第二章66『剣士の間合い』
石を引っ掻く音が、もう一度響いた。
ルイスは短剣を抜き、通路へ灯りを向ける。
床に近いところで、何かが動いた。
先に見えたのは、長い爪だった。
続いて、平たい頭と太い前脚が、通路の暗がりから現れる。
大きな蜥蜴に似た魔獣だった。
背中には灰褐色の硬そうな鱗が重なり、低く構えた身体の後ろから、長い尾が伸びている。口の端から覗く歯が、灯りを受けて白く光った。
「フィリア、後ろへ」
レオンが言った。
フィリアは記録帳を鞄へしまい、腰の杖を抜く。
「はい」
「ルイス、灯りを預けられるか?」
「分かった」
ルイスはフィリアへ灯具を渡した。
レオンも自分の灯具を足元へ置く。荷袋を下ろし、腰の剣を抜いた。
フィリアは二人の後ろへ下がり、受け取った灯具を床へ置いた。片手に残した自分の灯りを、魔獣の方へ向ける。
広間を照らす光が落ち着いた。
その中へ、魔獣が前脚を踏み出す。
「背中、硬そうだな」
ルイスが呟いた。
「ああ。正面から受けない方がいい」
レオンの視線は、魔獣の肩から前脚へ動いていた。
魔獣が身体を沈める。
「来るぞ」
言葉が終わるより先に、太い後脚が床を蹴った。
レオンへ向かって、魔獣が跳ぶ。
開いた口が、彼の腿を狙った。
レオンは横へ足を置いた。
魔獣の頭が、そのすぐ脇を通る。
彼は剣を振り下ろした。
刃が、魔獣の背中から外れた。
勢いのついた剣先が床へ迫る。レオンは腕を引き、上体を起こしたが、その間に魔獣が身をひねった。
長い尾が、彼の足元を払う。
レオンは跳び、尾を越えた。
「やっぱり当たらないのかよ!」
「今は、俺も当てたかった」
返事をしながら、レオンは着地する。
その正面へ、魔獣が向き直った。
ルイスは横から踏み込んだ。
魔獣の首を狙い、短剣を突き出す。
ところが、頭がこちらへ振られた。
牙が迫る。
ルイスは短剣を引き、後ろへ退いた。空振りした口が、さっきまで腕のあった場所で閉じる。
硬い歯の鳴る音がした。
「……速いな」
ルイスは足を止めず、魔獣の横へ回った。
背中より、首の下の方が鱗は細かい。
けれど、そこへ近づけば牙が届く。
レオンが前へ出ると、魔獣は再び彼へ頭を向けた。
「ルイス。こちらを向いた時に、首の横へ入れるか?」
「やってみる!」
魔獣の前脚が、床を掻いた。
レオンが一歩、距離を詰める。
噛みつこうとした頭を、彼は身を引いて避けた。
魔獣はさらに追う。
レオンは下がりすぎず、その鼻先の近くへ足を置き直した。
もう一度、牙が彼を狙う。
その瞬間、ルイスが横から飛び込んだ。
伸びた首の下へ、短剣を突き立てる。
刃が入った。
魔獣の身体が大きく跳ねたので、ルイスは柄を握ったまま身を寄せ、さらに押し込んだ。
爪が床を削る。
ルイスは短剣を抜き、すぐに離れた。
魔獣は二歩ほど進んだが、前脚が折れた。
重い身体が、石の床へ倒れ込む。
「……よし」
ルイスが息を吐いた。
だが、レオンは剣を下ろさなかった。
「まだだ」
通路へ目を向けている。
暗がりから、別の爪が現れた。
二匹目だった。
一匹目より小さい。
けれど、その魔獣は倒れた仲間の横を通らず、壁際へ走った。
柱の陰に身体が隠れる。
ルイスが向きを変えた時には、魔獣はそこを抜け、フィリアの方へ向かっていた。
「フィリア!」
彼女も気づいていた。
杖を前へ出し、柱の後ろへ下がる。
魔獣が身体を低くした。
そこへ、レオンが踏み込んだ。
床を蹴る音は、一度だけだった。
彼は魔獣とフィリアの間へ入り、その頭を横から蹴りつけた。
鈍い音が響いた。
魔獣の身体が浮き、横向きに床へ落ちる。
ルイスは一瞬、足を止めかけた。
昨日の木箱を運ぶ姿が、頭をよぎる。
けれど、今は見ている場合ではない。
横倒しになった魔獣が脚を動かす。
ルイスはその腹側へ回り、薄い鱗の間へ短剣を突き立てた。
尾が床を打つ。
やがて、その動きも止まった。
ルイスは刃を抜き、後ろへ退いた。
広間に、自分たちの息遣いが残った。
レオンは通路を見たまま、しばらく動かなかった。
ルイスも短剣を握り直し、耳を澄ます。
もう、爪の音はしない。
「……他には、来ないか?」
「今のところはな」
レオンが答えた。
それから、フィリアへ振り返る。
「怪我は?」
「ありません。ありがとうございます」
フィリアは柱のそばに立ち、杖を握っていた。
ルイスはその顔を見て、ようやく肩の力を抜いた。
――――――――――
レオンが通路を警戒する間に、ルイスは短剣の血を拭った。
フィリアは床に置いた灯具を拾い、彼へ差し出す。
「ありがとうございます」
「こっちこそ。よく見えた」
灯りがなければ、魔獣の首も、近づいてくる牙も見えなかった。
ルイスは受け取った灯具を確かめ、それからレオンを見た。
「今、蹴ったよな?」
「ああ」
「すっごい飛んだぞ」
「君たちの方へ行かせるわけにはいかなかったからな」
レオンは当然のように答えた。
ルイスは彼の剣へ目を落とす。
刃には、血が付いていない。
「……やっぱり、蹴った方が強いんじゃない?」
レオンも自分の剣を見た。
