第二章67『地図の先が増える日』
レオンから分けてもらった包みには、厚く切ったパンと、燻した肉が入っていた。
ルイスは天幕の近くに腰を下ろし、パンへ肉を挟んだ。
「うまい!」
「昨日、店で勧められたんだ」
レオンも隣で包みを開く。
フィリアは少し離れた場所へ座り、背負い袋から水を取り出した。
入口へ向かう冒険者たちが、三人の前を通っていく。
中へ入る時には、これから何を見るのかと考えていた。
今は、あの回廊の彫刻や、広間の柱を思い浮かべられる。途中で床が崩れていることも、奥から魔獣が出てくることも知っている。
ルイスはパンをかじりながら、遺跡の入口へ目を向けた。
「知ってる場所が、ちょっと増えたな」
フィリアが顔を上げる。
「もう一度入ったら、最初とは違って見えると思いますよ」
「どこに絵があるか、分かってるもんな」
「はい。でも、前には気づかなかったものも見つかるかもしれません」
「じゃあ、何回行っても面白いんだ」
フィリアは水袋を閉じ、微笑んだ。
「私は、そう思っています」
レオンが頷く。
「次は、魔獣が回り込める場所も先に確かめよう」
「それもな!」
ルイスは最後の一口を飲み込んだ。
袋から水を取り出していると、レオンが二つ目の包みを開いた。
その中にも、パンと肉がある。
「……まだあるんだ」
「君にも分けたからな」
「分けなくても二つ食べるつもりだっただろ?」
「ああ」
ルイスが笑う。
レオンは気にした様子もなく、パンを手に取った。
――――――――――
街へ戻る道で、ルイスはレオンの隣へ並んだ。
「なあ。さっきの蹴り、どうやったんだ?」
「頭の横を狙った」
「それは見た! あんなに飛ばせるのがすごいんだって」
レオンは少し考えてから、自分の足へ目を落とした。
「踏み込める距離だったからな。近すぎると、あれほどは蹴れない」
「力だけじゃないのか」
「足を置く場所も大事だ」
ルイスは先ほどの広間を思い返した。
レオンは魔獣の前へ入った時、立ち止まってから蹴ったわけではなかった。走り込む動きが、そのまま一撃になっていた。
「相手が跳ぶ前に、もう動いてたよな」
「ああ」
「どうして、あっちへ行くって分かった?」
「頭がフィリアの方へ向いた。後脚も沈んでいたから、跳ぶつもりだと思った」
レオンは、道の脇の平らな場所を指さした。
「少し、手合わせしてみるか?」
「いいの!?」
「ああ。実際に動いた方が、説明もしやすい」
三人は道から外れ、木陰へ入った。
レオンは荷袋を下ろした。ルイスも自分の袋を脇へ置く。
フィリアは二人から離れたところで立ち止まった。
「私は、こちらで見ていますね」
レオンは剣を鞘ごと腰から外し、荷袋の横へ置いた。
「まずは、君から攻めてくれ」
「拳と蹴り?」
「ああ。手加減はいらない」
ルイスは顔を上げた。
「全力でいいの?」
「その方が、普段の動きが分かるだろう?」
レオンは袖口を整え、ルイスへ向き直った。
構えているようには見えない。
両腕も、自然に下ろしたままだった。
「……本当にいくぞ!」
「ああ」
ルイスは地面を蹴った。
一気に距離を詰め、右の拳を突き出す。
レオンの顔が、わずかに横へ動いた。
拳が空を切る。
ルイスはすぐに左を出した。
今度は肩が引かれた。
届かない。
だが、レオンは目の前にいる。
ルイスは踏み込みながら、右脚を振った。
腹を狙った蹴りを、レオンは半歩下がって避ける。
その足が着くより先に、ルイスは追った。
逃げた先へ拳を伸ばす。
レオンの身体が横へずれた。
「……っ!」
ルイスは足を踏み直し、振り向いた。
レオンは、すぐそこに立っている。
息も乱れていない。
ルイスはもう一度飛び込んだ。
右、左。
拳を続けて出し、低く蹴る。
レオンは足を引いた。
ルイスはその動きに合わせて身体を回し、反対の脚を高く振った。
レオンが上体を傾ける。
靴の先が、金髪のすぐ前を通った。
身体を戻したレオンへ、ルイスはさらに拳を伸ばす。
それも当たらない。
届きそうな距離なのに、狙った場所だけが、いつも少し先へ動いていた。
ルイスは拳を引き、一瞬だけ動きを止めた。
右肩を動かす。
けれど、右手は出さない。
代わりに左脚で踏み込み、左の拳を突き出した。
