第二章65『石に残された人々』
ルイスが灯具を横へ動かすと、石の器の下に影が伸びた。
彫られた人物は、両手で器を支えている。正面から照らした時には見えなかった指の間まで、光の向きを変えると分かった。
「これ、結構深く彫ってあるんだな」
「そうですね。もう少し、そのまま照らしていただけますか?」
「こう?」
「はい。ありがとうございます」
フィリアの鉛筆が、紙の上を走った。
器の縁。添えられた指。胸元から垂れた布の形。
ルイスも隣から覗き込む。
記録帳の中に、目の前の人物が少しずつ現れていった。
「うまいな!」
「形が分かるように描いているだけですよ」
「俺だったら、腕が二本あるくらいしか分かんないぞ」
「器も描いてください。それが大事なので」
「そっか!」
ルイスは笑い、灯具を持ち直した。
フィリアが文字を書き足す間に、もう一度、石の人物を見上げる。
「何が入ってたんだろうな」
「器の中ですか?」
「うん。空っぽじゃないんだろ?」
「彫刻では、中までは見えませんね」
フィリアは人物の手元へ目を向けた。
「ただ、何かを差し出す姿なのかもしれません。似た姿の人物が、他にもいれば……」
「いるぞ」
少し先から、レオンの声がした。
二人が振り向く。
彼の掲げた灯具が、次の柱の間を照らしていた。
そこにも、人の姿がある。
今度の人物は、片腕に籠のようなものを抱えていた。その上から、丸い形がいくつも覗いている。
「果物?」
ルイスが近づくと、フィリアも横へ並んだ。
「そう見えますね。こちらは、持っている物も彫られています」
「じゃあ、さっきの器にも食べ物かな」
「その可能性はあります」
フィリアは二つの彫刻を交互に見た。
「人の向きも同じです。どちらも、回廊の奥へ顔を向けていますね」
ルイスは、灯りの届く範囲を見渡した。
器を持つ人物。
籠を抱える人物。
さらに先には、両腕に長い束を載せた人物もいた。
欠けた部分が多く、何の束かまでは分からない。けれど、その顔も同じ方へ向いている。
「みんな、どこかに持っていくんだ」
「そういう場面を表しているのかもしれません」
フィリアの声が、少し弾んだ。
記録帳へ目を落としたかと思うと、すぐに次の人物を見上げる。
「衣服も違いますね。器を持つ人には長い飾り布がありますけど、こちらは腰までの丈で……。履物は、下が欠けていて分かりません。ただ、同じ人を繰り返し彫ったわけではなさそうです」
レオンが、籠の彫刻へ顔を近づけた。
「こちらの方が、運びやすそうだな」
「何が?」
「荷物だ。両手が塞がっていない」
「レオンだったら、籠も器も一緒に運べそうだけど」
「器を上に載せるなら、中身次第だな」
ルイスは思わず笑った。
「本当に運ぶつもりで見てるのかよ!」
「運んでいる姿だろう?」
レオンは不思議そうに答えた。
フィリアが鉛筆を止める。
「でも、そういう見方も大切だと思います」
二人が彼女を見る。
「実際に使える形なのか、特別な場でしか使わない物なのか。持ち方や大きさから、考えられることもありますから」
「じゃあ、あの浅い器、歩いたらこぼれそうじゃない?」
ルイスが最初の人物を指さす。
「液体なら、そうですね」
「そっと歩いてたのかな」
ルイスは胸の前に両手を出し、器を持つ真似をした。
一歩進む。
自分の靴音が、回廊の奥へ響いた。
昔の誰かも、こうして歩いたのだろうか。
両手の上に何かを載せて、こぼさないように気をつけながら。
「……なんか、変な感じだ」
「何がですか?」
「ここにいた人のこと、ちょっと想像できる」
フィリアはルイスを見て、それから石の人物へ目を戻した。
「私も、それが好きなんです」
小さな声だった。
ルイスが横顔を見ると、彼女はもう記録帳へ鉛筆を走らせていた。
――――――――――
回廊を進むにつれ、入口から届く光は細くなっていった。
三つの灯りが、柱と敷石を順番に照らす。
壁には人物の他にも、葉や鳥の模様が残っていた。ルイスが一つ見つけるたびに足を止めるので、三人の歩みはなかなか進まない。
「あの鳥、入口にもいたよな?」
「似ていますね。尾の形を比べてみましょうか」
「こっちの方が長くない?」
「先が欠けているので、元の形は――」
「二人とも、そこで止まってくれ」
レオンの声に、ルイスは足を止めた。
前方の床に、縄が張られている。
柱と柱の間を低く渡した縄には、赤い布が結ばれていた。その向こうでは、敷石の一部が落ち込み、暗い穴になっている。
「これが、入るなって言ってたところか」
ルイスは縄の手前から、灯具を向けた。
穴の縁に、斜めになった石板が残っている。
下は見えない。
さっきまで彫刻を見上げながら歩いていたことを思い出し、ルイスは足元を確かめた。
フィリアも図面を開く。
「ここに印があります。右の柱の外側を通れるそうです」
レオンはそちらへ灯りを向けた。
壁際に、もう一本の縄が続いている。危険な場所から離れるように、通れる範囲を示しているらしかった。
「俺から行こう」
レオンが荷袋を背負い直した。
踏み出す先を照らし、床を確かめながら柱の向こうへ回る。
ルイスも後に続いた。
近くで見ると、穴は思っていたより広い。壁の絵ばかり見ていたら、印を見落としていたかもしれない。
「下にも部屋があるのかな」
「あるかもしれないが、ここから確かめるのはやめよう」
