第一章57 『残された少年』
森に、静寂が戻っていた。
先ほどまで響き渡っていた剣戟も、魔法の轟音も、セージの咆哮も聞こえない。
残っているのは、戦いによって抉れた地面と倒れた木々。そして、荒い呼吸を繰り返す騎士や冒険者たちだけだった。
「……終わったんだよな?」
ルイスが小さく呟いた。
「……うん」
カイルは杖を支えにしながら、ゆっくり頷く。
「もう、魔力も感じない」
「そっか……」
ルイスは息を吐き、握り締めていた短剣を下ろした。
右手に灯していた炎も、すでに消えている。
そして。
ルイスは少し離れた場所へ目を向けた。
「……」
そこには、セージが倒れていた。
黒く変形していた腕からは完全に力が抜け、身体を覆っていた紋も色を失っている。
先ほどまで森中を満たしていた赤黒い魔力は、もうどこにもなかった。
「……セージ」
その傍らに、リュートが座っている。
全ての魔力を使い切ったせいで立ち上がることもできないのだろう。
落とした笛を両手で抱くように持ち、ただセージを見つめていた。
「……」
返事はない。
それでもリュートは、しばらくセージから目を離さなかった。
「僕が……」
掠れた声が漏れる。
「僕が、止めたんだ」
その言葉を聞いて、ルイスがリュートへ顔を向けた。
「……ああ」
「僕が笛を吹いて」
リュートは自分の手の中にある笛を見る。
「セージを動けなくして……」
「……」
「ルイスが……」
それ以上は言えなかった。
リュートの手が震える。
「違う」
ルイスが静かに言った。
「……何が?」
「お前が一人でやったんじゃない」
ルイスは戦場を見回した。
傷つきながらも最後まで剣を振ったジョージ。
限界まで魔法を使ったカイル。
騎士たち。
冒険者たち。
そして。
リュート。
「俺だけでも無理だった」
「カイルだけでも」
「ジョージたちだけでも」
ルイスはリュートを見る。
「たぶん、お前だけでも無理だった」
「……」
「みんなで止めたんだ」
「……でも」
リュートは首を横へ振った。
「最後に笛を吹くって決めたのは僕だ」
「……」
「セージに頼まれたからって、それだけじゃない」
リュートは胸元で笛を握り締める。
「僕が考えて」
「僕が決めて」
「吹いた」
その声は震えていた。
けれど。
リュートは言葉を止めなかった。
「だから……」
ゆっくりと顔を上げる。
「逃げたくない」
「リュート……」
「最後のことだけじゃないよ」
リュートは俯いた。
「僕は今まで、セージの言うことを聞いてた」
「魔獣を操った」
「街へ向かわせた」
「研究も手伝った」
少しずつ。
声が小さくなる。
「最初は何をしようとしてるのか、全部分かってたわけじゃない」
「でも……途中からは違った」
リュートの指が笛へ食い込む。
「おかしいって思った」
「魔獣が傷ついてるのも見た」
「このままじゃ、街の人たちまで危ないって……途中から分かってた」
「……」
「それでも」
リュートは唇を噛んだ。
「セージに逆らうのが怖かった」
「セージに捨てられるのが……怖かった」
ルイスは何も言わなかった。
今は。
ただ聞いていた。
「でも」
リュートは首を横へ振る。
「それを理由にしたら駄目なんだと思う」
「……」
「僕は」
震える息を吐く。
「自分で笛を吹いたから」
リュートの目から、一滴の涙が落ちた。
「僕にも責任がある」
その言葉が。
静かになった森へ落ちた。
「……そうだな」
低い声が聞こえた。
「……!」
リュートが顔を上げる。
ジョージだった。
傷ついた騎士たちへ指示を出し終えたのだろう。
剣を鞘へ戻しながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「ジョージ……」
リュートの表情が強張った。
ジョージはセージの亡骸を一度だけ見たあと、リュートへ視線を向ける。
「今の言葉」
「もう一度、私にも言えるか?」
「……」
リュートは少しだけ俯いた。
それから。
逃げずにジョージを見た。
「僕は、セージの命令で魔獣を操いました」
「……」
「魔獣を街へ向かわせました」
「セージの研究も手伝いました」
ジョージは黙って聞いている。
「途中から」
リュートは続ける。
「危ないことをしてるって分かってました」
「それでも……止められなかった」
「なぜだ?」
「……怖かったからです」
リュートは正直に答えた。
「セージは僕を拾ってくれた人だから」
「ずっと育ててくれた人だから」
「逆らったら」
一度。
息が詰まる。
「全部なくなる気がして……」
「……」
「でも」
リュートは笛を見る。
「僕は自分で吹いてた」
「だから」
もう一度、ジョージを見る。
「僕にも責任があります」
ジョージは何も言わなかった。
その沈黙に耐えるように、リュートも目を逸らさない。
やがて。
「そうだ」
ジョージが答えた。
「……はい」