レオンは右肩の動きには釣られなかった。
左の拳が伸びる時にだけ、身体をずらす。
「なんで分かるんだよ!」
「右は、当てるつもりがなかっただろう?」
答える声まで、落ち着いていた。
ルイスは歯を食いしばり、もう一度踏み込んだ。
今度こそ。
拳を避けられても、すぐに次を出す。
蹴りから拳へ。顔を狙い、腹へ変える。
レオンの足は、いつもルイスが進もうとした場所の脇へ置かれた。
肩を引く。
身体を傾ける。
足をずらす。
それだけで、全ての攻撃が空を切った。
最後にルイスが大きく右の拳を振ると、レオンはその内側へ半歩入った。
拳が彼の肩の向こうへ抜ける。
ルイスは慌てて振り返ったが、次の一撃を出す前に、息が切れた。
「……待って」
膝へ手をつき、深く息を吸う。
汗が頬を伝った。
レオンは目の前で足を止めた。
「ここまでにしよう」
「一回も……当たらなかった……」
ルイスは顔を上げた。
レオンは、最初とほとんど変わらない姿で立っている。
少し離れたところで、フィリアが二人を見つめていた。
「……あんなに近くで、全部避けられるんですね」
「離れすぎると、ルイスが続けて攻められないからな」
レオンが答えた。
ルイスは思わず彼を見た。
自分が攻め続けられるように、あの距離にいたのだ。
「俺、結構本気だったぞ」
「ああ。途中から、攻撃のつなぎ方も変えていただろう?」
「そこまで見てたのかよ……」
ルイスは息を整えながら、背筋を伸ばした。
昨日の手合わせでも、レオンの避け方は見ていた。
けれど、自分で狙ってみると、まるで違った。
当たると思ったところに、もういない。
それなのに、次も当たりそうな場所にいる。
「なあ。どうしたら、あんなふうに動けるんだ?」
「まずは、相手をよく見ることだ」
「見てたつもりなんだけどな」
「拳だけではなく、肩と足もだな」
レオンはルイスの足元を示した。
「右を出す前に、こちらへ体重を移していた。蹴る時は、軸にする脚も分かる」
「それで、次に何するか分かるの?」
「ああ」
迷いのない返事だった。
ルイスは自分の足を見下ろした。
拳を当てることばかり考えていた。
その前に自分が何をしていたかは、あまり覚えていない。
「今度は、俺がゆっくり動こう」
レオンが片手を上げる。
ルイスは肩を見た。
足も見ようとした。
その間に、レオンの指先が、額へ軽く触れた。
「……速い」
「ゆっくり動いたつもりだったが」
「俺には速かった!」
レオンは手を下ろし、真剣な顔で頷いた。
「では、もっとゆっくりから始めよう」
フィリアが木陰で笑いをこぼす。
ルイスは額を擦りながら、もう一度レオンの正面へ立った。
あの動きを、すぐに真似できるとは思わない。
けれど、何を見ているのかが分かれば、前よりは近づけるかもしれない。
「もう一回!」
――――――――――
ラステルへ戻る頃には、ルイスの額に触れられた回数は、両手の指では足りなくなっていた。
「一回くらい避けたかったなあ……」
「肩が動いたことには、気づいていただろう?」
「気づいたら、もう触られてた」
「では、その先だな」
レオンは励ますように言った。
ルイスは彼を見上げ、少し笑った。
「また付き合ってくれよ」
「ああ」
三人はギルドへ向かった。
中は、朝と同じように賑わっていた。
受付で帰還と現地での報告を伝えると、フィリアが器の欠片を収めた箱を取り出す。
「他の出土品と比べたいのですが、見せていただけますか?」
「確認しますね。場所を記録した図面もお願いします」
受付の女性が書類へ目を通し、奥の職員へ声を掛けた。
しばらく待つと、三人は壁際の長机へ案内された。
机の上には、布を敷いた木箱がいくつも並んでいる。
器の欠片。小さな金属片。土の付いた石。
それぞれの箱には、見つかった場所を書いた紙が添えられていた。
「触る前に、こちらへ声を掛けてくださいね」
職員がそう言い、近くの椅子へ腰を下ろした。
フィリアは箱の中を順番に見ていく。
ルイスも、その隣から覗き込んだ。
「こんなに見つかってるんだ」
「入口に近い部屋だけでも、いろいろ残っているんですね」
フィリアの指が、一つの箱の手前で止まった。
「これ……」
