第二章69『下から届いた声』
ルイスは灯具を少し上げた。
壁の線が、光の中へ浮かぶ。
曲がった線と、小さな輪。
フィリアの記録帳に描かれた器の模様にも、似た形があった。
「同じ人が彫ったのかな」
「まだ分かりません。でも、同じ目的で使った形かもしれませんね」
フィリアは壁の模様を描き写した。
器の絵の隣に並べ、違うところへ小さな印を付ける。
「器に何かを入れて、こっちへ運んだとか?」
ルイスが尋ねる。
「それも考えられます」
「なら、階段はゆっくり下りた方がいいな」
レオンが石段を見た。
「浅い器を持って転べば、中身を全部こぼす」
「まだ運ぶところ考えてるのかよ!」
ルイスは笑い、それから階段へ目を向けた。
段の幅は広い。何人かが並んで下りられそうだった。
レオンの言うように、ここを器を持った人々が通ったのかもしれない。
フィリアが記録帳を閉じる。
「下にも同じ形があるか、見てみましょう」
三人は壁の線を避け、石段の中央へ足を置いた。
レオンが先に下り、ルイスとフィリアが続く。
一段ずつ進むにつれ、上から届く話し声が遠くなった。
自分たちの靴音だけが、壁へ返る。
やがて階段が曲がり、その先に別の灯りが見えた。
踊り場に、ギルドの職員が一人立っていた。
奥へ続く階段には縄が渡され、通行できる場所を区切っている。
「ここまでです。下では、まだ調査隊が床と通路を確認しています」
「分かった!」
ルイスは縄の手前で止まった。
踊り場の壁には、浅い窪みがあった。
胸ほどの高さに、丸く彫り込まれている。その底から細い線が伸び、壁の模様へつながっていた。
「フィリア、これ――」
言いかけた時だった。
下から、重い音が響いた。
石がぶつかり、砕ける音。
ルイスは階段へ顔を向けた。
遅れて、細かな砂が転がってくる音がした。
「おい! 誰かいるか!」
男の声だった。
踊り場の職員が、縄の向こうへ身を寄せる。
「どうしました!」
「床が落ちた! 二人、向こうに残ってる!」
職員の顔つきが変わった。
「君たちは、ここで待っていてください」
そう言って階段を下りかけた背中へ、レオンが声を掛ける。
「縄は足りているか?」
職員が振り返った。
レオンは荷袋の口へ手を掛けていた。
「俺たちも持っている。必要なら手を貸そう」
ルイスも自分の袋を下ろした。
「俺も手伝う!」
職員は二人を見て、一度頷いた。
「では、一緒に。ただし、私より先へは出ないでください」
フィリアも灯具を持ち直し、三人は職員の後へ続いた。
――――――――――
階段を下りた先では、細かな埃が灯りの中を漂っていた。
横へ延びる通路の入口に、一人の男が立っている。
革の肩当てが、白い粉で汚れていた。
「こっちだ!」
男が灯具を向ける。
通路の途中で、床が途切れていた。
幅は、人が寝転がった長さよりも広い。
その向こうに、二人の冒険者がいる。一人は膝をつき、もう一人の肩を支えていた。
「怪我は!」
職員が尋ねる。
「こいつが足をやった! 歩けない!」
ルイスは穴へ灯りを向けた。
下には崩れた石が積もっている。
縁に残った床も、一部が斜めになっていた。
その上へ足を置けば、さらに落ちるかもしれない。
「縁へは近づくな」
レオンが言った。
彼は穴の手前で止まり、壁際と天井を見た。
職員も床を調べ、後ろへ手を伸ばす。
「縄をこちらへ。奥の柱へ掛けられれば――」
「投げる!」
ルイスは袋から縄を取り出した。
向こうの男が顔を上げる。
「投げてくれ! こっちで結ぶ!」
ルイスは縄の端をまとめ、穴の向こうへ放った。
男が腕を伸ばす。
届いた。
男は縄を掴むと、奥の柱へ回した。
こちら側でも、職員が階段脇の柱へ縄を掛ける。柱の根元と縄を確かめ、二度、強く引いた。
「向こうの柱も動かないか、確認してください!」
「大丈夫だ!」
返事を聞いて、職員がルイスへ振り向く。
「もう一本、ありますか?」
「俺のを使ってくれ」
レオンが縄を差し出した。
「先に、歩けない方を運ぼう」
「渡れますか? 下へ足が着く高さではありませんよ」
「ああ」
レオンは荷袋と剣を下ろした。
縄を支えにするように片手を添え、向こうの床を見定める。
次の瞬間、彼は地面を蹴った。
ルイスは息を止めた。
レオンの身体が、穴の上を越える。
向こうの崩れた縁を避け、さらに先の床へ着地した。