「お前が子供だからといって、やったことが消えるわけではない」
「……」
「魔獣に襲われて怪我をした者がいる」
「街を壊された者もいる」
「恐怖に晒された者も大勢いる」
リュートがゆっくり頷く。
「……はい」
「その者たちに」
ジョージは険しい顔のまま言った。
「セージに命令されていたから仕方がなかった、とだけ言って終わらせるわけにはいかん」
「……分かってます」
「だが」
ジョージの声が少し変わった。
「だからといって」
「全てをお前一人へ背負わせるつもりもない」
「……え?」
リュートが顔を上げる。
「今回の件は、セージだけを倒して終わりではない」
ジョージは崩れ落ちた研究施設の方角を見る。
「何が行われていたのか」
「どこまでお前が関わっていたのか」
「グランベル側にも見落としていたものがなかったのか」
「全て調べる」
「……」
「その上で」
ジョージはリュートを見る。
「お前がこれからどうするのかも含めて、決める」
リュートは目を瞬いた。
「僕を……捕まえないんですか?」
「連れては行く」
「……!」
「街へな」
ジョージは淡々と続けた。
「事情も聞く」
「勝手にどこかへ行かせるわけにもいかん」
「それは……」
「分かってます」
リュートは小さく頷いた。
そこへ。
「待って」
ルイスが口を挟んだ。
「何だ?」
ジョージが振り返る。
「リュートは」
ルイスは少しだけ考えてから続けた。
「俺たちを助けた」
「研究施設でも」
「最後の戦いでも」
「……」
「こいつがいなかったら」
ルイスはセージの方を見る。
「たぶん俺、最後の一撃まで辿り着けなかった」
「僕もそう思う」
カイルも二人のところへ歩いてきた。
「リュートが笛でセージの中の力を抑えてくれなかったら、僕たちだけじゃどうしようもなかった」
「……」
ジョージは二人を見る。
「だから?」
「え?」
「最後に助けたから」
ジョージはルイスへ尋ねた。
「それまでのことを無かったことにするのか?」
「違う」
ルイスはすぐに首を横へ振った。
「じゃあ何だ?」
「……」
ルイスは少し考えた。
難しいことは。
やっぱり苦手だ。
何をすれば正しいのか。
どうすれば全部が公平なのか。
そんなことまで。
ルイスには分からない。
ただ。
「こいつ」
ルイスはリュートの隣へ立った。
「途中で逃げなかった」
「……」
「セージを止めるって自分で決めた」
「研究だって自分で壊した」
「最後も」
リュートを見る。
「一番やりたくなかったことを、自分でやった」
「……ルイス」
「だから」
ルイスはジョージを見る。
「悪いことしたなら、それはちゃんと考えないと駄目だと思う」
「でも」
「これから何をするかまで」
「最初から決めつけなくてもいいんじゃない?」
「……」
ジョージはしばらくルイスを見ていた。
「お前は」
「妙なところで甘いな」
「そう?」
「褒めてはいない」
「そっか」
「でも」
ジョージが僅かに息を吐く。
「間違ってもいない」
「……!」
リュートが目を上げる。
「リュート」
「……はい」
「先ほど言った通りだ」
ジョージはリュートへ向き直る。
「まずは全て話せ」
「知っていることを隠すな」
「そして」
「自分がしたことを」
「自分の目で見ろ」
「……」
「その後で」
ジョージは静かに言った。
「これからを決めろ」
「……はい」
リュートは深く頷いた。
「逃げません」
「そうか」
「僕がしたことも」
「セージがしたことも」
「ちゃんと見ます」
「……」
リュートは自分の手の中にある笛を見る。
これまで。
セージに言われて。
何度も吹いてきた笛。
魔獣へ意思を伝えるために吹いた。
魔獣を動かすためにも使った。
そして最後には。
セージを止めるために。
自分自身の意思で吹いた。
「僕」
リュートが呟く。
「もう」
「誰かに言われたから……」
「そういうのでこの笛を吹くのは、やめます」
「……」
ルイスとカイルが、リュートを見る。
「次に吹く時は」
リュートは笛を胸元へ戻した。
「僕が吹きたいと思った時にする」
「僕が」
「何のために吹くのか」
少しだけ間を置いて。
はっきり言った。
「自分で決めます」
ルイスが笑う。
「うん」
「……何?」
「いや」
「それでいいんじゃない?」
「……」
リュートも。
僅かに笑った。
「君に言われると」
「なんか不安だけど」
「なんで!?」
「普段が普段だから」
「どういう意味だよ!」
「そのままの意味」
「二人とも」
カイルが呆れた顔で割って入る。
「今くらい静かにできないの?」
「俺は静かだった!」
「ルイスが始めたんだよ」
「リュートだろ!」
「どっちでもいいよ……」
カイルが疲れたように肩を落とす。
そのやり取りを聞きながら。
リュートは。
もう一度だけ。
セージへ目を向けた。
「……」
少し前まで。
そこにいた人。
自分を拾い。
育て。
名前をくれた。