「今の一撃については、そうだな」
「そこは認めるんだ」
「だが、君は首を狙えた。助かったぞ」
真っすぐに言われ、ルイスは少し照れたように短剣を腰へ戻した。
「レオンが引きつけてくれたからだろ」
「なら、次もそうしよう」
レオンが頷く。
ルイスも頷きかけて、フィリアを見る。
「でも、二匹目は危なかったな」
「私も、通路ばかり見ていました」
フィリアは魔獣が回り込んだ柱へ顔を向けた。
「広間だと、横からも来られるんですね」
「ああ。次は、背後に回り込めない位置を先に決めよう」
レオンが言った。
ルイスは広間の入口を見た。
自分たちが来た回廊と、魔獣が現れた奥の通路。その間には、いくつも柱が立っている。
見通せると思っていた場所にも、隠れるところがあった。
「俺も、倒したらすぐ終わりだと思わないようにする」
フィリアが頷いた。
三人とも、少しずつ見落としていた。
今、それを話せることに、ルイスはほっとした。
「今日は、ここまでにしませんか?」
フィリアが言った。
「調べたいところはまだありますけど、奥に他の魔獣がいるかもしれません。先に報告した方がいいと思います」
「そうだな。予定していた広間までは来た」
レオンが剣を鞘へ戻す。
ルイスは奥の通路を見た。
あの先にも、部屋があるのだろう。
まだ見ていない彫刻や、誰かが使っていた道具もあるかもしれない。
けれど、今日は帰り道も確かめると決めていた。
「分かった。また来よう!」
フィリアの顔が、少し明るくなる。
「はい」
帰る前に、三人は倒した魔獣の位置を確認した。
フィリアが図面へ印を付け、姿と数も書き留める。ルイスは灯りを向け、レオンはその間も奥の通路へ目を配っていた。
「その絵も描くの?」
「報告に使えると思うので。名前が分からなくても、姿が分かれば調べてもらえますから」
「そっか」
ルイスは魔獣の爪を見る。
最初に聞こえた、石を引っ掻く音。
あれは、この爪だったのだ。
遺跡には、昔の人が残したものだけでなく、今ここに暮らしているものもいる。
次に来る時は、それも考えて歩こうと思った。
――――――――――
戻る途中、三人は崩れた床の手前で足を止めた。
レオンが先に通り、ルイスが続く。
最後にフィリアが渡ってくるまで、二人で足元を照らした。
行きよりも、互いの動きを確かめる回数が増えていた。
回廊を進むと、入口の光が見えてくる。
石に彫られた人物たちは、相変わらず奥へ顔を向けていた。
ルイスは器を持つ人物の前で、少しだけ足を緩めた。
「またな」
小さく声を掛ける。
フィリアが横から彼を見た。
「その人にですか?」
「ああ。まだ、何を持ってるか分かってないし」
「次は、他の器と比べてみましょう」
「うん!」
入口を出ると、外の明るさに目が細くなった。
風が頬を通り、焚き火の煙と煮炊きの匂いが届く。
天幕の間では、冒険者たちが荷物を下ろしていた。大きな石の欠片を囲み、何かを話している者もいる。
レオンが空を見上げた。
「まだ、昼前か」
「結構いた気がしたけどな」
ルイスが答える。
歩いた道は、それほど長くない。
けれど、彫刻を見て、器の欠片を拾って、魔獣とも戦った。
袋の中身はほとんど変わっていないのに、帰って話したいことは、随分と増えていた。
三人は受付の机へ向かった。
帰還したことを伝え、フィリアが図面を広げる。
「広間の奥から、二匹出てきました。こちらで倒しています」
職員は彼女の絵を見て、手元の記録をめくった。
「この魔獣なら、他の隊からも報告がありますね。ただ、広間まで出てきたとなると……」
別の紙へ書き込み、近くにいた職員へ声を掛ける。
広間へ向かう探索者にも、注意を伝えるらしかった。
ルイスはその様子を見ていた。
自分たちが見たことが、次に入る誰かの役に立つ。
ギルドで受け取った図面も、こうして作られていたのだ。
「それと、器の欠片を一つ持ち帰りました。見つけた場所はこちらです」
フィリアが小さな箱を開く。
ルイスも隣から覗き込んだ。
茶色い、小さな欠片。
街へ来る前、オリバーに話した古い壺とは違うかもしれない。
それでも、昔の誰かが使っていたものを、自分の目で見つけた。
ルイスは口元を緩めた。
「帰ったら、オリバーのおっさんにも話そう」
「宝が見つかったことをか?」
レオンが尋ねる。
「魔獣と戦ったこととか、昔の人の絵とか。この欠片も!」
フィリアが箱を閉じながら笑った。
「長い話になりそうですね」
「なると思う!」
ルイスは振り返った。
巨大な入口の向こうに、暗い回廊が続いている。
今日は、最初の広間まで。
あの遺跡には、まだその先がある。
「次は、もっと見られるといいな」
「ああ。そのためにも、まずは飯だ」
レオンが荷袋を下ろした。
紐を解くと、中から大きな包みが出てくる。
「今食べるの?」
「帰りの分だ」
「街に帰ってからじゃなかったのかよ!」
ルイスが笑うと、フィリアも肩を揺らした。
レオンは二人を見て、包みを一つ差し出す。
「食べるか?」
ルイスは一度、その量を見た。
それから、迷わず手を伸ばした。
「食べる!」




