第二章70『向きの違う人々』
怪我をした男が踊り場へ着くと、待っていた職員たちが手を貸した。
添え木を当て、担架へ移す。
ルイスは男の肩から手を離し、ようやく息を吐いた。
「ここまで来れば、大丈夫だな」
「ああ。助かったよ」
男は担架の上から、三人を見た。
「何か礼をしたいんだが……」
「足を治してからでいい」
レオンが答える。
「今は、動かさない方がいいんだろう?」
フィリアが頷いた。
「上で、きちんと診てもらってください」
「そうする」
男は腰の袋へ手を伸ばした。
中から取り出したのは、折り畳んだ紙だった。
「さっき、壁画のことを聞いてただろ。落ちる前に描いた分がある」
フィリアの目が、紙へ向いた。
「見せていただけるんですか?」
「ああ。どうせ報告に使うつもりだったしな」
差し出された紙を、フィリアは両手で受け取った。
折り目を開く。
ルイスも横から覗き込んだ。
人の姿が、いくつも描かれていた。
身体は簡単な線で表されている。けれど、抱えた子供や、肩へ担いだ袋は分かった。
その人々とは反対側に、長い槍を持つ姿が並んでいる。
「本当に、逃げてるみたいだ」
ルイスが言った。
「間の、ここの部分が剥がれてたんだ」
男が紙の空白を指さす。
「左の端にも続いてるが、そこまでは描けなかった」
「ありがとうございます。記録を取った方のお名前も、教えていただけますか?」
フィリアが尋ねた。
男が名乗ると、彼女は紙の端へ小さく書き添えた。
担架が持ち上げられる。
ルイスは階段を上っていく男へ手を振った。
「今度は、怪我してない時に会おうな!」
「ああ!」
返事が、階段へ響いた。
――――――――――
フィリアは踊り場の壁際で、二枚の記録を並べていた。
一枚は、今受け取った壁画の絵。
もう一枚は、自分で描いた回廊の人物だった。
ルイスはその前へしゃがみ込む。
「何か分かった?」
「まだ、気になるところがあるだけです」
フィリアは槍を持つ人々を指さした。
「こちらの人たちは、逃げる人々と同じ方を向いているんです」
ルイスは絵を見た。
子供を抱えた人も、袋を担いだ人も、紙の右へ進んでいる。
槍を持つ人々の顔も、右へ向いていた。
「じゃあ、追いかけてる?」
「そうも見えます。ただ、ここだけでは分かりません」
フィリアは空白の部分へ目を向けた。
ルイスも、その白い場所を見た。
何かが描かれていたはずのところ。
今は、何もない。
「逃げてる人を、助けに行ってるかもしれないだろ?」
ルイスが言うと、フィリアは頷いた。
「ええ。その可能性もあります」
レオンが二人の後ろから絵を覗いた。
「槍の先は、こちらへ向いているな」
顔とは反対側だった。
ルイスは紙へ顔を近づける。
「本当だ」
「進みながら、後ろへ向けているのかもしれない」
レオンは片手を前へ出し、もう片方を腰へ引いた。
「背後に相手がいるなら、こうして距離を取ることもある」
ルイスはその構えを見てから、絵へ戻った。
逃げる人々。
同じ方へ進みながら、後ろへ槍を向ける人々。
さっきとは、違う場面に見えてきた。
「……戦いながら、下がってる?」
「そういう姿かもしれませんね」
フィリアが言った。
「でも、この絵は写したものです。顔や槍の向きも、実物で確かめたいです」
ルイスは崩れた床のある通路へ目を向けた。
その入口には、もう職員が縄を張っている。
あの穴を、今度は絵を見るために渡るわけにはいかなかった。
レオンも同じ方を見た。
「別の道があればいいんだが」
「その確認をするところです」
近くで図面を広げていた職員が、顔を上げた。
「戻ってきた調査隊によると、壁画のある部屋は、奥の通路へもつながっているそうなんです」
フィリアが立ち上がる。
職員の紙には、階段と、そこから分かれる二本の通路が描かれていた。
一方には、崩落を示す印がある。
もう一方の線は、途中から薄くなっていた。
「こちらから回れるか、確かめます。通れるようになれば、壁画の記録も取りたいですね」
「私も、記録を手伝わせていただけますか?」
フィリアが尋ねた。
職員は彼女の記録帳へ目を落とす。
器や壁の模様が、場所と一緒に描かれている。
「では、床を確認する者の後についてきてください。通れなければ、そこで戻ります」
フィリアは二人へ顔を向けた。
ルイスは、すぐに頷いた。
「行こう!」
レオンも荷袋を持ち上げた。
「今度は、床が落ちる前に気づきたいな」
――――――――――
先を行く調査隊の灯りを追って、三人は階段を下りた。
下層の通路は、上より天井が低かった。
壁には、人の姿も植物の模様もない。
石の継ぎ目に土が詰まり、ところどころに水の染みた跡がある。足元を確かめる棒の音が、前から響いてきた。
ルイスは壁の線を探した。
一度、小さな輪を見つけた。
けれど、その先は石の表面が剥がれ、どこへ続いているのか分からなくなっていた。
通路を二度曲がる。