たくさんのことを教えてくれた。
そして。
間違った道を進み。
最後には。
自分の手で止めてくれと頼んだ人。
「セージ」
リュートはゆっくりと立ち上がろうとした。
「うわっ」
だが。
魔力を使い切った身体には力が入らず、すぐによろける。
「危なっ!」
ルイスが慌てて支えた。
「無理すんなよ!」
「……ちょっとだけだから」
「何が!?」
「立つだけ」
「立ててないじゃん!」
「……うるさい」
「なんで俺が怒られるんだよ!」
リュートはルイスの肩を借りながら。
それでも。
自分の足で立った。
そして。
セージを見つめる。
「僕」
リュートの目に。
また涙が浮かぶ。
「まだ」
「セージのこと」
「嫌いになれないよ」
最後に自分へ残してくれた言葉を思い出す。
『自分で選びなさい』
「たぶん」
「すぐには無理だと思う」
「……」
「セージがしたことも」
「僕がしたことも」
「これから」
「いっぱい考えると思う」
返事はない。
それでも。
リュートは続ける。
「でも」
涙を手の甲で拭う。
「一つだけ」
「もう決めたよ」
笛へそっと触れる。
「僕は」
「セージと同じ道には」
「もう行かない」
風が。
静かに森を抜けていった。
セージの長い黒髪が、僅かに揺れる。
それが。
返事のように見えたのは。
きっと。
リュートの気のせいだった。
――――――――――
「領主様!」
少し離れた場所から、騎士の声が飛んだ。
「どうした!」
ジョージが振り返る。
声をかけてきた騎士は、崩落した地下施設の方角を指した。
「入口付近を確認していた者から報告です!」
「崩れずに残っている横道が見つかりました!」
「何?」
「内部へ深く入ることはできませんが、一部の部屋は確認できそうです!」
ジョージの表情が引き締まる。
「……研究資料か」
「え?」
ルイスが首を傾げる。
カイルはすぐに意味を理解した。
「そうか」
「施設は壊れたけど」
「研究した記録まで全部消えたとは限らない」
「ああ」
ジョージは崩れた施設を見る。
「今回何が行われていたのか」
「調べられるものは全て持ち帰る」
「でも」
リュートが口を開いた。
「気をつけて」
「……?」
「セージの研究室には」
「魔石だけじゃなくて」
「途中の術式や」
「失敗したものも残ってる」
「触り方を間違えたら危ないかもしれない」
「分かった」
ジョージはすぐに騎士へ向き直った。
「無理に奥へ入るな」
「崩落の危険がある場所には近づくな」
「安全を確認できた範囲だけ調べろ」
「資料や魔石は勝手に触れず、まず魔法使いに確認させろ」
「はっ!」
「それと」
ジョージはリュートを見る。
「あとで」
「何が危険なのか教えてもらうぞ」
「……はい」
「隠すなよ」
「もう隠しません」
「よし」
騎士が仲間の元へ戻っていく。
その背中を見送りながら。
カイルが小さく息を吐いた。
「これで全部終わり」
「……とは」
「まだ言えなさそうだね」
「えー」
ルイスが露骨に嫌そうな顔をした。
「もう終わりでいいだろ」
「何言ってるの」
「調査は必要だよ」
「俺、疲れた」
「僕だって疲れてる!」
「じゃあ明日にしよう!」
「いつもの君なら、すぐにやりたがるのにな」
「だって今日はもう無理だって!」
「……それには同意するけど」
「だろ?」
ルイスが少し笑う。
ジョージはそんな二人を横目で見ながら、騎士たちへ撤収の指示を出し始めた。
誰もが傷つき。
疲れ切っている。
それでも。
戦いは終わった。
グランベルを脅かしていた魔女は。
もういない。
その事実だけが。
今は。
森の中へ静かに残っていた。
――――――――――
崩れた研究施設。
その入口から少し入った場所にある、小さな部屋。
一人の騎士が、倒れた棚を慎重に退けていた。
「……ん?」
瓦礫の下から、一冊の古びた研究記録が姿を現す。
騎士は直接手では触れず、近くにいた魔法使いへ声をかけた。
「これを見てくれ」
「……資料か?」
「ああ」
安全を確認してから。
魔法使いがその本を拾い上げる。
表紙には。
セージ・ナイトシェードの名。
そして。
その下には、小さな文字が残っていた。
『遠隔接続実験・第一段階』
「……遠隔接続?」
騎士が眉をひそめる。
魔法使いが表紙についた土を軽く払った。
「たぶん」
「今回使われていた術式に関係する資料だ」
「森に仕込まれてた魔石を繋いでたやつか?」
「可能性はあるな」
その記録が。
セージが各地の魔石を繋ぎ。
魔獣から力を集めるために試行錯誤していた頃のものだということを。
まだ。
彼らは知らない。
ただ。
二十年という時間をかけて積み重ねられた研究は。
セージが倒れたからといって。
その痕跡まで消えるわけではなかった。
魔女の事件は。
ようやく終わった。
けれど。
そこに何が残されているのか。
それを確かめる仕事は。
まだ。
これから始まるところだった。




