第二章78 『扉の向こうに残したもの』
「扉を閉じたら、獣は出てこなくなったのか?」
ルイスが尋ねると、エダは頷いた。
「伝わっている話では、そうだよ。ただ、閉めれば済む扉ではなかったらしい」
フィリアが鉛筆を持ち直した。
エダは器を持つ人物へ目を向ける。
「獣が奥へ入る前から、人々は器を運んでいたという。空の器を持ち帰り、満たした器をまた運ぶ。何度も、それを繰り返したそうだ」
「中身は、何だったんだ?」
「人から分けてもらった力だと聞いているよ」
ルイスはフィリアを見た。
彼女も顔を上げていた。
「魔力、でしょうか」
「そういう意味だろうね。強い者だけが集まったわけではない。少しずつ力を出し合い、それを運んだと語られている」
フィリアは記録帳をめくった。
内側に線を刻んだ器。
窪みの並ぶ台。
踊り場の壁に残っていた、物を出し入れしたような傷。
「器を取り替えながら、使っていたのかもしれません」
「置いたままじゃなくて?」
ルイスが尋ねる。
「はい。中の魔力を使い切ったら、満たしたものと交換する。そう考えると、あの傷や、同じ形の窪みが幾つもあったことは説明できます」
彼女は台の絵へ目を落とした。
けれど、すぐには書き足さなかった。
「ただ、どこから入れて、どうやって取り出したのかまでは、まだ分かりません」
ルイスは頷いた。
器を持ち上げただけで、魔力が流れ出すのだろうか。
壁の窪みへ置くのだろうか。
自分たちが見たものの中に、その答えも残っているのかもしれない。
エダは、紙に描かれた細い線を眺めていた。
「昔の人が、こういうものを使っていたんだね」
「エダさんも、器は見たことがないんですか?」
「ああ。話を聞いて、手に持てる大きさなのだろうとは思っていた。だが、こんな線があるとは知らなかったよ」
彼女の指が、絵の手前で動いた。
「話では、運ぶ者の手が震えていたという。疲れても、次の器が来るまで止められなかったとね」
ルイスは、石の壁に彫られた両手を思い出した。
指の形まで残っていた。
あの壁画の人物も、そんな手で器を支えていたのだろうか。
「その間も、獣と戦ってたんだな」
「ああ。退けば人のいる方へ戻ってしまう。だから、引きつける者たちが残った」
レオンが紙へ目を向けた。
「奥へ入れた後は、どうやって離れたんだ?」
「獣の脚を止め、その隙に退いたと聞いているよ」
フィリアの鉛筆が止まる。
「脚を、止めた……」
「石に巡らせた力で動きを縛ったという。ただ、どうやったのかは、私にも分からない」
エダはゆっくり首を振った。
「私に教えた祖母も、術を使える人ではなかったからね」
フィリアはその言葉を書き留めた。
ルイスは台と壁の絵を見比べる。
何に使うのか分からなかった線が、獣を止めるためのものだった可能性もある。
それでも、紙の上に並んでいるだけでは、動くところを想像できなかった。
――――――――――
サナが空いた杯を集めた。
立ち上がりかけた時、エダがその袖へ軽く触れる。
「悪いね。もう少しだけ、付き合っておくれ」
「私も聞きたいよ」
サナは盆を置き直した。
「お婆ちゃん、子供の時は、こんなに詳しく話してくれなかっただろ」
「怖がって、途中で逃げてしまったのは誰だったかね」
「……それは、そうだけど」
サナが困ったように笑った。
ルイスも少し口元を緩めた。
けれど、目の前の紙へ視線を戻すと、また笑みが消えた。
「閉じ込めた後は、倒しに行かなかったのか?」
「そのまま眠らせておくことを選んだそうだよ」
「ずっと?」
「ああ。ようやく戻れた者を、また死なせたくはなかったんだろうね」
エダは脇の籠へ目を向けた。
選り分けた葉と、まだ手をつけていない葉が残っている。
「家を直し、畑を耕し、次に食べるものを用意しなければならない。生き残った者にも、仕事があった」
ルイスは軒の向こうを見た。
畑のそばで、男が鍬を肩へ担いだ。
その後ろを、小さな子供が追っていく。
獣を倒せなくても、ああして歩ける日を取り戻したのだ。
レオンが静かに尋ねた。
「人が器を運ばなくなっても、閉じ込めておけたのか?」
「最後に守りを結んだ後は、器を運ぶ話は出てこない。神殿を離れ、戻らなくなったと聞いているよ」
フィリアは記録を読み返した。
「扉を閉じるまでと、その後では、必要なことが違ったのかもしれませんね」
それから、エダへ顔を上げる。
「その後、獣が死んだというお話はありますか?」
「私が聞いたものには、ないね」
軒下が静かになった。
遠くで、水を汲む音がした。
ルイスは壁画の写しを見た。
あの暗い遺跡に、今も何かが眠っている。
そう決まったわけではない。
それでも、ただの昔話として聞き流すことはできなかった。
ルイスは、広げた図面へ目を移した。
露店で見た地図には、奥の部屋を囲むように、大きな丸が描かれていた。
「……じゃあ、みんなが探してる宝とか、ないのか?」
エダが顔を向ける。
「宝?」
「遺跡の奥にあるって、街じゃそんな話ばっかりなんだ。金とか、古代遺物とか。すごい武具もあるかもしれないって」
「それで、あんなに人が来てるんだね」
サナが呟いた。
エダは少し考えてから、首を傾げた。