「分かってる」
ルイスは平らな敷石を選んで進んだ。
向こう側に着くと、振り返って灯具を掲げる。
「フィリア、こっち!」
「ありがとうございます」
フィリアが壁側を通ってくる。
背負い袋が柱へ触れないように肩を引き、足元を見ながら進んだ。
三人が揃うと、レオンは回廊の先へ向き直った。
「絵を見る時は、俺が床も見ておこう」
「俺も気をつける」
「私もです。夢中になっていました」
フィリアが記録帳を閉じる。
ルイスは一度、穴の向こうへ灯りを向けた。
古い建物には、昔の人が残したものだけでなく、その後に壊れたところもある。
見たいものを見つけるには、そこまで無事に歩いていかなければならない。
「なあ、レオン」
「なんだ?」
「さっき、俺たちのこと見てなくても、止めるの間に合ったよな」
「足音が近づいていたからな」
「それで分かるんだ?」
「二人とも、普通に歩いていただろう?」
ルイスはフィリアと顔を見合わせた。
彼女も少し困ったように笑っている。
「……やっぱり、今度教えてくれよ」
「ああ」
レオンは頷き、先へ進んだ。
――――――――――
回廊の終わりで、天井がさらに高くなった。
ルイスは灯具を持ち上げる。
光の先に柱がある。
その向こうにも、また柱。
左右へ広がる空間を見て、ルイスは足を速めかけた。
けれど、今度は先に床へ灯りを向ける。
割れた石のないところを確かめてから、広間へ踏み入った。
「ここが、図面にあった広間?」
「はい」
フィリアが答えた。
声が高い天井へ返り、少し遅れて耳に届く。
回廊よりも冷たい空気が、頬に触れた。
壁際には低い台が並び、中央には、人が何人も囲めそうな石の台があった。四隅には模様が彫られているが、灯りを向けただけでは細部まで見えない。
床には細かな石の欠片が散らばっていた。
その間に、茶色いものが落ちている。
「これ、器の欠片じゃないか?」
ルイスはしゃがみ込んだ。
指を伸ばしかけて、止める。
「拾ってもいい?」
フィリアは隣へ膝をつき、まず周りを照らした。
「先に、この場所を記録させてください」
「分かった」
彼女は柱と台の位置を確かめ、図面の余白に小さく印を付けた。
それから革鞄を開き、薄い布を取り出す。
「この上に置いてもらえますか。縁で手を切らないように」
ルイスは欠片をそっと持ち上げた。
外側は茶色い。
内側には、淡い色が残っている。
フィリアの布へ置くと、欠片は緩く反った形をしていた。
「丸い器だったんだな」
「そうですね。こちらが口の縁のようです」
「壁の人が持ってたやつ?」
「まだ分かりません。大きさも形も、欠片だけでは確かめきれないので」
フィリアは鞄から細い刷毛を出した。
表面の土を軽く払うと、内側の色が少しはっきりする。
ルイスは顔を寄せた。
「昔の人も、色を塗ってたんだ」
「ええ。飾るための色かもしれませんし、器を使うための加工かもしれません」
「ただの欠片なのに、調べることいっぱいあるな」
「ただの欠片ではありませんよ」
フィリアが顔を上げた。
少し強い返事だったので、ルイスは目を丸くする。
彼女もそれに気づき、頬を薄く赤くした。
「……いえ、その。残っている部分にも、分かることがあるので」
「うん。さっき、そう思った」
ルイスが笑う。
フィリアの眉がほどけた。
彼女は欠片の輪郭を描き、布ごと小さな箱へ収めた。
「帰ったら、ギルドで他の出土品と比べてみましょう。似た器があるかもしれません」
「俺も見たい!」
「もちろん」
ルイスは立ち上がり、中央の石台へ顔を向けた。
「ここに、みんなで持ってきてたのかな」
器や籠を抱えた、回廊の人々。
その行き先に、この広間がある。
フィリアも石台を見る。
「供え物を置く場所だった可能性はあります。回廊の彫刻も、そうした場面なら説明できますね」
「じゃあ、神殿とか?」
「その可能性を考えています。ただ、台の形や、残っている文字も調べたいです」
ルイスは広間を見渡した。
今は暗く、静かだ。
けれど、ここへ人が集まっていた頃は、どんな場所だったのだろう。
器を置く音や、話し声が響いていたのだろうか。
何を願って、ここへ来たのだろうか。
「見てみたかったな」
「昔の姿か?」
レオンが尋ねる。
「ああ。どんなふうに使ってたのか」
レオンも石台へ目を向けた。
「俺は、あの回廊を荷物を持って歩くところを見たいな」
「まだ運び方が気になるのかよ!」
「浅い器から、こぼさずに運べたのかは気になる」
フィリアが小さく笑った。
「こぼした人も、いたかもしれませんね」
「いたと思う!」
ルイスはさっきの欠片を思い浮かべた。
誰かが落として割った器だったら。
今の自分たちが、それを見つけて、真剣に覗き込んでいる。
そう考えると、少しおかしかった。
笑い声が、広間へ広がる。
その音が消えかけた時だった。
奥で、何かが擦れた。
ルイスは顔を上げた。
石台の向こうには、さらに通路が続いている。
そこからだった。
レオンが灯具を高く掲げる。
「二人とも、こちらへ」
先ほどまでと変わらない声だった。
けれど、その視線は通路から動かなかった。
ルイスはフィリアの隣へ寄り、腰の短剣へ手を添える。
もう一度、音がした。
硬いものが、石の床を引っ掻いている。
灯りの届かない通路の奥で、何かが動いていた。