中には、茶色い欠片が三つ置かれていた。
縁が残っているものもある。
内側には、淡い色が付いていた。
「似てる!」
ルイスが言うと、フィリアも頷いた。
「はい。こちらも浅い器の一部かもしれません」
許可をもらい、自分たちの欠片を布の上へ置く。
並べてみると、厚さも少し似ていた。
フィリアは横から見たり、記録帳の絵と比べたりしている。
「くっつく?」
ルイスが尋ねた。
「同じ器とは限りませんよ。見つかった場所も違いますから」
「そっか」
「でも、似た器がいくつもあった可能性はあります」
フィリアは箱に添えられた紙を読む。
「こちらは、広間の横の小部屋で見つかったそうです」
図面を開き、場所を確かめる。
ルイスも顔を近づけた。
今日通った回廊。
中央に石台のある広間。
その脇へ、小さな四角が描かれていた。
「ここ、入ってないな」
「ええ。道具を保管する部屋だったのかもしれませんね」
「器をしまってたとか?」
「そうかもしれません。出土品が、どんなふうに残っていたかも知りたいです」
フィリアは職員へ顔を向け、発見した隊の報告について尋ねた。
話を聞きながら、記録帳へ文字を足していく。
ルイスは、布の上の欠片を見た。
遺跡を出た後でも、分かることが増えている。
また見に行きたい場所も増えた。
「なあ、フィリア」
「はい?」
「次は、その小部屋も見よう!」
フィリアが顔を上げた。
緑の瞳が、少し明るくなる。
「はい。私も見たいです」
「俺も一緒に行こう」
レオンが言った。
「器を持って歩く前に、どこから持ち出したのかは気になる」
「レオン、ずっと運ぶところが気になってるな」
「途中から渡された可能性もあるだろう?」
フィリアは笑いながら、図面へ小さく印を付けた。
――――――――――
欠片の確認を終えて受付へ戻ると、入口の方から大きな声がした。
「通れたぞ!」
ルイスは振り向いた。
土に汚れた服の冒険者が、仲間と一緒にギルドへ入ってくる。
肩に担いだ道具には、白っぽい石の粉が付いていた。
「右の通路だ。上に残ってた石をどけたら、奥まで行ける!」
近くの冒険者たちが顔を上げる。
受付の職員が立ち、男たちを机へ呼んだ。
「詳しく教えてください。崩れやすい場所は残っていますか?」
「入口のところは、まだ補強が要る。だが、その先に階段があった」
「階段?」
ルイスの声が、近くの誰かの声と重なった。
フィリアも受付へ目を向けている。
「下へ続いてる。途中まで見たが、かなり深いぞ」
男が広げた紙へ、職員の指が動く。
他の冒険者たちも近づき始めたので、ルイスたちは少し脇へ寄った。
「右の通路って……」
「露店の地図で、宝物庫になっていたところです」
フィリアが答えた。
「本当に階段だったんだ!」
「少なくとも、今の報告では」
ルイスは思わず笑った。
「明日は、階段と宝物庫、両方描いてあるかもな」
「宝物庫があるかも分からないのに、地図に描かないでほしいんですけど」
フィリアの眉が少し寄る。
レオンが受付の紙を見た。
「階段の先にあれば、両方正しかったことになるな」
「まだ分かりませんよ」
「ああ。だから、確かめる必要がある」
それには、フィリアも頷いた。
職員は報告をまとめ、近くにいた別の職員へ書類を渡した。
まずは崩落した場所を点検し、通行できる状態か確認するという。
すぐに誰でも入れるわけではないらしかった。
ルイスはフィリアの図面へ目を落とす。
右の通路は、途中で線が止まっている。
その先に、階段がある。
今日の朝には分からなかったことが、もう一つ増えた。
「地図、書き足せるな」
「ええ。ただ、まだ仮の記録です」
フィリアが鉛筆を取り出した。
途切れた線の先へ、小さな階段の印を描く。
その隣に、確認中、と書き添えた。
ルイスは新しい印を見つめた。
紙の上では、ほんの小さな変化だった。
けれど、あの大きな入口の奥で、誰かが本当にその先へ進んだのだ。
「次に行くまでに、もっと分かってるかもしれないな」
「その前に、今日見た場所の記録をまとめましょう」
フィリアが言う。
「分かった!」
ルイスは頷き、それでももう一度、階段の印へ目を向けた。
地図の先が、増えていた。