靴が鳴ったのは、短い一度だけだった。
「……跳んだ」
ルイスが呟く。
職員も、縄を握ったまま目を見開いていた。
レオンはすぐに怪我人の前へ膝をついた。
「背負う。痛む場所を教えてくれ」
「右の足首だ。悪い、頼む」
男を支えていた仲間が手を貸し、レオンの背へ乗せる。
フィリアがこちらから声を掛けた。
「足を押さえつけないようにしてください! こちらへ来たら、座れる場所を空けておきます!」
彼女は落ちた小石を払い、壁際へ畳んだ布を敷いた。
ルイスも灯具を床へ置き、戻ってくる場所を照らす。
レオンは怪我人を背負ったまま立ち上がった。
「しっかり掴まっていてくれ」
「おう」
穴へ向き直る。
ルイスは思わず声を上げた。
「そのまま跳ぶのか!?」
「そうだ」
レオンは一度、男の身体を背負い直した。
それから助走を取り、床を蹴る。
大人一人を背負った身体が、再び穴を越えた。
着地と同時に膝が沈む。
レオンはそのまま二歩進み、フィリアが空けた場所へ男を下ろした。
「ここなら、座れるな」
怪我人が壁へ背を預ける。
額には汗が浮いていたが、ほっとしたように息を吐いた。
「……助かった」
レオンは頷き、穴へ振り返った。
残った男は、渡された二本目の縄を身体へ結んでいた。
「俺は足が使える。縄を張ってくれ!」
職員が結び方を確かめ、こちら側の縄をレオンへ渡す。
ルイスは、男の身体につながる方を握った。
「こっちは俺が持つ!」
男は張られた縄を掴み、身体を低くした。
足場の縁へ体重を掛けず、縄へぶら下がるようにして進む。
途中で小さな石が落ちた。
ルイスは手を握り直したが、レオンの持つ縄はほとんど緩まなかった。
男がこちらへ手を伸ばす。
職員とルイスでその腕を掴み、安全な床まで引き上げた。
「よし……!」
ルイスが息を吐く。
男も膝をついたまま、深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に助かった」
――――――――――
怪我人の足首は、少しずつ腫れ始めていた。
フィリアは本人に痛む場所を確かめながら、無理に動かさないよう支えた。
職員は上へ応援を呼びに行き、先に戻っていた隊の仲間が、踊り場まで付き添うことになった。
「踏んだ時は、なんともなかったんだ」
救出された男が、穴を見た。
「奥で壁を見て、戻ろうとしたところで落ちた。下が空洞になってたんだな……」
ルイスも崩れた床へ目を向ける。
行きに通れた道でも、帰りに同じように歩けるとは限らない。
レオンが縄を巻きながら言った。
「戻る時も、足元を確かめよう」
「うん」
ルイスは頷いた。
それから、レオンの背中を見る。
「……重くなかったのか?」
「何が?」
「人だよ! 背負って跳んだだろ!」
「ああ。空荷よりは重かったな」
「そういう話じゃないって!」
男が苦笑した。
「俺も、あのまま跳ぶとは思わなかったよ」
「歩いては渡れなかったからな」
レオンは真顔で答え、巻いた縄を袋へ戻した。
フィリアが口元を緩める。
けれど、すぐに男へ向き直った。
「先ほど、奥で壁を見ていたとおっしゃいましたよね」
「ああ。壁画があったんだ」
「どんな絵でしたか?」
男は、怪我をした仲間と顔を見合わせた。
「上にも、人の絵があっただろ。器だか籠だかを持ってるやつ」
「はい」
「あれとは、随分違った」
ルイスも顔を上げた。
「違う?」
「人が、同じ方へ走ってる。子供を抱えてる奴もいた。反対側には、槍を持った連中が並んでた」
男は通路の奥へ目を向けた。
「間の絵が剥がれてて、何を描いたのかは分からなかったが……何かから逃げてるように見えたな」
フィリアが記録帳を開いた。
男に壁画の場所を尋ね、通路の形も確かめる。
ルイスはその横から、穴の向こうを見た。
供物を運ぶ人々。
子供を抱えて走る人々。
槍を持って並ぶ人々。
同じ建物に残っていても、想像する景色はまるで違った。
上から、応援の職員たちの声が届いた。
怪我人を運ぶ準備が始まる。
ルイスは荷袋を持ち上げ、レオンと一緒に男を支えた。
フィリアも記録帳を閉じ、灯りを向ける。
壁画を見に行くのは、この人たちを送り届けてからだ。
階段へ向かう途中、ルイスは一度だけ振り返った。
あの奥に、何が描かれているのだろう。
穏やかな神殿の姿だけではない、昔の景色が残っているらしかった。