やがて先頭の男が足を止めた。
「ここだ。向こうからも声が聞こえる」
壁に、大きな四角い入口があった。
扉は片側だけ残り、壁へ寄せられている。
厚い木の表面には金属の帯が打ち付けられ、その端を、錆びた金具が留めていた。
「随分、丈夫そうな扉だな」
ルイスが言う。
レオンも金具を見た。
「ああ。閉めれば、簡単には押し開けられなさそうだ」
調査隊が中の床を確かめる。
その後ろから、ルイスたちも部屋へ入った。
反対側の入口の向こうに、救出した場所で見た灯りがある。
崩れた通路を迂回して、部屋へ出られたのだ。
ルイスは壁へ顔を向けた。
「あれか……」
描かれた人々が、灯りの中へ現れた。
上の回廊のように、石を深く彫った姿ではない。
壁へ塗られた色が、かろうじて人の形を残していた。
抱かれた子供の腕。
振り返る顔。
肩へ掛けた袋。
紙の絵では見えなかったものが、そこにはあった。
ルイスは灯具を横へ動かした。
槍を持つ人々の足が浮かぶ。
身体は右へ進んでいる。
けれど、顔を後ろへ向けた人もいた。
「レオンの言った通りかもな」
「そのようだな」
レオンは槍を握る腕を見ていた。
「後ろから来るものへ、備えている」
フィリアが記録帳を開く。
写しの絵に、顔や足の向きを書き足した。
逃げる人々と、武器を持つ人々の間には、大きく剥がれた部分がある。
下の石が露出していた。
その近くに、濃い色が少し残っている。
何の形だったのかは分からない。
ルイスは灯りを上げたり下げたりしたが、失われた絵は戻らなかった。
「ここに、何かいたんだな」
「そうかもしれません」
フィリアは剥がれた範囲も描いた。
「でも、残っていないところは、分からないままにしておきます」
ルイスは頷いた。
想像はできる。
けれど、何を描いたのかを確かめるには、他のものを探さなければならない。
灯りを横へずらすと、壁画の左側にも人の姿が続いていた。
こちらは、逃げる人々と逆を向いている。
一人が両手を前へ出していた。
その腕の上に、浅い器がある。
「……器だ」
ルイスの声に、フィリアが顔を上げた。
レオンも隣へ来る。
その人物には、槍がなかった。
長い衣服を着て、器を胸の前へ掲げている。
ルイスは回廊の彫刻を思い出した。
似た姿勢だった。
けれど、隣には籠を持つ人も、長い束を運ぶ人もいない。
武器を構えた人々が描かれていた。
「この人、そっちへ行くのか?」
ルイスは、人々の逃げていく方を見た。
器を持つ人物は、その反対へ顔を向けている。
フィリアは壁へ近づき、触れない距離で足を止めた。
「器のところを、もう少し照らしてください」
ルイスが灯具を上げる。
器の縁から下へ、細い色の線が残っていた。
波のような形にも見えた。
「何か、入ってる?」
「そのように描いているのかもしれません。ただ、何を表す線かは……」
フィリアの言葉が止まった。
器を持つ人物の脇に、文字が残っていた。
小さな列だった。
剥がれたところもあり、全ては読めない。
フィリアは記録帳へ写し取り、一つずつ形を確かめた。
唇が、音にならない言葉をなぞる。
ルイスは口を閉じて待った。
やがて、フィリアが文字の一つを示した。
「これは、魔力を表す言葉だと思います」
「魔力?」
「以前調べた神殿の記録に、似た書き方がありました。こちらは……満たす、でしょうか」
ルイスは石壁の器を見た。
食べ物ではなく、魔力。
「器に、魔力を入れたってこと?」
「そう読める可能性があります。前後が欠けているので、まだ確かめたいです」
フィリアは小部屋で描いた器の絵を開いた。
淡い色の上から刻まれた線。
階段の壁にあった、似た形。
彼女の指が、二つの記録の間を動いた。
「線を刻んだ器は、魔道具として使っていたのかもしれません」
ルイスは目を丸くした。
棚の下に残っていた、茶色い欠片。
昨日拾ったものも、ただ食べ物を載せるだけの器ではなかったのだろうか。
レオンが壁画の人物を見た。
「なら、こぼさないように運んでいたのは、魔力かもしれないな」
「魔力もこぼれるの?」
「俺には分からない」
レオンは真剣に答えた。
ルイスは少し笑い、それから壁へ向き直った。
器を持った人物は、逃げる人々と逆を向いている。
魔力を入れて、何をしに行ったのだろう。
周りの人々が武器を持つ場所へ、その器を運んだ理由は何だろう。
フィリアは絵と文字を、別々に記録していた。
いつもより、何度も壁へ目を戻している。
「なあ、フィリア」
「はい?」
「これ、器の使い方が分かったら、何の絵かも分かるかな」
彼女は鉛筆を止めた。
壁画と、小部屋の器の絵を見比べる。
「……分かることが、増えると思います」
ルイスは頷き、灯具を持ち直した。
もっとよく見えるように、光の向きを変える。
器の欠片を拾った時には、ここまでつながるとは思っていなかった。
フィリアの紙の上に、また一つ、線が増えた。




