があったというお話を、聞いたことはありませんか?」
サナの手が止まった。
「……神殿?」
「はい。まだ、そうと決まったわけではないんですけど」
フィリアは回廊の人物を描いたページを開いた。
器を持つ人。
籠を抱える人。
束を両腕に載せた人。
サナは紙へ顔を近づけた。
「これ、壁にあったの?」
「石に彫られていました。三人とも、建物の奥を向いているんです」
「ふうん……」
彼女はすぐには答えなかった。
籠の絵を見て、次に、器へ目を移す。
「神殿があったって話なら、聞いたことはあるよ」
ルイスは顔を上げた。
「本当!?」
「ああ。ただ、うちの近くのどこか、というくらいでね。場所を教わったことはないんだ」
オリバーも隣から紙を覗いた。
「そんな話があったのか」
「あんたに話すようなことでもなかったからね。薬草の値段には関係ないだろ?」
「そりゃそうだ」
オリバーが笑う。
サナは器の絵へ目を戻した。
「昔、収穫したものを持って、祈りに行ったって。お婆ちゃんが話してた」
フィリアの鉛筆が止まった。
「収穫したものを……」
「穀物とか、木の実とか。持っていくものを支度して、皆で出掛けたんだってさ」
ルイスは、石の腕に載っていた籠を思い出した。
その中には、丸い実が幾つも彫られていた。
「この人たちも、そうだったのかな」
「どうだろうね。私も、絵を見たのは初めてだから」
サナは首を傾げた。
フィリアも頷く。
「似た習わしは、他の土地にもあります。この絵だけでは、同じ場所とは言えません」
「だよね」
サナは少し笑った。
「でも、懐かしい話を思い出したよ」
――――――――――
店の主人が、小さな木箱を抱えて戻ってきた。
「サナ、注文の針はこれで全部だ。数を確かめてくれ」
「ありがとう。今見るよ」
サナが台を離れる。
フィリアは図面を畳み、店の仕事の邪魔にならないよう端へ寄せた。
ルイスも荷車の脇へ下がった。
荷物の上には、まだ留めていない縄が一本垂れていた。
「もう帰るのか?」
「今日は街で一泊するよ。今から出たら、林へ入る前に暗くなるからね」
針を数えながら、サナが答えた。
「朝は、早く出てきたの?」
「まだ日が出たばかりの頃。途中で休んで、荷車を押して、昼前に着いた」
「結構遠いんだな」
「歩くだけなら、もう少し早いよ。こいつは坂になると、急に重くなるんだ」
サナは顎で荷車を示した。
レオンが車輪と荷台を見比べる。
「積み直すなら、手を貸そう」
「いいのかい?」
「ああ。針は、この箱で合っているか?」
「それは私が持つよ。そっちの油の壺を頼める?」
レオンが頷く。
ルイスも垂れた縄を拾った。
「俺、押さえとく!」
二人で荷を支え、サナが縄を掛け直した。
フィリアは店先に残った袋を確かめ、言われた順に手渡していく。
最後にサナが結び目を引く。
荷物は、さっきより低く、隙間なく収まった。
「助かった。明日の朝、また全部やり直すところだったよ」
「これなら、坂でもずれにくいと思う」
レオンが縄を確かめてから手を離す。
サナは礼を言い、額に落ちた髪を払った。
その時、台に置かれた記録帳へ、ふと目を止めた。
開いたページには、中庭の絵があった。
高い壁。
中央の四角い囲い。
その外側に、穂と小さな人物が描き添えられている。
「これが、さっき言ってた庭?」
「はい」
フィリアが近づいた。
「建物の途中にあるんです。上が開いていて、空が見えました」
サナは絵を見たまま、唇をわずかに動かした。
聞き慣れない言葉だった。
ルイスが顔を向けると、彼女は少し困ったように笑った。
「ごめん。昔の言い方が、先に出ちゃった」
「何て言ったんだ?」
「『空を仰ぐ庭』。お婆ちゃんの話に、そんな場所が出てきたんだよ」
フィリアが記録帳の端へ手を添えた。
「神殿の、お話ですか?」
「確か、そうだったと思う。でも、子供の頃に聞いたきりだから……」
サナは眉を寄せた。
「穂を持って集まるところだったかな。歌の言葉と混ざってるかもしれない」
フィリアは鉛筆を持ち上げかけて、サナを見た。
「今のお話、記録してもよろしいでしょうか。はっきりしない部分も、そのまま残しますので」
「ああ。それなら」
サナは頷いた。
フィリアが書く間、ルイスは庭の絵を見ていた。
自分たちが昼のパンを食べた場所。
そこに似た庭が、サナの祖母の話にも出てくる。
まだ、同じ場所かどうかは分からない。
けれど、どんな話だったのか、もっと聞きたくなった。
「お婆ちゃんは、詳しく知ってる?」
「私よりは、ずっとね。今でも、子供たちに話してるよ」
サナは少し考えてから、三人を見た。
「その絵、本人に見せてみるかい?」
フィリアの顔が上がった。
「伺っても、よろしいんですか?」
「会えるかどうかは、帰って聞いてみないと分からない。でも、絵を見せたい人がいるとは伝えられるよ」
「私たちも、そちらへ行って待たせていただくことはできますか?」
フィリアが尋ねた。
「泊まれるところか、まず聞いてみよう。無理なら、街で返事を待ってもらうことになるけど」
「それで大丈夫です」
フィリアははっきりと頷いた。
ルイスも身を乗り出す。
「俺も行きたい!」
「俺も一緒に行こう」
レオンが続いた。
オリバーは三人を順番に見て、口元を緩めた。
「明日も遺跡かと思ったら、今度は山裾か」
「遺跡の続きだぞ!」
「そうだな」
オリバーは、台に広がる庭の絵を見た。
「石の中だけに残ってるわけじゃねぇってことか」
フィリアが鉛筆を置いた。
サナに教わった言葉の横に、小さく、祖母から聞いた話、と書き添えてある。
ルイスは窓の外へ目を向けた。
屋根の向こうで、夕日を受けた山の端が見えた。
明日、その麓へ向かうかもしれない。
器を持つ石の人物には聞けなかったことを、誰かに尋ねられるかもしれなかった。