「そこまでは、私も知らないよ。神殿に何を納めていたのか、一つずつ伝わっているわけではないからね」
「そっか……」
「ただ、獣を閉じ込めた扉を、宝を隠した扉だと思っているなら、それは違う」
ルイスは図面の奥を見た。
「開けたら、宝じゃなくて獣がいるかもしれないんだな」
「ああ」
隣で、レオンも紙へ目を向けた。
「扉が閉まっているだけでは、中身までは分からないということだな」
「俺、最初に宝物庫って聞いた時、見てみたいって思ったぞ」
ルイスは顔を上げた。
「何で閉めたのかなんて、考えなかった」
フィリアが静かに頷く。
「私も、中に何が残っているかは気になりました。でも、閉じた理由が残っているなら、それも確かめないといけませんね」
ルイスはもう一度、図面を見た。
宝が見つかったわけではない。
けれど、何もなかったのだと決まったわけでもない。
ただ今は、その前に、確かめなければならないことがあった。
「扉は、開けちゃいけないんだな」
エダはルイスを見た。
「祖母は、話の最後にこう言っていたよ」
少し間を置いて、言葉を継ぐ。
「閉じた扉に、返事を求めるものではない、とね」
ルイスは口を閉じた。
奥から音がするか、確かめるために叩く。
何があるのか、覗くために開ける。
自分なら、そうしたくなるだろう。
昨日までなら。
――――――――――
フィリアは、中庭と器、それから壁画の記録を並べた。
エダから聞いた話は、別の紙へ書き留めてある。
ルイスも膝を寄せ、広がった紙を見た。
「最初は、穀物を持って祈りに行く場所だったんだよな」
「はい。穂の模様や、籠を運ぶ人物は、その頃のものなのかもしれません」
フィリアが器の外側を描いた絵を示した。
「その後、獣を閉じ込めるために、器や建物へ手を加えたとすれば……」
「入口を狭くした石も?」
「関係しているかもしれません。ただ、修理しただけの場所もあるでしょうから、一つずつ確かめたいです」
ルイスは、入口の内側に積まれた石を思い出した。
小部屋の奥にも、塞いだような壁があった。
昔の人が直したのだろうと考えていた。
何のために直したのかまでは、知らなかった。
フィリアは話の記録へ目を落とす。
「庭から上る階段も、逃げる人々の絵も、器を運ぶ人物もあります。お話と重なるところが、幾つもありました」
エダが頷いた。
「私も、これほど似たものが残っているとは思わなかったよ」
「だから、ギルドへ伝えよう」
ルイスは顔を上げた。
「同じ場所かもしれないって。奥に扉があったら、開ける前に調べてもらわないと」
「そうですね」
フィリアはすぐに頷いた。
レオンも肩の袋へ手を添える。
「まだ明るい。今から戻れば、日が暮れる前には林を抜けられるか?」
サナが空を見た。
「荷車がなければね。休まず歩けるなら、街の門が閉まるより前には着くと思う」
「俺は行ける」
「私も、大丈夫です」
フィリアは記録を重ね始めた。
ルイスも、端からはみ出した紙を揃える。
その手元を見ていたエダが、静かに口を開いた。
「あんたたちが見つけた建物へ、私が案内できればよかったんだがね」
フィリアが顔を上げる。
「お話を聞かせていただけて、助かりました。私たちの記録だけでは、分からなかったことが沢山あります」
エダは少し目を細めた。
「そうかい」
ルイスは立ち上がり、袋を背負った。
座っていた膝に、布の跡が付いている。
「また来てもいいか?」
「ああ。今度は、もう少しゆっくりしておいで」
「うん。今日、まだ見てないところもあるし!」
サナが笑った。
「帰る前から、次に見るものを探してるんだね」
「水路の先とか、気になるだろ?」
「あれは、上の水場へ続いてるんだよ」
「ほら、見たい!」
エダの口元にも、笑みが戻った。
ルイスはその顔を見てから、頭を下げた。
「話してくれて、ありがとう」
――――――――――
サナは、集落を出るところまで送ってくれた。
手渡された布包みには、薄く焼いたパンが入っている。
「歩きながらでも食べられるから。三人で分けておくれ」
「ありがとうございます」
フィリアが受け取り、袋の上の方へ収めた。
「ギルドに話した後、どうなったか知らせてもらえるかい?」
「ああ。必ず伝えよう」
レオンが答える。
サナは頷き、道の先を指さした。
「沢を渡るところは、来た道を戻ってね。下流へ行くと、足場が悪いから」
「分かった!」
ルイスは手を振った。
三人で林へ入る。
木の枝の隙間から差す日が、行きとは反対側の肩に当たった。
しばらく歩いてから、ルイスはフィリアを見た。
「エダの話、忘れないうちに全部書けた?」
「はい。聞き直したところもあります。ギルドで見せられるように、順番を揃えておきました」
鞄の蓋を、彼女が片手で押さえる。
その中には、朝まで持っていなかった言葉が入っている。
レオンが前を向いたまま言った。
「まずは知らせよう。調べる間だけでも、奥へ進むのを待ってもらえればいい」
「うん」
ルイスは頷き、足を進めた。
崩れた床には、縄が張られていた。
落石の危険があれば、職員が立っていた。
知らなかったことも、誰かが伝えれば、次に来る者へ知らせられる。
今度は自分たちが、伝える番だった。
ルイスは道へ落ちた枝を跨ぎ、二人と歩調を合わせた。




